James Setouchi
2024.8.24
藤原定家の歌
藤原定家は俊成の子。『新古今集』撰者。後鳥羽上皇の時代。つまり鎌倉初期。
新古今集から
藤原定家の歌1
38 守覚法親王、五十首歌読ませ侍りけるに
春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空
春の夜のあなたと会っている夢は、短くはかなく跡絶えた。空を見ると、山の峰を離れて横雲が離れていくことだ。恋人は私から離れていく。(『文選(もんぜん)』の楚の襄王の故事ではないが、神女が後朝=きぬぎぬ=の別れを告げるようだ。←新潮古典集成)
春の夜:短い。夢ははかなく終わった。
夢の浮橋:『源氏物語』に同名の巻がある。「浮橋」は川の水面に木を浮かべた橋。不安定でたよりないものに喩えられる。
峰に別るる横雲の空:朝になると雲が山から離れる。
定家の代表作。定家は37歳。春の朝は『枕草子』でもよいものとされる。『源氏』「夢の浮橋」の浮舟と薫の物語も連想させる。(三友社の本他を参照して書いている。以下同じ。)
本歌:風吹けば峰に別るる白雲の絶えてつれなき君が心か
(・・のように、あなたは冷淡にも私から離れていくのね)
定家の歌2
40 守覚法親王家五十首歌に
大空は 梅のにほひに かすみつつ 曇りも果てぬ 春の夜の月
大空は 梅の匂いで 霞みつつも 一方すっかり曇ってしまうわけでもない 春の夜の月であることだよ。
本歌:照りもせず 曇りもはてぬ 春の夜の 朧月夜に しくものぞなき(新古今集55、大江千里)
本歌は、春の夜の朧月夜は、照るわけでもなくすっかり曇るわけでなく、そこが美しいとする。
定家歌は、同趣旨だが、「大空が梅の芳香に満ちて霞む」としたところが斬新。
梅と月の取り合わせは古来詠まれているが、古今集では梅が中心、この歌では月に焦点、と言われる。
定家の歌3
363西行法師、すすめて、百首歌よませはべりけるに、
見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
見わたすとそこには美しいとされる春の桜も秋の紅葉もないことであったなあ。海岸の漁師の粗末な小屋の秋の夕暮れのなんとさびさびとして景色であることか。
『源氏』「明石」巻の「かえって花や紅葉が盛りであるよりも・・」を踏まえる。光源氏が海岸で景色を眺めている風情か。桜や紅葉の色彩のない夕暮れの寂しい風景にこそ奥深い美を感じるというのは、古代的な美意識の頂点から中世的な美意識を切り開くものと言えるのか。何もないところに観念の力で何かを見ようとしていると言うべきか。
なお、三夕(さんせき)の歌の一つ。他の二首は
363寂しさは その色としも なかりけり 槇(まき)立つ山の 秋の夕暮れ(寂蓮法師)
364心なき身にも あはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ(西行法師)
定家4
671駒とめて 袖うちはらふ 陰もなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ
馬を止めて 袖の白雪をうちはらう 物陰もないことだ。佐野(和歌山県新宮市)のあたりの 雪の夕暮れであることだよ。
本歌:万葉集265苦しくも 降り来る雨か 三輪の崎 佐野のわたりに 家もあらなくに(長忌寸奥麿=ながのいみきおきまろ)
苦しいことに降ってくる雨か ここ三輪の崎佐野の渡し場に 身を寄せる人家もないのに
本歌は、二句四区切れ。雨が降る。旅の苦しさを歌う。季節不明。場所は渡し場で川のほとり。和歌山県新宮市の海岸で、紀伊半島の東海岸だ。
定家歌は、三句切れで流麗。栗毛の馬、貴族の衣の色彩、白い雪で、絵画的に冬の夕暮れを歌う。このさい場所がどこかを同定しなくてもいいような感じがする。現実を離れて美しい絵画的な世界を展開しさえすればいいのだろうから。
あなたは、どちらが好みだろうか?
定家5
788母みまかりにける秋、野分しける日、もと住み侍りける所にまかりて
たまゆらの 露も涙も とどまらず なき人恋ふる 宿の秋風
ほんのしばらくの間の 草木の露も私の涙も とどまりはしない。亡き母を恋い慕う この家の秋風に吹かれて。
本歌:暁の 露は涙も とどまらで 恨むる風の 声ぞ残れる(新古今集、秋、372,相模)
本歌は、恋の別れの恨みを歌う。秋の歌。
定家歌は、亡き母を慕う歌にした。「もと住み侍りける所」は五条の俊成の家で、子どもの定家は別居していた。
定家6
953 旅の歌とてよめる
旅人の 袖ふきかへす 秋風に 夕日さびしき 山のかけはし
旅人の袖を吹き返す秋の風に加え、夕日までもさびしい。ここは山の架け橋(桟道)であることだ。
都の栄華とは違う、山中の人気ない桟道に、旅人がいて、秋風が吹く。夕日もさびしい。旅人は孤独だ。
白居易の「長恨歌」に峨眉山の桟道を行くシーンがある。
定家は都で作っているのであって、実際に山中を旅しているのではあるまい。机上の観念でしかないと考えるか? 是か非か。
定家7
1206恋の歌とてよめる
帰るさの ものとや人の ながむらん 待つ夜ながらの 有明の月
あなたは他の女性のところにいて夜を過ごし、朝帰るときのものとして眺めているのだろうか。私にとってはあなたを待ち続けてきてくれないまま見ることになった、この朝の有明の月を。
恋人は自分を裏切って他の女のところで夜を明かしたに違いない。私はあなたを待つばかりで朝を迎えた。同じ有明の月だが・・・
有明の月:陰暦二十日過ぎの、夜遅く昇り朝になってもまだ残っている月。
定家8
1336 水無瀬(みなせ)恋十五首歌合に
白妙(しろたへ)の 袖の別れに 露落ちて 身にしむ色の 秋風ぞ吹く
白い袖を着ている私。あの人と朝別れて涙が袖に落ちる。身に染み入るような色の秋風が吹く。あの人は私に飽きていくのだ。
本歌:
しろたへの袖の別れは惜しけれども 思ひ乱れて許しつるかも(万葉集12巻、3182,作者未詳)
吹き来れば身にもしみける秋風を 色なきものと思ひけるかな(古今六帖、第一)
秋風:「秋」と「飽き」の掛詞。
定家9
1389題知らず
かきやりし その黒髪の 筋ごとに うち伏すほどは 面影ぞ立つ
あの人とともに寝ているときにかき分けてやったあの黒髪の筋ごとに 私が一人寝ているときは 面影になって眼前に立つことだ。
本歌:黒髪の乱れも知らずうち臥せば まづかきやりし人ぞ恋しき(拾遺、755,和泉式部)
本歌は、女性が男性を恋い慕う。
定家歌は、男性が、今は眼前にいない女性を恋い慕う。
『源氏』で源氏が玉鬘の髪をかきやる、また玉鬘の姿を恋い慕う描写がある。(←小学館古典全集)
「し」=過去の助動詞「き」の連体形。「・・た」と訳す。
「ぞ」=係助詞。「面影」を強調している。結びは「立つ」(連体形)
本歌の方は、「人」を強調している。「恋しき」(形容詞の連体形)が結び。「き」だけ助動詞、ととってはいけない。
玉鬘は夕顔と頭中将の娘。夕顔死後長く九州にいた。京都に戻り、源氏に世話をして貰った。大変な美女。多くの男性に言い寄られるが、髭黒大将という無粋な男と突如結婚。
なお、和泉式部も大変な美女で、多くの男性と関係を持った。小式部内侍(ないし)の母親。
定家10 以下、新古今集以外から。各種サイトも参照した。
建保六年内裏歌合、恋歌
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ(新勅撰849)
なかなか来ない人を待つマツという音ではないが、松帆の浦の夕凪の頃に、焼く藻塩のように、身も焦がれるような思いだ。
まつほの浦:松帆の浦。淡路島北端。「まつ」は「待つ」「松」の掛詞。
藻塩(もしほ):海水を掛けた海草を焼いて作る塩。
百人一首にも載る、代表歌。
本歌:笠金村「万葉集」巻六
名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海をとめ ありとは聞けど 見に行かむ 由のなければ ますらをの 心は無しに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 吾はそ恋ふる 船楫を無み(もとは万葉仮名)
(淡路島にいるという乙女に会いに行く手段もないことだ)
本歌は、淡路島にいる乙女に会いに行く手段がない、と男が歌う。
定家は、男が来ないと待ち続ける女の立場で歌う。
定家11
定家は『百人一首』の撰者とされている。
『百人一首』2番
春過ぎて夏来にけらし 白妙のころもほすてふ あまのかぐやま
は、持統天皇の歌ということになっているが、
持統天皇の原作は
春過ぎて夏来たるらし 白妙の衣干したり 天(あめの)の香具山(もとは万葉仮名)
である。
万葉集原歌は、「来たるらし」、「衣干したり」と語調も強い。二句四区切れ。「らし」は根拠を持った推定。その根拠は眼前の天の香具山に干してある衣。白と緑の色彩が強調されている。白い衣は、田植えの神事に早乙女が着る白衣。季節感だけではなくそこに神聖さもある。
天の香具山は大和三山の一つだ。東には三輪山、さらには伊勢。西には二上山、さらには出雲。ここは世界の中心なのだ。
なお持統天皇は天武天皇の妻。薬師寺を作った。(奈良に行ったら薬師寺に行ってみよう。薬師如来と日光・月光菩薩が美しい。東院堂の聖観世音菩薩も美しい。和辻哲郎が『古寺巡礼』で書いている。)
百人一首歌は、「来にけらし」「干すてふ」と柔らかい。二句切れ。四句では切れず五句に続く。「干すと言う」と過去の伝説を踏まえた歌にしている。持統天皇の時代からすでに500年が経っているのだ。
定家12
百人一首4番 山辺赤人の歌は
田子の浦にうち出でて見れば 白妙のふじのたかねに 雪はふりつつ
万葉集原歌は
田児の浦ゆうち出でて見れば 真白にぞ富士の高嶺に 雪はふりける(もとは万葉仮名)
万葉集原歌は、「ゆ」という奈良時代の助詞を使う。「真白にぞ・・ける」と係り結びを用いて、強い。
「雪はふりける」は「降り積もっていたことだなあ」と壮大な実景への賛嘆だろう。山辺赤人は、柿本人麿の頃の宮廷歌人。
百人一首歌は、「に」を用いる。「白妙の」と柔らかい表現を使う。「雪はふりつつ」は、「今もなお雪はしきりに降っていることだ」と、降り続けていることになり、実景ではあり得ないから劣っている、と評価されることもあるが、「余情が限りない」「幻想的に叙景を思い浮かべている」などと高く評価する人もある。
定家13
定家11,12に見るとおり、万葉集原歌に比べると、百人一首は、柔らかい調べに直してある。
また、百人一首1は天智天皇、2は持統天皇、99は後鳥羽上皇、100は順徳上皇の歌。こう並べたのは定家であろうか? 後鳥羽上皇と順徳上皇は、承久の乱で幕府に敗れ、前者は隠岐の島、後者は佐渡島に流された。その時定家の身の処し方は?
定家は「紅旗征戎(こうきせいじゅう)、我が事にあらず」と言ったという(『明月記』)。源平の争乱、あるいは承久の乱のような、政府軍の錦の旗を掲げて賊軍を征伐するなどということは、私の関与することではない、として、ひたすら和歌の道、古典文学の道に打ち込んだという。
日露戦争や太平洋戦争のとき、あるいは現代において、「全国民が正義の戦争に奉仕しているこの国家の一大事に、和歌などにうつつをぬかすとは、非国民だ」と考えるか、「正義の戦争などない、私はもっと長い目で人類の文化や社会に貢献する」と考えるか、あるいは?
ヘンリー・ミラーは、スペイン内戦を見物に行くならいいが義戦を信じて戦闘に参加するのは愚かだ、と言ったとか。(ミラーは自分勝手な人に見えるがもっと大きな精神革命に貢献しようとしていたとも見える。)戦争に兵隊として参加するのではなく超越瞑想(TM)をして全ての人の意識のレベルを上げる方が根本解決になるのだ、と言う先輩がおられたなあ・・・
参考までに、漢詩文については「文章経国(もんじょうけいこく)」思想というものが中国から伝わり、例えば9世紀初めの初めの嵯峨天皇の時代には盛んだった、と言われる。
中国で有名な曹丕の文章経国論(『典論』から)では、
「蓋し文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり。年寿は時有りて尽き、栄楽は 其の身に止まる。二者は必至の常期あり。未だ文章の無窮なるに若かず。是を以 て古の作者は、身を翰墨に寄せ、意を篇籍に 見( あらわ) す。良史の辞に仮( よ) らず、飛馳の 勢に託せずして、声名自ずから後に伝わる。故に西 伯 [周文王] は幽せられて易を演 (の) べ、 周 旦 [周公旦] は 顕 (あらわ )れて礼を制す。隠約を以て務めざるにあらず、康楽を以て思を加う るにあらず。……[中略]…… 融 [孔融] 等已に逝く。唯だ 幹 [徐幹] のみ論を著して一家の 言を成す。」(某論文からの孫引き)
これについての細論はここではひとまず措く。
これらを受けて9世紀初めの嵯峨天皇の時代には漢詩文を隆盛せしめた。唐風文化を受け入れた朝廷において、漢詩の会はしばしば政治的諷諫の場でもあったろう。菅原道真(9世紀末)の漢詩を見ればわかる。(他方摂関家にとってはそれは不都合なことであったかも知れない。)
では、「文章経国」思想は国風の和歌においては引き継がれなかったのか? という問いを立てることができる。
10世紀初めの古今集仮名序を読み直すと、紀貫之は和歌の起源を天地開闢から説き起こし、和歌の効用として「天地を動かし、鬼神を感動させ、男女の仲を和らげ、猛き武士の心を慰める」とは書いている。これは文章経国思想を意識した上で、それをある形で継承し、さらにそれ以上の大きな精神的意義を語ろうとしているようにも見えるし、意図的に政治的発言を回避しているようにも見える。専門家のご意見を承りたい。
新古今に戻れば、実際には、例えば、平安末期から鎌倉にかけての政治的大変動に立ち会って、具体的な政治的内容についてストレートには表現しないが婉曲に触れたとも解釈できる歌がありそうだ。(天台座主慈円の新古今1782番(1201年)などは「月ぞさやけき」の「月」を、真如の月であると同時に後鳥羽上皇と取れば、政治的発言とも解釈できるのでは? 私は専門ではないので詳しい方にご教示願いたい。
文章経国思想はその根本の精神は形を変えて継承されているのではないか? という気がするが・・? それを意識していたからこそ藤原定家は戦乱を前にして「紅旗征伐は我が事にあらず」と敢えて言ってのけた(文章経国はどちらの政治勢力が勝つと言った小さなことにはとらわれない、自分はもっと大きな精神革命に従事しているのだ、と言いたい)のかもしれない・・・?(全て想像です。)
ともあれ、藤原俊成・定家の父子の流れは、御子左家(みこひだりけ)と言って、のちの和歌の流派の淵源のうち最大のものとなった。