James Setouchi

 

司馬遼太郎 『峠』

 

1 司馬遼太郎について

 大正12(1923)年、大阪生まれ。大阪外国語学校(今の大阪大学外国語学部)の蒙古語学科に学ぶ。学徒動員で陸軍に属し中国大陸に暮らしたことも。終戦後、京都の新日本新聞社、産経新聞社勤務を経て、昭和36年からフリー。

 昭和31年『ペルシャの幻術師』、33~34年『梟(ふくろう)のいる城』(のち『梟の城』)、27年~41年『竜馬がゆく』、37~39年『燃えよ剣』、38~41年『国盗り物語』、39~41年『関ケ原』と書いてきて、41~43年が『峠』と『新史太閤記』。

 

 その後は43~47年『坂の上の雲』。47~51年『翔ぶが如く』、46~51年『街道をゆく』(エッセイ集)、52~54年『項羽と劉邦』、昭和61年~『この国のかたち』(エッセイ集)と続く。平成8(1996)年死去。

 

 歴史小説家として作品の量・質ともに最高の作家の一人。戦国時代、幕末維新期を扱ったものが多い。日露戦争を扱った『坂の上の雲』はとくに有名でNHKテレビドラマにもなった。明治のナショナリズムに共感する人は司馬に最高の賛辞を贈ることが多い。司馬が昭和の狂信的な軍人を嫌っていた点に注目し司馬を評価する人もある。明治と昭和はどう連続しどう断絶しているのか? 近代日本とは一体なんだったのか? 日本(あるいは日本人)とは一体何か?(そもそもそういう問題の立て方自体が可能か、有意味か?)などなど、司馬作品に触発されて考えるべきことは多い。

 

 但し先に言っておくと、小説(虚構)であって、歴史そのものではない。佐藤優は、近代史を歴史小説で理解することの危険を説いている。司馬作品で言えば、代表作『坂の上の雲』は日露戦争を①不可避の②祖国防衛戦争と位置づけるが、本当は①外交交渉で避けられた②植民地の取り合いの戦争だった。さらに③日清日露戦争を通じできていった軍産官学政複合体へのまなざしが弱い④戦場となった大陸の人々の苦しみへのまなざしが大きく欠落している、などなどの問題点がある。

 

2 『峠』

 昭和41年から43年まで新聞連載。作者は当時四十代である。幕末、越後(新潟)の長岡藩の河井継之助を主人公とする。

 

 幕末期の混乱の中、各藩は選択を迫られた。公武合体の政権を作る、薩長の討幕運動に加担する、幕府を支持し薩長と戦うなどの選択肢があった、長岡(譜代)はどうすべきか。

 

 長岡の傑物・河井継之助は出世して家老となる。行政改革を推進、西洋の商人と連携して最新式の軍備を整え、「一藩独立」の道を進もうとした。薩長中心の討幕・維新軍が進軍してきたときは、降伏せず、戦うのでもなく、武装中立であろうとした。だが、現実はこれを許さず、長岡の地は激しい戦闘の舞台となり、大量の血が流れ、長岡は焦土と化してしまった。

 

 河井は、司馬によれば、開明的な見通しを持っていたにもかかわらず、長岡藩士である・武士であるというアイデンティティと美学にこだわった。結果として多くの人を死なせてしまった。それゆえ長岡では、河井の方針が間違っていたとして、河井を批判する人もある。が、この『峠』では、司馬はあえて河井のマイナス面は強調しない。(新潮文庫『峠』下の亀井俊介氏の解説を見よ。)

 

 河井は、小さくても国力のあるスイスに自藩のモデルを見たのだろうか。日本全体としては、各藩が独立して改革を進め、全体として連邦国家のような日本になることを考えていたのだろうか。(スイスは今も連邦国家。)実際には日本は連邦国家ではなく薩長藩閥政府中心の中央集権国家へとなったわけだが、その事実に馴らされてしまった読者は、改めて、近代日本には中央集権国家以外の選択肢もあり得たかもしれないという問いを、この本を読んで持つであろう。

 

 河井のもくろみは失敗に終わった。時代状況からして無理な構想だったと言うべきか? 西洋から買い付けた自藩の軍事力を、河井は過信しすぎたのか? (武器を持ってしまうと、使いたくなってしまうのだ・・)強力な独裁者となった河井を批判してくれる人が、小藩・長岡にはいなくなってしまったのか? こう考えると、長岡藩の悲劇はのちの大日本帝国の悲劇のヒナ型のようですらある。

薩長中心の維新軍と正面切って戦ったのは、他に会津藩が有名だ。NHK大河ドラマ『八重の桜』は会津を扱い、視聴者に強い印象を与えた。会津藩の人々は維新後下北半島に移され苦しみを舐めた。なお会津の家老の子で白虎隊に年齢が幼くて入れなかった山川健次郎は、アメリカに留学し物理学の博士となり東京帝大・京都帝大・九州帝大の総長を歴任した。薩長中心史観では出てこないが、大変な人傑である。

 

 なお、山崎善啓『朝敵松山藩始末記』(創風社出版、2003年)もおもしろい。

    田宮虎彦の小説『落城』はどうですか。