James Setouchi

 

読書会記録 2024年8月17日(土) 松尾芭蕉『奥の細道』

 

(レポーターのレポートと、参加者の発言とを、区別せず示した。少し補足した。信頼できるメンバーの集合的な知識に信頼する、という考え方からである。但し読者は、全てを信じず、安易に引用せず、個々に検証してみてください。)

 

 松尾芭蕉1622~1694。江戸時代前半の人。生まれは伊賀上野で、江戸を中心に活躍、諸国を旅し、大坂で没した。

 

 松尾桃青とも言う。母の出自が伊予宇和島の百地氏であるとしてモモ→桃、青は未熟を示す謙遜表現だ、李白にあやかり、李→桃、白→青、としたなど諸説あるが、根拠はないらしい。

 

 伊賀上野の士分待遇の農民の出。兵農分離以降で、公家・武家ではないが百姓の中でも上位の名主・庄屋クラス、また医者などは、武家に準ずるクラスだったから、そのクラスか? 藤堂良忠(2歳上)に仕え俳諧のお相手をした。そこで松永貞徳派の北村季吟の影響を受けた。良忠が早世し、その後不明の数年間があったが、京都の寺で学んでいたという推測もある。西山宗因の談林派の俳諧を学び、江戸に下向し芭蕉庵に住み蕉風俳諧を創始。多くの弟子を育てた。

 

 貞門と談林と蕉風はどう違うのか? 貞門は、古典復興を行った北村季吟もいるように、古典の土台がある。芭蕉はまずは古典復興の気運を学んで出てきているはず。談林は、言葉遊びで新奇なものが多い。井原西鶴は談林の出身で、口数が多くにぎやかだ。蕉風は、「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」でわかるように、わびしい草庵の暮らしに風流を見いだすなど、芸術として高みを目指している。

 

 各地を旅し紀行文を多く書いた。弟子たちと『芭蕉七部集』(『冬の日』『春の日』・・『炭俵』『続猿蓑』)を編んだ。「不易流行」の理念を提出した。「わび」「さび」「しをり」「細み」「軽み」などが蕉風の美の理念。

 

 「不易流行」とは? 芭蕉が言ったかどうかは知らないが、弟子の向井去来が『去来抄』で述べている。多くの弟子は、不易の句と流行の句がある、と理解したが、去来は、不易と流行はそう取るべきではないとした。(このへん『去来抄』を読んでいないのであいまい。)『奥の細道』の旅で経験した、無常迅速とも見える宇宙が、実は不易不変なものだ、という世界観を、文芸において述べたもの、とする意見がある。現代でも「不易」=変わらない普遍性、「流行」=時代によって変わる姿、といった日常用語で使われる。

 

 「さび」「わび」とは? 平安末期・鎌倉の美は幽玄・妖艶で、華やかな桜ではなく山里のわびしくさびさびとした風情をよしとした。「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」。中世の禅宗の影響もあり、茶道には「わび茶」がある。信長や秀吉は金ピカが好きだったが、芭蕉は改めて「わび」「さび」に回帰したと言える。「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)」は年末の客の来ない寒々とした情景。これか? どうかな?

 

 和歌や俳句は庶民のものか? 文字なき民にも口承文芸があった。ただし共同体の祭礼の歌と個人の内面を歌う歌は違う。歌う人は少しづつ自分の工夫を加えて改編していったかも。記紀歌謡もそれか。万葉集あたりで文字化されるが、東歌や防人の歌も、歌を詠む人は、全くの無学無教養の人ではなく、ある程度の知識人だったのでは。太宰府は国際都市で、今で言うと「みなとみらい」のような場所では。そこで外来植物であるウメを愛でて万葉集に載せた。参加者の出身も中国、朝鮮半島、日本というインターナショナルな会合だった。それを、明治以降のナショナリズムや戦後の民主主義運動の中で、万葉集=全国民的歌集、とやってしまったのでは。伊藤左千夫(正岡子規の弟子)は、牛を飼い牛乳屋をやっていたので「牛飼いが歌作るとき世の中の新しき歌大いに起こる」と詠んだ。

 

 万葉集の山上憶良の歌は子煩悩を歌い貧乏を歌う(それも杜甫の影響だが)。万葉集にも東歌や防人の歌がある。が、古今集以下二十一代集は、皇族・貴族の歌が中心だ。(「君が代」の前身「我が君は千代に八千代に・・」は詠み人知らず。)だから国民大衆から遊離していると見て、伊藤左千夫は庶民の歌を詠むぞ、と宣言した。昭和浪曼派の某氏は万葉集の山上憶良の歌を「きたない」「そんなものを歌うべきではない」とした。歌うべきは、生活から遊離した美的なものであるべきか? それとも、庶民の生活に根ざしたものであるべきか?

 

 江戸期は平和になり識字率も上がった。その中で俳諧など文字文化が相当に広がったとは言えそう。芭蕉の弟子は豊かな町人、あるいは上級武士など。俳諧の世界では俳号を用いフィクショナルな場面ではあるが一応平等な世界を演出しているが、元に戻ればやはり豪商や上級武士だったとすれば?

 

 『奥の細道』は、芭蕉最後の紀行文曽良と東北を旅した。旅の後何度も書き改め、没後に出版。全てが事実ではなく、虚構を多く用いている。曽良の随行日記と比較する研究もある。例えば、まずは草加(『奥の細道』による)に泊まったのか、春日部(曽良による)に泊まったのか? なぜそうしたのか? 芭蕉の創作意識、文芸意識を見て取るべき。では、文芸、芸術とは一体何か? 何のために?

 

 当時の東北のイメージは? 江戸や京の人にとってどう見えていたのか? 知らない。そう言えば、坂上田村麻呂から見れば「夷狄」だ。「蝦夷」は騎馬で戦い実戦力があったので、八幡太郎源義家はそこから学んだ。東北の奥州藤原は金で栄えていた。北回りルートで大陸への通路もあった。日蓮聖人は弟子を渤海にやっている。鎌倉幕府は鎌倉で京都に対抗できるものを作ろうとした(鎌倉大仏、禅宗寺院、金沢文庫など)。鎌倉時代末の兼好法師は、関東の人の方が京の人よりも豊かだ、と言っている。関東管領、北条氏や伊達氏の戦国大名の時代を経て、徳川家康が関東に入る。江戸では河川などの大改良を行い、巨大都市を建設した。「ブラタモリ」などでやっていた。東北では上杉(北陸→会津→米沢)、伊達(仙台)、南部(岩手)、相馬(福島)、佐竹(秋田)などがあった。参勤交代もあるので、ヒト・モノ・カネが行き交い、随分一体化が進んできているのではないか、という印象がある。それでも徒歩旅行であり、芭蕉が当時として高齢であることを考えると、旅に死ぬ可能性はあったろう。

 

 『奥の細道』の後世への意義だが、まずは、教科書に載って中学生も学習するので、全国民必須の基本教養の一つになった、とも言える。俳諧と俳句は違うが、今日の俳句ブームを準備する土台の一つではある。

 

 蕉風俳諧の後世への意義として、談林を越えた独自の世界を築いた、各地に弟子がいて俳諧文化を広めた。がやがてマンネリ化するので、改革派として与謝蕪村や小林一茶が出た。正岡子規や夏井いつきもそういう一人と言えるかも。蕪村は「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」と古典・歴史を踏まえた。一茶は「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」とは何とわかりやすい。子規については略。坪内稔典の「三月の甘納豆のうふふふふ」を芭蕉が見たら何と言うか? 不易流行だからそれでいいのか、となるのか。金子兜太は好感の持てるおじさんだったが、子規・虚子以来の伝統俳句というよりは革新的な現代俳句のイメージだ。だから国際HAIKUとも親和的になりうるのだろう。

 

 詩歌を共通の教養とした時代があったが、戦後に失われてしまったのか? いや、その問いは雑すぎる。江戸期は左国史漢(春秋左氏伝、国語、史記、漢書)は必須だった。武士=教養人は儒学を勉強し歌を詠む。(俳諧についてはどの程度どのクラスが享受したか、知らない。)詩歌と言えば漢詩と和歌。明治以降西洋の詩歌が入ってきて、伝統的な詩歌を否定する動きもあったが、耐えずカウンターが出てきて、漢詩文や和歌や俳句は残った。漱石も乃木も漢詩を書いた。芥川は平安の説話を材料にして小説を書いた。昭和初めのモボ・モガたちは古典を学んでいないかも。谷崎は古典に詳しいが、ナオミは古典を読みましたか? 戦時中は漢文調で軍国主義を叫んだので、戦後すぐ漢文否定の動きもあったが、すぐ「逆コース」で古典は再評価された。1960年代の大学生はフランスやロシアの文学を読んだが、80年代頃か、危機感を持った保守党政治家が古典(万葉集など)を学校で必須に持っていった。今の若者が出遭っている事態は、もっとあとのものだろう。新自由主義・グローバリニズムが押し寄せ、英語と金儲けとパソコンだけやったらいい、コスパとタイパが大事、株で稼ごう、という時代になり、漢字は書けない、漢文は読めない、古典は読まない、世界文学も読まない、という時代が来た。危機感を持った例えば藤原正彦(数学者)は本を読め、古典を読め、と言う。だが読む人と読まない人は二極分化し、読まない人はサッカーと五輪でわーわー騒ぐばかりで本は全く読まない。これでいいのだろうか? 学校でもグラフと数字と実用英語とPCばかりで、大事なことが抜けているのでは? STEAM教育では大事なこと(価値観について学ぶ。洗脳教育ではなく)が学べない。韓国はもっと前にIT化が進み、日本よりも深刻になっているようだ。BTSら韓国の若者は自分の名前を漢字で書けないのでは? 中国の簡体字も簡略化しすぎて漢字の元の意味が見えない。表意文字は大事だと思うが・・? 危機感を持った人が詩吟や書道を始めるが、サッカーや五輪に勝てない。

 

 大学入試はペーパー一発でやるべきか、活動実績を重視すべきか? 科挙はどうだったか。今の日本の入試はすでに活動実績重視の特別選抜などが増えている。すると、活動実績を上げられる都会の富裕層の師弟が有利になる。中高時代に2回アメリカに留学でき、東大の近くに住んで東大の先生に総合学習や探究のコーチをして貰った人と、アルバイトで家計を補ってきた人では、前者が有利。すると、階層格差の拡大と固定化が進むパックンは新聞配達の実績をハーバードが評価してくれたと言っていたが・・? オバマ大統領は、教育を受ける機会だけは十分に平等に供給するので、各自努力してほしい、と言っていた。前提としての機会均等、機会の平等、機会の公平、は、必須だろう。失敗しても失敗しても何回でも立ち上がれる環境の整備。その上で、やる気を起こさせるコーチングが大事。

 

   「学力」だけではダメで「人間力」が大事だ、とは、しばしば言われるが、では、そもそも「学力」「人間力」とは何か? は深く考察されていないのでは? 

 1964年の東京五輪以前は、農林水産業が盛んで、自然の中で生活し食べ物を作り出す「生活力」のある人が今よりも沢山いた。今の人は都会人になってしまったので、ヤギの飼い方もカボチャの育て方も知らないだろう。

 また、チームを率いて優勝する力(組織力、実践力)を「人間力」と言うなら、テロ部隊を率いて大規模テロを実行したあの人は「人間力」があった!? ということになってしまう。おかしな話だ。

 100人のうち25人の支持を取り付けてイベントを実行したら「良かった」人25人、「まあ良かった」人50人だが、「いやでたまらなかった」「騒音で死にそうだった」「実際に引きこもりになり死んでしまった」人が25人いた場合、主催者は「人間力」があった、と言えるだろうか? いや、言えない。

 中学生が手下を引き連れて少数者をいじめて不登校や自死においやった時、いじめのボスは「人間力があった」と言えようか? いや、言えない。

 人を死に至らしめるのではなく、死にかけている人をも生かす力のある人を「人間力」のある人と言う。釈尊やキリストはそういう力を持った方であった。

 だが、多くの人は愚かにもその価値を理解せず、群衆の熱狂のままにキリストを処刑した。

 出家した釈尊、国を離れた孔子、死刑になったソクラテスやキリストは、「人間力」がなかった、ことになるのか? おかしな話だ。

 テロ部隊を率いて敵を殲滅するのではなく、敵味方の区別なく誰をも生かすことのできる人をこそ「人間力」のある人と呼びたい。「おれたち」「やつら」と敵を作って勝ちに行っているうちはダメだ。

 異質な価値観の人と共生するには? 異文化を理解し受容できるために「学力」が必要。「学力」も含めて「人間力」だ。中村哲は「人間力」があった代表だろう。

 

 韓国でも中国でも座学の勉強至上主義がひどい(韓国は活動実績なるものをつくりだすためにあたふたと提出物を作るのに追われているとか。中国では北京大学に入るために毎日14時間くらい勉強したと真顔で言っていた)ので、韓国も中国も将来が心配だ。日本の若者は逆に「学力なんか要らない」の大合唱のせいで勉強しない若者が増えた(既に大人になった)。ダンスやゲームやスポーツをしていさえすればいい若者(大人も)。思考停止が起きている。かつ最近の評価システムの変化で、意欲がありそうに見せるだけで高い評価が貰え、学力自体は空洞化していく(ナンチャッテ学力、見せかけ学力、偽装学力)、ということが起こるだろうから、これも将来が心配だ。発言の回数と提出物だけが多く、中身はない、ネット検索でコピペしたレポートなど。

 もちろんペーパーテストの記号だけとか単純な年号だけ覚えていれば良いようなテストではダメですよ。でもいろんな意味の学力は、必ず要る。例えば、価値観の違う相手を理解し対話する学力。「コーラン」を読み理解しダリー語で話し合い、石の技術を使って皆で水路を作る学力。中村哲は、「学力」があった。あるいは、高度なテキストを正しく読み理解し批判し自分の意見を述べる「学力」。東アジア情勢やウクライナ情勢、またパレスチナ情勢について、あなたはどんな答案が書ける(提案が出せる)のか。これも「学力」が要る。これらも含めて「人間力」であり、「学力」と「人間力」は二項対立ではない。「学力」のないところで組織力と実行力だけある者は、他の者に利用され使い捨てられる、ただのテロ部隊になり下がり得る。

 

 まずは『奥の細道』冒頭を読んだ。「草の戸も住み替はる世ぞ雛の家」は、ひな祭りを眼前に見てはいない。ここはイリュージョンだ。写生句ではない。

 

 この句を見てどこまで読めるのか。予備知識が無いと読めない。年中行事も家族構成も今は変化している。どうしても注釈が要る。17音では所詮語れないのだ。予備知識や教養の無いものにも享受できる文化とは? 俳諧や俳文は高度に文章をつづめてあり、素人には読みにくい。一部の人だけのものだ、と言われても仕方が無い。桑原武夫は、古典の魂をわかりやすく伝えればいいのであって、古文漢文の細かい修辞法や文法などやらなくていい(一部の専門家を育てる必要はある)と言っている。英仏でもエリートはラテン語ギリシア語が必須だったが、今やそこは後退しており、現代の課題を扱うのにコストを割いている、と。但し今も一部ケンブリッジなどでは古典に強い凄い人を育てている。但し古典をダシにして間違った解釈で人を扇動する人がいるから、一般人にも、アジテーターの嘘を見抜く学力は必要。古典の魂をアニメなどに表現して正確に伝えうるだろうか? 

 

 この旅立ちを見ると、死ぬかもしれない旅だが、明るい感じがある。これは挨拶の句だからか。山本健吉が、俳句の本質は「あいさつ、こっけい、即興」と言ったとか。 

 

 「上野谷中の桜」も眼前にはない。そこは桜の名所ではあるが、ここでは季節的にイリュージョンだ。上野寛永寺は東叡山といって、京の比叡山を東に写した格好。東叡山と日光山には皇族(輪王寺宮)を据え、イザというときに備えたと言われる! 谷中(やなか)には寺が多い。江戸城を挟んで鬼門に寛永寺、裏鬼門に芝の増上寺(東京タワーの下)を置き将軍の墓を置いた。上野は江戸の庶民にとってテーマパーク。戊辰戦争では佐幕派の軍事拠点になった。明治以降も博覧会会場などになった。

 

 隅田川を船で上り、千住で上陸。ここで弟子と別れる。「行く春や鳥啼き魚の目も泪」でも、水中の魚の目は見えていないので、空の鳥も水中の魚も泣いている、というイリュージョンだろう。ここで泪橋という橋が千住にあり、処刑場に行く者を家族が泣いて送る場所のようだ。自分も死ぬかも知れない旅に出る。生死の分かれ道の意味で「泪」の字を当てているのでは。

 

 松島は明るい、象潟は寂しい。太平洋側は明るく、日本海側はうら寂しい、という伝統的な観念でそう作っているのではないか、との説(岩波文庫解説)がある。とするとやはりリアリズムではない。一歩間違えるとパターン化したマンネリズムに陥る。だが、当時は日本海側航路の方がメジャーだったのでは? どうなのか?

 

 歌枕とは何か? 実際に旅をした人もあろう。が、新古今などは、京都にいてそこを詠っている。芭蕉は江戸時代なので平和な時代で街道や宿場も整備されていたから実際に旅に出ることができた、と誰かが言っている。もともとそこは神様がいて、歌で神様のご機嫌を慰めた、という説あり(民俗学系)。

 

 立石寺は必見。巨大な奇岩に寺院の建物があちこちに立っている。写真で見てわかったきになるか、文字で想像するか、実際に行って見るか。どう違うか。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」のセミは何ゼミか? アブラゼミかニイニイゼミかの論争が既にある。注釈上は7月13日には油蝉は聞こえない。いや、そんなことはどうでもいいのであって、世界全体の静けさに浸ればいいのだ。いや、夕暮れのヒグラシが静かに鳴き、やがて声が消えていく位の静けさでは? ヒグラシはそこで鳴くのか? 王籍の漢詩に類句がある。いや、ここは死霊の声が聞こえたのだ。いや、道元の身心脱落の世界だ。いや、これはキリスト教の「平安」に一番近い感覚では? 「平和」=「シャローム」には、戦争のない平和、社会の安寧、内面の平安、の意味がある。すべて充たされるべきだ。そこに静けさがあり平安がある。世俗のせわしさから離れた閑寂の世界。それを、書くことで取り戻そうとしているのか? 「古池や蛙とびこむ水の音」はどうか。その音が宇宙全体に広がる。そこに世界と自己の一体化がなされ、平安・静けさがある。これを芸術と呼ぶか、宗教とどう違うのか? むしろ禅宗の世界ではないか?

 

 ラストも読んだ。大垣から揖斐川を船で下り伊勢に行くのだ。「ふたみに分かれ」は、しゃれ。昭和のだじゃれレベル。旅立ちは「行く春」だが重いが、ラストは「行く秋」なのに、しゃれを入れて軽やかなのは何故? それが「軽み」の境地なのか? 大垣から伊勢は街道も整備されていて楽な旅行のイメージだったのかな。伊賀上野にいたので土地勘もあったかも。私は知らないのだが、大垣の弟子に会ったのは、どこかですでに会ったことがあって、ここで再会しているのか? 死んだ人間が蘇ったかのように喜んだ、というところ。

 

 芭蕉(~1694)は最後は大坂で死ぬ。芥川龍之介の『枯野抄』は芥川独自の世界だが、面白い。大坂には井原西鶴(~1693)というビッグネームがいた。西鶴が死んで初めて芭蕉は大坂に入れたが、すぐ亡くなったのだ、と誰かが言っていた。

 

 番外編で、西洋の騎士道と日本の武士道はどう違うか? という議論が出た。西洋の騎士道をよく知らないが、お姫様への献身がある。日本ではあまり聞かない。武士道については別に論ずるであろう。

 また、日本の神社と寺は隣接どころか一体化しているのは何故か、という問いもあった。これはもともと神仏習合が本来形で、廃仏毀釈がおかしい、とまずは言える。キリスト教も、土地土地の民間信仰などと習合しながら広がった、とは言える。キリスト教だけは純粋なものがずっと継承されているのだよ、とするのは、誤り。純粋化し夾雑物を排除しようとすれば、クロムウェルのように、クリスマスをやめないといけなくなる。

 さらに、和辻哲郎の『風土』はどうなのか、という話も出た。これは省略。(狭い日本しか知らない若者にとって、日本とは違う世界があると知ることは、嬉しかったかも。だが、風土が精神(倫理)を規定してしまうとなると、日本には日本の宗教や道徳があってそれ以外はないよね、という偏狭なナショナリズムに陥る。なお、偏狭なナショナリズムを言う人は、北海道・北日本と西日本・沖縄では自然風土が全く違うことも失念してそれを言う。)和辻『古寺巡礼』『人間の学としての倫理学』はお薦め。奈良に行ってみよう。薬師寺の薬師如来、日光月光菩薩、東院堂の観音菩薩が最高だ。和辻が讃えているとおりだ。

 

 次は『徒然草』で、序文、「仁和寺にある法師」、「丹波に出雲といふ所」、ラストを中心に、加えて、小林秀雄『徒然草』を。9月下旬になりそう。決まったら再度ここに書く。R6.8.18