James Setouchi

2024.8.24

 

万葉集

 

万葉集1

 『万葉集』は、全4500首という巨大な書物だ。そのうちほんのわずかを紹介しよう。

 旺文社文庫の桜井満訳注の『万葉集』全三巻ほかを参考にする。この本は私レベルにはよかった。

 

 『万葉集』は、現存最古の国民的歌謡集、天皇陛下の歌もあれば防人や東人の歌もある。編集者は不明だが、最終形態に近いところに大伴家持(やかもち)がいたであろう

 

 だが、実は明治以降のナショナルな雰囲気の中で、漢文を排除し、戦闘的で男らしいものと言えば『万葉集』があるよね、と「再発見」「再評価」されたというべきだろう。江戸期には契沖らの研究もあるが、やはり日本の古典の筆頭は『源氏』だろう。明治以降の『万葉集』再発見ブームの中で、正岡子規らも『古今集』以来の伝統を否定して『万葉集』を再評価した。

 

 なぜ五七調なのか? は、高名な専門家に質問したら、いい質問だが、その答えは分かっていない、ということだった。『古事記』などの古代歌謡には、七五調でないものもある(ヤマトタケルの歌など)。

 東歌や防人の歌は、識字階級でない人の歌か、というと、そうではなく、地方にいても字の読み書きできる人たちの歌だと言えるので、『万葉集』は全くの庶民階層を含めた歌集か、と言うと、そうでもない、とその先生が言われた。

 

万葉集2

8 熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと 月待てば潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな

                        額田王(ぬかたのおおきみ)

 伊予の熟田津(三津浜?和気?)の港で朝鮮半島に攻めていくための軍船に乗りこもうと、良い月の出を待っていると潮流も満潮でちょうどよくなってしまった。さあ、今は漕ぎ出そうよ!

 

 斉明天皇(女帝)のとき、朝鮮半島に攻めていく途中で、伊予の道後温泉に立ち寄り、そこからいよいよ攻めていこう! 船出だ! と言うときの歌。額田王(女)が天皇の気持ちを代弁して詠んだのだろう。軍船、月、満潮、兵士たちが眼前に浮かぶ。

 

「な」は上代の終助詞。

五七調、二句四句切れで音読してご覧なさい。

 

 戦争に向かう歌だ。くわばらくわばら。

 

 

万葉集3

20あかねさす紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る

                   額田王(ぬかたのおおきみ、女)

 ムラサキを栽培する園をあちらへこちらへと行き、野の番人は、見ないだろうか、いや、見てしまいますよ、あなたが私に袖を振るのを。

 

あかねさす:「紫」にかかる枕詞。

ムラサキ:薬草か?栽培して、人が入れないように周囲を囲い、標識を立て、番人を置いた。

見ずや:反語

袖振る:魂を招く動作がもと。

 

21むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

                   大海人皇太子(のち天武天皇)

 ムラサキクサのように美しいあなたを、憎いと思うならば、人妻であるのに私は恋い慕うだろうか、いや、人妻でも恋い慕うのは、あなたが憎くないからだ。

 

の:格助詞。比喩。・・のように。

にほふ:美しい

やも:反語。

 

 天智天皇(兄)と天武天皇(弟)と額田王は、三角関係だった、と言う話にすれば面白く、それで小説を書いた人もある。が、668年の天智天皇主宰の狩りのあとの祝宴でふざけて作った歌だと言われる。兄弟はすでに結構な年齢(三十代後半以降)になっている。

 

『源氏物語』に続く「ムラサキの恋の物語」の淵源の一つとされる。

 

 

万葉集4

132石見(いはみ)のや 高角山(たかつのやま)の木(こ)の間より わが振る袖を 妹(いも)見つらんか              柿本人麻呂

石見(島根県)の高角山の木の間から 私が振る袖を 妻は確かに見ているだろうか

 

 柿本人麻呂が石見に妻を置いて上京する時の長歌に添えた、反歌の一つ。人麻呂は長歌が多い。長歌には反歌をつける。反歌は、長歌の内容を要約したり、補足したりする。長歌は長いのでここで紹介しない。

人麻呂は宮廷の職業歌人だったと言う。

 

 

万葉集5

141家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る

                     有間皇子(ありまのみこ)

家にいたら器に盛るご飯を、今は旅の途上なので、椎の葉に盛ることだ。

五七調、二句四句切れ。

草枕:「旅」の枕詞。

し:副助詞

 有間皇子は孝徳天皇の皇子だが、謀反の疑いで護送されている。その帰りに謀殺された。つまりこの歌の旅に「帰り」はなかった。

 

 

万葉集6

235大王は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬(いほり)せるかも 柿本人麻呂

天皇陛下は神でいらっしゃるので 天空の雲の雷の上に 仮の御所をつくっていることだ

 

 ここでは持統天皇(女)を讃えている。このころ、天皇は神だ、というイデオロギーが作られ、語られるようになった。人麻呂も宮廷歌人としてその一翼を担った。

五七調。二句、四句切れ。

し:副助詞。

ます:尊敬語

 

万葉集7

328あをによし奈良の都は 咲く花の薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり

                         小野老(おののおゆ)

奈良の都は 咲く花が匂うように、今まっさかりである。

 

あをによし:奈良にかかる枕詞。「青」と「丹(に)」の色彩の美しいさま。「よし」は間投助詞だとか。色彩に詳しいサイトでは、平城京以前では「あをに」は「顔料のくすんだ黄緑色の色彩」だと書いてあった。平城京は大陸渡来の極彩色の都で、「あをによし」の意味が変わったのだろうか、という示唆が書いてあった。いずれにせよ、枕詞だから訳出しなくてよい。

 

 小野老は太宰府にいて、奈良の都への憧れを歌った。

 

万葉集8-2

337憶良らは今はまからむ 子泣くらむ それその母も 吾(あ)を待つらむぞ

                         山上憶良

私憶良めは今は退出しよう 家で子が泣いているだろうから その子の母も私を待っているだろうから

 

 九州(太宰府)で、宴会をしている。それを断り帰ります、と言うときの口実に、子と妻を出している。同僚からは冷やかしの言葉が浴びせかけられただろうか。憶良は家族思いで子煩悩だったと言われる。こういう歌こそ人間のまごころを歌った真の歌だ、と考えるか、生活臭があるのは芸術としては汚い、と考えるのか? 芸術とは何か? 

 

まからむ:「まかる」(退出する。謙譲語)の未然形+「む」

泣くらむ:「泣く」+現在推量「らむ」

待つらむ:「待つ」+「らむ」

 

 

万葉集8-1

416ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや 雲隠りなむ  大津の皇子

磐余の池に鳴く鴨を、今日を限りに見て、私はきっと死んでいくのであろう。

 

ももづたふ:磐余の「い」の枕詞

雲隠りなむ:「雲隠る」連用形+強意「ぬ」+推量「む」

 

 大津皇子は天武天皇の皇子で人望があったが、陰謀で殺された。自分が殺される直前の歌。

 

 

万葉集9

815正月(むつき)立ち春の来たらば かくしこそ梅を招(を)きつつ楽しき終(を)へめ                       大弐紀卿(だいにのききゃう)

正月になり春が来たなら こうして梅を迎えつつ楽しみを尽そう

 

以下846まで梅についての連作。

 この連作の詞書き(序文)に、730年正月に太宰府の大伴旅人の家で宴会を開いた、梅と蘭の花がある・・などとある。「時に 初春の 令月にして、気淑(よ)く和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は・・・」とある。ここから「令和」という元号を取った。

 その宴会は、大陸の窓口である九州、大陸渡来の梅と蘭、参加者は大陸の人もある。インターナショナルな雰囲気のパーティだったに違いない。

 

 

万葉集10

925ぬばたまの夜のふけゆけば 久木(ひさぎ)生(お)ふる清き河原に 千鳥しば鳴く                                

                            山部赤人

夜が更けていくといつも 常緑樹の生える清らかな吉野川の河原に 千鳥がしきりに鳴く

 

ぬばたまの:夜にかかる枕詞

ふけゆけば:ここは恒時条件。・・するといつも

久木:常緑樹

 

 昼間に見ると常緑樹が生えている。夜は闇で見えないが、千鳥が鳴く。神聖な吉野を歌う。長歌の反歌。

 

 

万葉集11

1418石(いは)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌(も)えいづる春に なりにけるかも  志貴皇子

岩の上のほとばしり流れる滝の上のさわらびが 芽を出す春になってしまったことだなあ

 

垂水:滝。

志貴皇子(しきのみこ):天智天皇の皇子。

あなたは、どこに春を感じているか? 志貴皇子のこの感覚は新鮮で優れている。

 

 

万葉集12

1664夕されば 小倉の山に 伏す鹿の 今夜(こよひ)は鳴かず 寝(い)ねにけらしも 雄略天皇

夕方になるといつも 小倉の山に寝る鹿が 今宵は鳴かない 寝てしまったのであるなあ

 

夕されば:ここは恒時条件で「夕方になるといつも」

寝(い)ねにけらしも:ナ行下二段「寝(い)ぬ」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の連用形+過去推定の助動詞「けらし」(もと「ける」+「らし」)+終助詞「も」

雄略天皇:倭の五王の一人「武」と言われる。

 

1511夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜(こよひ)は鳴かず 寝(い)ねにけらしも 舒明天皇

夕方になるといつも 小倉の山に鳴く鹿が 今宵は鳴かない 寝てしまったのであるなあ

舒明天皇:天智天皇・天武天皇兄弟の父。

 

 舒明天皇と雄略天皇の歌として、少し違うものが載っている。折口信夫は雄略天皇の方を良いとする。

 なお、万葉集1は雄略天皇の歌、2は舒明天皇の歌。どうして彼らを重視しているか? 万葉の時代の人々が、雄略天皇をもって大和朝廷による統一国家の英雄的君主と信じていたことを示唆する、舒明天皇以降を真の万葉の時代と考えていたことを物語る、と桜井満は言う。

 

万葉集13

信濃路は 今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に 足踏ましむな 沓(くつ)はけ わが背    東歌(信濃の国の歌)

信濃(長野県)の道は 最近開墾したばかりの道だ 刈り株に 足を踏みつけなさるな 沓をはけよ、私の夫よ

 

墾道:新しく開墾した道。今治(いまばり、いまはる、など)は今開墾した、新治(にいばり、にいはり、にいばる、など)は新しく開墾した。

足踏ましむな:「足」+「踏む」+尊敬「しむ」+禁止「な」

沓:履き物。古代人は裸足のことも多かったのだろうか?

背:女から見て夫、兄、恋人。                                                              

 

 

万葉集14                                          

4094の一部 海行かば 水漬く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大王(おほきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かへり)みはせじ  大伴家持(やかもち)

海を行けば水につかる屍、山を行けば草が生える屍となって、天皇陛下のおそばで死のう、顧みることはするまい

 

 東北から金を産出したことを喜ぶ長歌の一部。わが大伴氏・大伴軍団は、このような心がけで朝廷に仕えてきました、と述べるくだりの一部分。

 この部分だけを独立させ、戦前戦中は、「君が代」に次ぐ準国歌「海ゆかば」として歌った。特攻に旅立つときに人々がこれを歌って祝った。

 

 

万葉集15

4290春の野に霞たなびきうら悲し この夕影に鶯鳴くも 大伴家持(やかもち)

春の野に霞がたなびき うら悲しい。この夕日の光の中に 鶯が鳴いていることだ。

三句切れ。春愁。

 

4291わが宿のいささ群竹(むらたけ) ふく風の音のかそけき この夕べかも 家持

私の家のわずかな竹林 そこに吹く風の音がかすかな、この夕方であることだ。

二句、四句切れ。繊細な聴覚。

 

4293うらうらに 照れる春日(はるび)に雲雀(ひばり)上がり こころ悲しも 一人し思へば  家持

うららかに照っている春の日差しに 雲雀がぴーひょろろと飛び上がって鳴く が私のこころは悲しいことだ 一人物思いにふけっていると

第三句は字余り。春愁。

 

大伴家持は、どうして春愁にとらわれているのだろうか? 額田王の熟田津の歌などに比べると、随分繊弱で内面的だ。むしろ平安・古今集の感覚に近い。

 

万葉集16

4346父母が 頭(かしら)かきなで 幸(さ)くあれて 言ひし言葉(けとば)ぜ

忘れかねつる  防人(さきもり)の歌。丈部稲麻呂(はせつかべのいなまろ)。

父母が (私が防人にとられる前に)私の頭をかきなでて 「幸せであれ」と言った言葉は 今(こうして防人として九州に来ている今)も忘れかねている。

 

東国出身の防人の歌。

さくあれて:「さくあれと」となるはずだが、方言が入っている。

けとばぜ:「ことばぞ」となるはずだが、方言が入っている。

 

 

万葉集17

4401からこるむ すそに取り付き 泣く子らを 置きてぞ 来ぬや 母(おも)なしにして                              防人の歌。

国造小県郡(くにのみやつこちひさがたのこほり)の他田舎舎人大島(をさだのとねりおほしま)の作。

裾に取り付き泣く子らを 田舎に置いてきてしまったことだよ 母親もいないのに

 

からころむ:「からころも」の方言

 

万葉集18

4425防人に 行くは 誰が背と 問ふ人を 見るが羨(とも)しさ 物思(ものもひ)もせず   防人の妻の歌。

「防人に行くのは誰の夫かしら」と心配そうに問うてくる人を見ることがうらやましいよ。行くのは他ならぬ私の夫なのだ。あの人たちは物思いもせずに。私は夫を兵隊に取られる苦しみで絶望しているのに。

 

 防人は旅費自弁、長期にわたり、帰る保証もなかった。

 

 

万葉集19

短歌を中心に紹介してきたが、万葉集には、短歌以外の形式もある。

 

短歌:五七、五七、七 が基本。

長歌:五七、五七、五七、・・・、五七、七

  長歌には反歌をつけたりする。

  例は省略するが、各自本で(便覧にもある)見ておくとよい。

  柿本人麻呂は長歌の名手だった。

旋頭歌(せどうか):五七七、五七七

  例:佐保川の 岸のつかさの 柴な刈りそね

    ありつつも 春し来たらば 立ち隠るがね  529

  これは、片歌(五七七)を二つ組み合わせた形と言えよう。

仏足石歌:五七五七七七

  例:伊夜彦 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮衣着て 角つきながら 3884

 (仏足石とは、お釈迦様の足跡のもようのある石。それに添えられた歌。薬師寺には21首の歌が刻まれた仏足石がある。それらの歌が上記のリズムで、このリズムを持つ歌を仏足石歌と言う。万葉には3884一首しかない。)

連歌:五七五+別の人が七七

  例:(尼)佐保川の 水をせき上げて 植ゑし田を

    (家持)刈る早飯(わさいひ)は 独りなるべし 1635

 

 

万葉集20 補足

 また、万葉集の時代には、片仮名も平仮名もまだできていなかったので、万葉仮名で書いた。外国渡来の文字である漢字を、むりやりに現地語である日本語に当てはめて表記するのだ。

 訓仮名と音仮名とがある。

(例)訓仮名:吾(あ)

   音仮名:阿(あ)

   夜久毛多津 伊豆毛夜幣賀岐:やくもたつ いづもやへがき

 まだ読めていない字、学者によって読み方が分かれる字もある。古代朝鮮語や中国語を知って読むと読めるかも?

 

 参考までに、

 奈良はナラだが、朝鮮語でナラとは、国という意味だ、(ハンナラ党のナラも同じ、)という意見がある。反論としては「踏みならす」のナラだとの意見がある。平たく踏みならしたところに作った都という含意だろうか? それに「平城京」とあてるのは訓仮名? 

 328ではナラを「寧楽」と表記していて、音仮名。または、安寧で楽しいの意味を込めたか。

 

 

万葉集21 補足

 万葉集こそ日本人の魂の出発点だ、と持ち挙げる人もある。伸びやかな調べが好きだ、名もない庶民の歌も採録されている、という人もある。

 が、万葉以前にも歌謡はある。伸びやかと言うが、背景には血みどろの権力争いがあり、天平時代=天下が平らかでみんなが幸せな時代、というわけでもない。万葉人はおおらかでよい、などということもない。大伴家持は憂鬱な日々を過ごした。東国の何もない庶民の歌があると言うが、実際には識字階級が創作したり筆録したりしている。

 記紀は朝廷関係者によって、ある政治的な意図を持って、編集された。万葉集はどうか? 平安期には橘諸兄が編集したのではという意見が有力だった。江戸の契沖は大伴家持が編集したと言った。本当のところは分かっていない。

 4500首という巨大なものなので、その中には好きな歌もあるかもしれません。手にとってめくって御覧になってみるといいかもしれません。

 

 日本には『万葉集』の他に『古事記』や各地の祭礼の祈りの歌などがある。筆記された本としては8世紀頃の成立だ。

 もっと古い時代から、古代中国には『詩経』『楚辞』などがある。古代ギリシアにはホメロスがいた。古代イスラエルにも詩編がある。古代インドにも『マハーバーラタ』や『バガバッドギーター』がある。

 なお、アイヌや琉球にもそれぞれの韻文(叙事詩を含む)がある。

 

 

万葉集22 補足 記紀歌謡

 万葉集とは別に、『古事記』『日本書紀』に載っている歌謡がある。いくつもあるが、例えば

(1)

『古事記』倭建命(やまとたけるのみこと)がなくなる直前、大和を望郷して歌う歌など

1        倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あをかき) 山隠(ごも)れる 倭し 美(うるは)し

2        命の完(また)けむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を うずに挿(さ)せ その子

(命の無事であろうその人は 平群の山の大きなかしの葉を かんざしにさせ、お前たちよ。くまかし:大きなかしの木。長寿と豊饒を祈り常緑樹の葉をかんざしにしたか。)

3        はしけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居(くもゐ)立ち来(く)も

(懐かしいことだ。私の家の方から 雲が立ち湧き起こってくることだよ)

4        おとめの 床(とこ)の辺(べ)に わが置きし つるぎの太刀 その太刀はや

(乙女の床のあたりに私が置いた剣の太刀 その太刀よ、ああ)

 

これらは、必ずしも五七、七五調になっていない。古代以来の、1大和を讃える歌、2子どもの健康長寿を祈る歌、3故郷をたたえる歌など、祭りや祝い事の歌を、物語の中に借りてきていると言われる。

4は草薙(くさなぎの)剣で三種の神器の一つ。ヤマトタケルが尾張のミヤヅヒメのところに剣を置いて以来草薙の剣の本体は尾張の熱田(あつた)神宮にあることになっている。壇の浦で沈んだのはレプリカ(形代=かたしろ)と説明できる。

 

(2)

『古事記』速須佐之男命(はやすさのをのみこと)が出雲(いづも)で宮殿を作ったときの歌

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を

(「八雲立つ」は出雲の枕詞。出雲八重垣 妻をこもらせるために 八重垣を作る、その八重垣よ)

 

 この歌を読んだとき、男は外で働くが女(妻)は専業主婦として家に押し込むのだという歌に聞こえ、女性にひどいではないか、と私は感じた。

 宮廷祭儀で結婚の祝宴の歌(祝婚歌)としてうたわれてきたものかも知れないが、そうであればなおさら、「妻を押し込める御殿、それはめでたい。男は女のために家を建てるものだ」という観念が語られ再生産されてきているわけだから、これが男女差別の実態だったんだろうな、と感じてきた。(しっかりした家を建ててそこで妻を守る、という、いい意味ではあるのだろうが。)

 リズムは、五七、五七、七、なので、先に紹介したヤマトタケルの歌よりは洗練されている。つまりかなり後世のものかも知れない。

 

 (では、もっと古い時代には、女性は家に押し込むものとは限らない、という考えがあって、大陸渡来の律令の制度や観念が浸透してから、「女は家、男は外」という男女ジェンダー差別が固定化していった可能性もあるな、という仮説を立ててみたくもなるが、これについてはひとまず措いておこう。)