James Setouchi

 

  加賀乙彦『殉教者』講談社文庫(小説)

 

1 著者 加賀乙彦:1929年東京生まれ。東大医学部卒業後精神科医として勤務の傍ら創作。『フランドルの冬』『帰らざる夏』『宣告』『湿原』『永遠の都』『錨のない船』『高山右近』『ザビエルとその弟子』『不幸な国の幸福論』『ああ父よ ああ母よ』『わたしの芭蕉』『雲の都』『殉教者』など。東京拘置所に勤務し死刑判決を受けた人たちのカウンセリングをしていたこともある。(講談社文庫の著者紹介ほかから)

 

2 『殉教者』:伝記的小説。江戸時代初期、長崎のペトロ岐部カスイは、キリシタン弾圧から逃れ、海路と陸路ではるかエルサレム、ローマへと旅をし、イエズス会の司祭となる。海路再び日本に戻り、信徒を励まし、ついに殉教する。その生涯を紹介している。その間に、ペドロ岐部カスイの心中の対話として、イエスとその使徒たち、聖フランチェスコ、イグナチオ・ロヨラらの事跡が織り込まれており、加賀乙彦はキリスト教(カトリック、特にイエズス会)の紹介と自らの信仰告白をしようとしているかのごとくである。キリスト教(カトリック)の入門書としても読めるし、江戸時代初期のキリシタン弾圧を知る入り口にもなるし、当時の世界地理(世界史で学習する)の入門書にもなる。

 

3 主人公:ペトロ岐部カスイ:どこまでが史実でどこからが創作かは分からない。本作では、岐部は九州の大友氏の武士・水軍でキリシタンの家に1587年に生まれた。幼くして長崎のセミナリオに学びキリスト教の信仰心厚く、ラテン語も堪能。キリシタン弾圧の日本を離れエルサレムとローマへの旅を決行。数十年前の天正の遣欧少年使節たちと違い、権力の後ろ盾のないところで、水夫や隊商の駱駝引きをしながら、海路と陸路でエルサレム、さらにローマへ。イエズス会の司祭となる。リスボン、アフリカ、東南アジアを経て海路帰国。迫害の中で信者を励ます旅を東北まで続けるが、ついに捕縛され1639年52才で殉教。

 

4 主人公のルート:1615年長崎近くの港→マニラ→マカオ→マラッカ→ゴア(インド)→ホルムズ海峡→ウブッラ(現在のクウェート)ここまで海路、ここから陸路でオスマン帝国支配下を→バグダード(イラク)→アレッポ(シリア)→ダマスカス→ガリラヤ湖→エルサレム→イスタンブール→ついにイタリアに入り→ヴェネツィア→アッシジ→ローマ。ここで司祭に。→海路でバルセロナ→一時モンセラート(モンセラット)に立ち寄る→マドリード→リスボン。ここから海路喜望峰を回りゴア→マニラ→マカオ→アユタヤ(タイ)を目指すがオランダ船団に襲われマラッカへ→アユタヤ→再びマニラ→南西諸島を経て九州に戻る。1630年。→東北へ→捕縛され江戸で殉教。1639年のことだった。印象的な場面が多くある。その一つは、陸路沙漠を隊商で横断しているところだ。砂嵐が「砂の大河」となって空中を流れ、その中で「まん丸の真っ白な太陽」が輝く。「何と巨大な、悠然とした、そして美しい存在であることか。」(講談社文庫79頁)ここは、圧倒的な髙みから人間をみおろす唯一絶対の神のイメージか。ガリラヤ湖の描写も美しい。「岸辺は一面、華やかな春の花園であった。…赤、白、黄、紫の花がこぼれるように咲き誇り、好い香りを送ってきた。」(同88~89頁)そうだ。キリスト教は沙漠の宗教ではない。ガリラヤ湖の岸辺は花が咲き乱れ豊かで美しい。そこでイエスは貧しい人、差別された人たちとともにいた。あるいはまた、エルサレムやローマ、またモンセラート修道院の描写。これらの場所で、岐部は、イエスや使徒たち、またアッシジの聖フレンチェスコイグナチオ・ロヨラについて思いを致す。往事の情景がありありと岐部に現われる。これらの場所を、著者加賀乙彦が自ら訪れたとき、同じ聖書の情景が加賀乙彦に現われたに違いない。これは著者自身の信仰告白でもあると私は思った。

 

5 付記:

①     主人公岐部を駆り立てたものは何か? それは、まずは「聖地巡礼への志」(加賀乙彦の言葉。文庫「あとがき」251頁)であり、さらにはイエス・キリストと同じように(「イミタチオ・クリスティ」=「キリストにならいて」という言葉もある)生き同じように死にたい(それは召命の喜びの死である)という強い願い(信仰心)だろう。岐部に加賀乙彦なりの解釈を与えたということだろう。

 

②     遠藤周作の『沈黙』では、フェレイラもロドリゴも棄教するが、神は「(踏み絵を)踏むがいい。私は踏まれるため…十字架を背負ったのだ」と語る。遠藤には『銃と十字架』という、同じく岐部を扱った著作がある。その本では、本国で迫害されている人を捨てて西行した岐部は負い目を感じていた、岐部が帰国したのは、迫害される信徒たちと苦しみを分かち合おうとした、本当のキリスト教は他国を蹂躙するものではなくただ愛のためにあると示したかった、と書いてある(小学館P+DBOOKS)。

 

③     幕府がキリシタンを弾圧したのであって、キリシタンが幕府を弾圧したのではない。信仰を捨てないキリシタンが頑なだと言う前にこの点を押さえておきたい。

 

④     岐部はローマなどでも本場の聖堂やミサの壮麗さに感動する。内村鑑三らに言わせれば「ちょっと待て」ということになりそうだ。

 

⑤     陸路ではオスマン帝国の支配、海路ではポルトガルやイスパニア、またオランダやイギリスの軍艦が交錯する中を岐部は進んでいく。一方に地上の政治・経済・軍事の争いがあって、他方に時代社会を超え、貧しい人苦しむ人と共に在る神の愛が輝く。岐部は地上の争いに翻弄されつつも神の召命により信仰に生きる、という構造になっている。

 

⑥     岐部の生き方を見ると、大義に生きて死ぬ、というあり方が、江戸以降の(また新渡戸稲造の)高潔な武士道とキリシタンの生き方とに共通していることが改めて実感できる。勝つために嘘や裏切りなど何でもする卑怯な武士道ではない、大義に殉ずる高潔な武士道は、キリシタンとの出会いにおいて誕生したに違いない。

 

⑦     カスイとは、活水のこと。岐部の号のようだ。活水は、死水の対語で、淀むことなく流れ動く水の謂であるが、キリスト教ヨハネ福音書などでは、キリストそのものであり、これを飲む者はリフレッシュされ、永遠の命に至る息吹が湧き出る、の意味がある(活水女子大のサイトから)。

 

⑧     アッシジの聖フランチェスコ:(1181?~1226)富裕な商人の子で若いころは堕落した生活をしていたが、あるときキリストにならいて清貧・貞潔・奉仕の人生を決意、フランシスコ会を創設。

 

⑨     イグナチオ・ロヨラ(イグナチティウス・デ・ロヨラ):(1491~1556)バスク地方のロヨラ城出身。軍隊出の負傷、マンレサの洞窟での修行、エルサレム巡礼を経て司祭になる決意を固め、32才でスペインのサラマンカ大学でラテン語の勉強を始める。37才でパリ大学聖バルバラ学院に入学、フランシスコ・ザビエルらと知り合う。43才で学位取得。1540年イエズス会(ジェスイット教団)創立。(上智大学のサイトを参照した。)

 

⑩     フランシスコ・ザビエル:(1506~1552)バスク地方出身。ロヨラと出会いイエズス会に参加。インドのゴア、マラッカ、日本などで布教。日本では九州、山口、京都などを訪れる。ゴア帰還後中国を目指すが広東上陸目前で死亡。

 

⑪     モンセラート(モンセラット):スペインのバルセロナ近くにある修道院。奇岩の囲む中にある。9世に黒い聖母が発見されたとされる。ベネディクトゥス修道会所属で11世紀に修道院が出来た。(聖ベネディクトゥスは500年ころの人。イタリアのモンテ・カッシノ修道院を作った。その修道会が後世の各修道会に大きな影響を与えた。)(なお、モンセラートは、ロヨラが籠った洞窟のマンレサ(これもバルセロナの近く)とは別。)(時系列にすると6世紀ベネディクトゥス、13世紀フランチェスコ、16世紀ロヨラ。)

 

⑫     東北のキリシタン:伊達政宗の命で支倉常長はメキシコ経由でスペイン、ローマを訪れた。仙台藩士後藤寿庵はキリシタンで、政宗の厚遇を受け布教。が、幕府と連動して伊達はキリシタンを弾圧。多くのキリシタンが処刑された(殉教した)。東北にイエスのゆかりの土地がある、と俗説に言うのは、これと何か関係があるのだろうか?

 

⑬ラテン語:西洋キリスト教カトリック世界の公用語。司祭たちはラテン語で意思疎通した。