James Setouchi  2024.8.22

近現代の短歌 

 

1      正岡子規

 四国・松山生れ、東京に出て、陸羯南(くがかつなん)の新聞『日本』『ホトトギス』で活動。俳句革新、短歌革新に取り組んだ。写生文を実践し、漱石の文体の誕生に刺激を与えた、と言う人もある。写生画も実にうまい。松山は道後の子規博、東京は鶯谷の子規庵に行ってみよう。思想はどちらかと言えばナショナルな情熱に駆られたグループだったろう。日清戦争に従軍記者として行った。病を得たが、長生きしていたら戦記小説を書いていたに違いない、水野広徳や桜井忠温のように。(想像です。)

 短歌革新については、『歌よみに与ふる書』などで古今集以来の1000年の伝統を否定してみせ、「紀貫之は下手くそ、古今集は下らない、万葉集の方がいい」とした。(実は、明治の万葉集を称揚するナショナルな気運に乗せられていただけで、時代の風潮を批判してのけるだけの見識はなかった、というあたりが正しいのだろうが。)彼の歌集は『竹乃里歌』、伊予は竹の産地で有名。

 正岡子規は「写生」を言った。これは西洋近代の影響で坪内逍遙らが主張した「写実主義」と時代を共にする。

 

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる:実に平易でリズムもよく、庭の景色をよく写生している。明治33年。私はこの歌が好きだ。春雨がやわらかく降って、堅いバラの芽もほころんでくる。

 

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり:子規は病床にいた。横臥した視点から見ると、藤の花が垂れているが、畳に届かない。写実の歌であり、かつもしかしたら自分が短命に終わるかも知れないとの含意を込めているのかもしれない。写実・写生は、それを見ている作者歌人のまんざしという主観が一方にある。

 

いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす:今年が最期の春、と子規は死を覚悟している。

 

久方の(ひさかたの)アメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも:「ひさかたの」を「アメリカ」の「アメ」の枕詞に使用している。子規は松山の「よもだ」の男でもあった、と私は思う。「・・かも」は万葉調。ベースボールは東大・一高が取り入れた新しいスポーツ。子規はそれを松山に持って帰った。腰に赤いタオル(日本手ぬぐいではなく)を巻いた、東京帰りの「のぼさん」は、後輩たちの憧れだった。後輩たちの中に、高浜虚子や河東碧梧桐がいる。

 

柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもありぬしぶきぞうまき:子規は柿が好きだった。柿は日本の農村の風物でもある。渋柿は干すとおいしい。食べたことがありますか?

(脱線するが、イランから来た人が「イランにも田んぼや柿がある、日本に来たとき、あ、イランと同じだ、と思った」と言っていた。なるほど・・・)

 

 

近現代短歌2 伊藤左千夫

 千葉県出身。子規派。根岸短歌会の中心。『馬酔木(あしび)』『アララギ』を創刊。

 

牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いに起る:左千夫は東京の下町の牛乳屋で牛を飼っていた。平安貴族の歌ではない、庶民の自分が歌を詠む、という気概がすばらしい。明治33年以前?

 

天地の(あめつち)の四方(よも)の寄合(よりあひ)を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居(を)り:左千夫は千葉の出身で、九十九里浜が好きだった。天地があたかも四方の垣根のようになっている広大な九十九里の中で、自分は美しい貝を拾っているのだ。

 

おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く:庭に出てみて晩秋の寒さに気づいた。大正5年、「ほろびの光」の連作の一つ。

 

 

近現代短歌3 長塚節(たかし)

 茨城県生れ。子規派。『馬酔木』『アララギ』に参加。小説『土』も有名。病を得て早世。

 

馬追虫(うまおひ)の髭(ひげ)のそよろに来る秋は眼(まなこ)を閉ぢて想(おも)ひ見るべし:秋は、ウマオイの「ひげのそよろ」に来る。実に繊細だ。明治40年。

 

白埴(しらはに)の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり:白磁の花瓶はすばらしい、という賛。絵画にそえた歌。「白埴の瓶」とは? すぐネットで映像を見るとつまらない。想像してみよう。「埴」は「埴輪(はにわ)」の「埴」だから、どうなりますか?

 

垂乳根(たらちね)の母が釣りたる青蚊帳(あをがや)をすがしといねつたるみたれども:

「たらちねの」は枕詞。万葉調ではある。病を得た息子に、年老いた母がかやをつってくれたのだ。「たるんでいるけれども」に万感の思いがある。そう思いませんか? 

 

 

近現代短歌4 島木赤彦

 長野県(諏訪)出身。子規派。『馬酔木』『アララギ』に参加。歌集『馬鈴薯の花』など。

 

夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖(海)の静けさ:夕方、赤い空の下で諏訪湖が氷る直前の静けさを歌う。諏訪神社の神が諏訪湖を渡るという。神聖で荘厳な感覚もある。

 

みずうみの氷は解けてなほ寒し三日月の翳波にうつろふ:諏訪湖。春は近いが、まだ寒い。

 

隣室に書(ふみ)よむ子らの声聞けば心に沁みて行きたかりけり:自分は病で寝ている。隣で子供らが声を出して本を読んでいる。自分は生きたい、と切に思う。

 

信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ:「しまらく:は「しばらく」。日没後も名残の光が黄色く残る。春が待ち遠しい。

 

 

近現代短歌5 斎藤茂吉

 

 山形県出身。東大医学部卒。精神科医。北杜夫の父親。

 伊藤左千夫に学び『馬酔木』『アララギ』で活躍。歌集『赤光(しゃっこう)』『あらたま』『ともしび』『白き山』など。70代まで生きたので、作品も多い。

 

みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞいそぐなりけれ:山形の母が死にそうだというので、上野から汽車に乗って、北へ北へと急ぐのだ。「ただにいそげる」と後に改作。

五七、の二句四句切れ。万葉調。

 

はるばると薬をもちて来(こ)しわれを見守(まもり)たまへりわれは子なれば:東京の最高の薬を持ってきたに違いない。ここは山形の田舎。母が子をじっと見守る。

 

死に近き母に添寝のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天に聞こゆる:「しんしんと」は「深々」「森森」? 茂吉の造語か? 五七調、二句四句切れ、万葉調。

 

我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳(ち)足(た)らひし母よ:ついには母は亡くなる。その瞬間の歌。「生まし」は「お生みになり」。尊敬語。

 

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ね(たらちね)の母は死にたまふなり:「たらちねの」は枕詞。母が亡くなって直後顔を上げると、屋根の梁にツバメが二羽いたのだ。強烈な情景として焼き付いたのだ。

 

星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり:「ははそはの」は枕詞。焼き場で焼いたのだ。以上は大正2年(1913年)の連作「死にたまふ母」から。『赤光』のい載っている。

 

最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも:昭和21年作。歌集『白き山』所収。最上川は大きな川だ。吹雪で風が強く、白波が逆風に煽られて「逆白波」が立っている。「なりにけるかも」は万葉調。自己と対象、人生と自然、主観と客観の合一した「実相観入」の境地と言われる。

 

 なお、『奥の細道』の立石寺のセミを油蝉だと言い張って論争し、行って確かめたら(さすが科学者)油蝉はその季節に鳴かないとわかった、と取り下げた話は有名。

 

 

近現代短歌6 木下利玄(本名としはる、歌人としての名はりげん)

 

 岡山県生れ、木下伯爵家の養子となり、学習院、東大国文科に学ぶ。佐佐木信綱に歌を学ぶ。武者小路実篤、志賀直哉らと交遊、『白樺』派である。

 

街をゆき子供の傍(そば)を通る時蜜柑の香(か)せり冬がまた来る:

子供ゐて蜜柑の香せり駄菓子屋の午後日の当たらぬ店の寒けさ:木下利玄は街で見る子供(蜜柑の香りがする)が好きだったに違いない。歌は平易でわかりやすい。

 

牡丹花(ぼたんくわ)は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ:屋内の座敷の床の間だろう、牡丹の巨大な花が静かに確かな存在感を持って咲いている。私はこの歌も結構好きだ。大正12年作。

 

曼珠沙華一むら燃えて秋陽(あきび)つよしそこ過ぎてゐるしづかなる道:曼珠沙華(ヒガンバナ)は秋分の頃赤く群れて咲く。そこに静かな道がある。この道は彼岸(あの世、仏の世界)に通じているのだろうか。

 

 

近現代短歌7 与謝野鉄幹  本名は寛(ひろし)

 

 京都府生れ。実家は本願寺の僧。落合直文に学ぶ。「亡国の音」で新しい短歌を提唱。歌集『東西南北』新詩社を作り雑誌「明星」を出して多くの弟子を育てた。正岡子規グループと並ぶ短歌革新の双璧だが、子規グループが万葉調・復古調であるのに対し、与謝野グループは浪漫的で情熱的な歌を作った。

 与謝野晶子、山川登美子、石川啄木、北原白秋らが鉄幹の影響を受けた。

 

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子:明治34年。

韓山に、秋かぜ立つや、太刀なでて、われ思ふこと、無きにしもあらず。:

韓にしていかでか死なむわれ死なばをのこの歌ぞまた廃れなむ:朝鮮半島に行って一旗揚げようという歌だ。鉄幹は侵略主義思想の中にいた。(戦争は嫌いだったようだが。)北村透谷が自死したとき「同じこころの友」と悼んだが、決して同じ心ではない、透谷の複雑さを鉄幹はわかっていない、という指摘がある。(北川透など)

 

なお、鉄幹には「人を恋ふる歌」というのもある。その冒頭:

妻(つま)をめどらば才たけて

   見目うるはしくなさけある

  友をえらばば書を読みて

  六分の侠気四分の熱:

妻をめとるなら、才能があって、見た目が美しく、情愛が深い人がよい、

友を選ぶなら、本を読む人、男気のある人、情熱のある人がよい、と言う。是か非か。

 

 なお、与謝野鉄幹の孫は与謝野馨といって、大臣になった。お茶の水に家があった。

 

 

近現代短歌8 与謝野晶子 明治11年~昭和17年

 

 堺の商人の子。旧姓鳳。女学校に学び、与謝野鉄幹を知り、恋に。正妻とライバル・山川登美子を退け、妻の座に。子供を10人以上産んで育てる。『明星』派の代表歌人であり、『源氏物語』全訳をし、文化学院という男女共学の学校を作り、女性の自立を訴えた。

 

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みな美しき:明治34年。鉄幹と結婚した年。23才頃。「き」の音を多用。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君:明治33年。道徳を説いていないで私の柔肌に触れてみよ、とは、随分大胆な歌だ。読者たちは驚愕しただろう。晶子にはこのような大胆な歌が多い。正岡子規グループは、「年端も行かぬ少女が早口に物言うがごとき歌だ」と批判した。

 

海恋し潮の遠鳴り数えては少女(を止め)となりし父母の家:堺の実家の少女時代を懐かしんでいる。ロマンティックな少女の姿が浮かぶ。

 

金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に:

劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ:文化学院を作る時の歌。人類が文化を歴史の初めから築いてきた。自分もそこに参加する、と言っている。

 

ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟:コクリコはひなげし。明治45年、シベリア鉄道経由でフランスに行った。

 

 なお、「君死にたまふことなかれ」は、日露戦争時、弟を思う真心で読んだが、批判を受け社会問題化した。晶子はここで社会問題に覚醒したに違いない。もともとの非戦・反戦論者というわけではなかったろう。日露戦争に反対したのは、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦ら。他にも多数。非戦論、反戦論を抑えて戦争をしたがったのは、誰かな? まずは、自分では戦争(殺し合い)に行かずに、戦争(武器製造など)で金儲けをする人たちであったに違いない。

 

 

近現代短歌9 山川登美子

 

 福井県生れ。大阪の梅花女学校卒。新詩社で活躍。早世した。

 

山うづめ雪ぞ降りくるかがり火を百千(ももち)執(と)らせて御墓(みはか)まもらむ:父の喪の歌。「・・降り来る」で切る、二句切れ。

 

わが棺(ひつぎ)まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく:病床で自分の死後の様子を幻視しているのだ。

 

父君に召されて去なむ永遠(とことは)の夢あたたかき蓬莱のしま:辞世の歌。

 

 

近現代の短歌10 吉井勇

 

 東京生れ。吉井伯爵家。『明星』で活躍したが脱退し『スバル』を作る。

 

君にちかふ阿蘇のけむりの絶ゆるとも万葉集の歌ほろぶとも:そうなっても君への愛は変わらない、という誓いの歌だろう。

 源実朝「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心我あらめやも」

 平野国臣「わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島やま」

などと比べてみよう。

 

かにかくに祇園はこひし寐(ぬ)るときも枕のしたを水のながるる:祇園の茶屋か何かで寝ているのだろうか。

 

稲佐にて見し露西亞むすめいまいかに寂しき頬の忘られぬかな:長崎の稲佐山近くにはロシア人の寄る場所があった。仲良くしていたのだよ。

 

大三島近づくほどに海のいろ太古のごとく深く澄み來ぬ:

義経の鎧まばゆし緋縅しの眞紅の糸のいまか燃ゆがに:

 瀬戸内海の大三島を訪れたときの歌。

 

 吉井勇は各地を旅しては歌を詠んだ。

 

 

近現代の短歌11 石川啄木

 

 岩手県出身。実家は寺。盛岡中学中退。東京や北海道で働いたが早世。『明星』派で、詩集『あこがれ』、歌集『一握の砂』『悲しき玩具』、評論『時代閉塞の現状』などもある。

 三行分かち書きで歌を表記した。ローマ字日記も書いた。幸徳秋水事件(国歌の犯罪)に注目した。

 

東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる:東海の小島とは? ユーラシア大陸全体を見わたせば、日本が東海の小島。

 

たはむれに母を背負いて/そのあまり軽きに泣きて/散歩あゆまず:

 

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ:本来は盛岡中学というエリート校のしかも成績優秀者だったのだが、今や落ちぶれている。花は高価なものを買ったに違いない。金銭感覚、生活能力は、あまりなかった。妻への愛はある。妻は中学時代に恋に落ち怠学・退学の原因となった堀合節子(石川節子)。(節子も二十代で早世。)

 

不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心:盛岡中学は不来方城の公園内にあった。授業を抜け出して空を見ていたのだ。

 

やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに:故郷の北上川が目に浮かぶ。故郷との関係は単純ではない。父親は故郷を追われ、自分も中学をドロップアウトした。

 

新しき明日の来(きた)るを信ずといふ/自分の言葉に/嘘はなけれどー:ジャーナリストになり、社会主義思想にも触れた。「けれど・・」の「・・」に万感の思いがある。貧窮の中で子供が死に、啄木も早世。惜しい若者を死なせた、大日本帝国は何を押し潰したのか、しっかり目を見開いて見る必要がある。

 

 

近現代の短歌12 北原白秋

 

 福岡県出身。『明星』派。やがて脱退し『スバル』へ。詩集『邪宗門』、歌集『桐の花』『雲母(きらら)集』など。雑誌『多磨』を作り多くの弟子を育てた。

 

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外(と)の面(も)の草に日の入る夕(ゆふべ):「な鳴きそ」は「鳴くな」。春の夕景、赤い日差しが照り込む。ただでさえ感傷的になっているのに、これ以上春の鳥よ鳴いてくれるな。

 

いつしかに春の名残となりにけり昆布干場のたんぽぽの花:明治43年の歌。神奈川県の三浦半島の三崎にて。後にここに移住。

 

石崖に子ども七人腰かけて河豚(ふぐ)を釣り居り夕焼小焼:童謡のようだ。

 

昼ながらかすかに光る螢一つ孟宗の藪を出でて消えたり:藪の中に居るときは光って見えたホタルが、竹藪の外に出ると見えなくなった。静かな境地だ。

 

白秋は不倫をして刑務所にいたこともある。妻は3人。

童謡や校歌も多く作っている。

 

 

近現代の短歌13 若山牧水

 

 宮崎県生れ。尾上柴舟に歌を学ぶ。歌集『海の声』『独り歌へる』『別離』『くろ土』など。旅と酒の歌人。

 

白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ:空の青、海の青にも染まず漂う白鳥。哀しくないのか? あるいは、哀しいではないか! ともとれる。「青」「あを」と書き分けたのはなぜ? 「悲し」でなく「哀し」としたのはなぜ? 

 

幾山河(いくやまかは)越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく:寂しさを終わらせようと旅をするのだ。(幸福の青い鳥は家にある、とは考えていない。)

 

海底(うなぞこ)に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり:人間の残念な部分を見てしまった自分には、いっそ海底で何も見えない魚の方がいい。

(だが、海底のチョウチンアンコウの雄と雌の関係を聞くと、そうも言ってられないはずだと思うが、若山牧水は多分知らないのだろう。これは余談。十代でこの歌を学習したとき印象が強烈だった。)

 

 

近現代短歌14 釈迢空(しゃくちょうくう)(折口信夫=おちくちしのぶ)

 

 大阪府生れ。天王寺中学、國學院大學。柳田民俗学をある形で継承発展させた。『古代研究』歌集『海やまのあいだ』『春のことぶれ』、小説『死者の書』。歌人としては『アララギ』経由。

 

たびごヽろもろくなり来(き)ぬ。志摩のはて 安乗(あのり)の崎に、燈(ひ)の明り見ゆ:大正元年作。志摩の果てのあのりの崎の燈台が見える。明治天皇が崩御した(あの『こころ』に出てくる)夏だ。まだ若い(二十代の)釈迢空は、旅をし、感傷的な気分になっている。

 

葛(くづ)の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり:大正13年。壱岐の島の山中を歩いているときの歌。「この山道を行きし人」とは、少し前に歩いた人かもしれないが、同時に、この道は古代以来人びとが歩き続けてきた道だ。歩いた人は古代人かも知れない。

 

鶏(とり)の子の ひろき屋庭(やには)に出(い)でゐるが、夕焼けどきを過ぎて さびしも:大正13年。自分がたまたま訪問した家で、母鶏はくびられ鶏肉になった。そのヒヨコが庭で遊んでいるが、夕方を過ぎてしみじみ寂しいことだ。こうして昔から人間は生きてきた。

 

 釈迢空は、歌に「、」「。」をつけたり、一字空けにしたり、三行分かち書きにしたりした。釈迢空(折口信夫)は万葉集や記紀など古代研究のプロなので、歌は五七五七七だけではないと知っていたのだ。

 

 

近現代短歌15 岡本かの子(岡本太郎の母)

 

 東京出身。「明星」派出身。

 

東京の街の憂ひの流るるや隅田の川は灰色に行く:若い頃の歌。隅田川は灰色に流れている。

 

十方世界に月照れれども草むらはおぐらくしてぞ虫啼けりけり:大蔵経(だいぞうきょう)という巨大な仏教の経典全集を10年かけて読んだ時の歌。

 

桜ばないのち一杯にさくからに生命をかけてわが眺めたり:

年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり:

 

 

近現代短歌16 浅野純一

 

 京都府生れ。小学校を出て働いた。プロレタリア歌人。こういうのもあると知っておきたい。

 

党旗の行くところはどこでも戦場だ俺達の大山を駅まで送れ

 

同志社も京大も君を追ひ出したのだ君の歩いた道はみな戦場だ

 

兵卒は哀れだ悲惨だ意志なしだ機械人形だまたかけだした

 

調書はうそでたらめだ検事奴が創作したのだ彼は小説家だ

 

 

近現代短歌17 西出朝風

 

 石川県生れ。明治末に朝風社を作る。のち純正詩社。

 

あすもまた洋服をきてでてゆくか、/ボタンのやうにこころを閉ぢて

 

あたらしい夜あけか、ながい日のいりか、/ひと住む空にかかるかがやき

 

うつむいて行くはかなしい、あふむいて/行くはさびしい、街の秋かぜ。

 

三十になって子をおきつまをおき/ゆくへもしらぬ旅へけふ立つ。

 

ぴすとるか、爆裂檀家、げつ琴か、/死ぬか、ころすか、旅におくるか。

 

すが子等が死刑ときまる、つまは病む、/こころさびしい冬のゆふぐれ。

 

*このように、口語の歌を作った。過激な歌もある。なお、「すが子」は管野スガで(1881~1911)大逆事件(明治43=1910年)で死刑になった女性。韓国併合は1910年。漱石『こころ』は1914年。日露戦争(1904~05)で勝って大国になったと大きな声で言う人があるが、他方では、韓国併合、大逆事件もあり、「こころさびしい冬のゆふぐれ」と歌った人もある。

 

 

近現代短歌18 西村陽吉

 

 東京生れ。書店員をした。石川啄木の影響で社会主義的・生活派的な歌を詠んだ。歌集『都市居住者』。やがてプロレタリア短歌ではないアナキズム短歌を提唱。

                    

大きな夢を実現させたレーニンよ けふはどんたくで 僕は遊びだ:レーニンが出てくる。

 

ヰスキイと葉巻のやうに強烈でそしてさみしい大杉も死んだ:大杉は大杉栄。関東大震災(1923)の時、憲兵・甘粕大尉に虐殺された。

 

マルクスを考へてゐた頭の上に こんなにも古風な月が出ていた

 

春くればモリスが描いたユトピアの 楽しい村に けふもあこがれる:モリスとは、ウイリアム・モリス(19世紀)のこと。イギリスの工芸家、社会主義思想家。『ユートピアだより』を書いた。

 

かうもたやすく戦争といふ言葉が口にされるモッブの心理をおそれる

 

 

近現代短歌19 渡辺順三

 

 富山県生れ。プロレタリア短歌。戦後、新日本歌人協会を創立。

 

マルクスもクロポトキンも/ よけれども/われ今日一日の米を欲りせり

 

雪国の寒さにちぢむ/われらの前に/欠食児童の素足が/ ちらちらする

 

戦争に/肉体も神経も疲れはて、/彷徨(さまよ)ふごとくこの村に来た。

 

権力に媚びてへつらふ/醜さを、/われ幾人(いくたり)に見しことならむ。

 

あいつ赤と、うしろ指さされ、/つまはじきされつつ生きし/ 十年なりき。

 

日本人立入禁止の柵ありて、/星条旗立つ。/ ここよりは異国。

 

 

近現代短歌20 赤石茂

 

 京都府生れ。プロレタリア短歌。

 

この工場にや陸海軍御用達て看板がぶら下つてるんだ。戦道具飛道具何でもこさへるピストン掛の荒くれ男だ

 

ボイラーが亦(また)火を吐きやがった畜生! 真赤に溶けた鉄の鍋を犬ころのやうに持運びだホテつた顔から汗も出ねえぞ糞!

 

浚渫船(しゅんせつせん)が新河を掘りエキスカが土堤をゑぐるこの工事場で俺は一杯五銭のトロ押しだ:エキスカとは、土を掘る機械。トロ押しとは、モルタルなどを入れた箱を手押ししているのだろうか。よく知らない。

 

→こんな表現もあるのか! と思う歌もあるはずだ。俳句に比べれば短歌は字数が多い分多少複雑な情念や自意識を盛り込むこともできる。万葉には「長歌」があり、世界には長編「叙事詩」(ホメロスなど)もある。長編小説なら多様な声、多様な価値観を盛り込み問うことができる(ポリフォニーになる)。ドストエフスキーの長編がそれだ。自分の小さな世界を表現して終わるのではない。共同体の歌に埋没してしまうのでもない。世界観そのものを問い直すのだ。では、短歌でそれは可能か?(俳句では明らかに無理。)韻律の流れに流されて思考停止し戦争礼讃の軍歌を歌わされ特攻に行った時代を私たちは知っている。与謝野鉄幹の歌を見よ。軍歌を見よ。「海行かば・・・」は大伴家持の長歌の一部だ。三好達治も髙村光太郎も戦争礼讃の詩歌を作った。その韻律の流れをあえて切断し「ちょっと待て!」と立ち止まり思考しなおす態度が大事なのかも知れない。い かがでしょう・・・? 

                  参考:吉本隆明『抒情の論理』ほか