James Setouchi

 

平野啓一郎『ドーン』講談社文庫 (2009年単行本、2012年文庫)

 

1        平野啓一郎 

 1975年~。愛知県生まれ、京大法学部卒。在学中に書いた『日蝕』で1999年芥川賞。2002年『葬送』。2009年『ドーン』でBunkamuraドゥマゴ文学賞。『一月物語』『高瀬川』『顔のない裸体たち』『滴り落ちる時計たちの波紋』『決壊』『かたちだけの愛』『私とは何か 「個人」から「分人」へ』『ショパンを嗜む』『透明な迷宮』『「生命力の行方 変わりゆく世界と分人主義』など。(文庫の著者紹介から)

 

2        『ドーン』(ややネタバレ)  小説。2009年単行本で講談社から出版。

 ドーンとは、夜明けという意味だが、ここでは有人火星探査宇宙船の名前。そのプロジェクトを「ドーン・プロジェクト」と言う。

 

 この小説は、近未来SFミステリー文学と言うべきか? 決してディストピア小説ではなく、未来に希望を持って踏み出す提案を持った作品だ。主人公は有人火星探査宇宙船の乗組員である佐野明日人。日本人外科医で、JAXAから派遣されNASAにいる。火星探査の二年半の旅を終えた。時代設定は2036年のアメリカ。大統領選のさなかで、共和党と民主党が競り合っている。東アフリカでは国家が溶解しひどい内戦が起きている。アメリカは低所得者層が軍と民間会社にルクルートされ、東アフリカの戦場に行き、死んでいく。監視カメラがネットワーク化され、誰でもが誰でもを顔認証検索できる《散影》が普及している。対抗措置として〈可塑整形〉も普及している。自在に顔を変えられるのだ。もちろんそれを見破るべく《散影》もバージョンアップする。車はほぼ自動運転だが、トラフィック・ウィルスの侵入により事故も起きる。AR(拡張現実)という特殊技術は、映像を用いて空間中に人格を出現させることが出来る。《ウィキノベル》とは、誰でもが参加して書き換えてよいネット上の小説サイト。実在の人物について世界中の人が好きなように書き換えている。

 

 ミステリー仕立てで物語は進行する。強力な生物兵器〝ニンジャ〟を開発したのは誰か。〝ニンジャ〟で殺害されたジャック・ダニエルの本当の正体は何か。AR研究者ディーン・エアーズとはだれか。火星探査機《ドーン》の中で、美貌の宇宙飛行士リリアンが妊娠・中絶した。相手は誰か。リリアンは共和党の副大統領候補の娘だ。大統領選の陰謀、駆け引きとも濃厚に絡まり大スキャンダルとなる。

 

 佐野明日人は火星帰りのヒーローだが、苦悩を抱えている。妻は今日子。二人は10年前の東京大震災で息子の太陽を亡くした痛みを抱えている。AR技術者ディーン・エアーズは息子の太陽のAR映像を作る。今日子は息子のARとともに家で過ごしている。佐野とリリアンの関係は。

 

 大統領選は、共和党候補はブッシュをさらに典型化したような人物。民主党候補は、特に強烈なカリスマ性はないが、この人のために自分が何かしなければ、と思わせる人物。過酷なアメリカの現実に対し、激烈な討論が為される。ここも読みどころだ。共和党候補は言う、「悪との戦いに勝ち抜かねばならぬ、誰かが介入しなければ東アフリカの事態は収拾できない、それをするのはアメリカだ、戦場で死んだ兵士は英雄として遇せられる、むだにアメリカの若者を死なせないためにも勝れたハイテク兵器を開発する必要がある」などなど。対して民主党候補は言う、「自己愛に満ちた姿は見苦しい、民間戦争会社によるものを加えると死者は5万人超だ、すべては利権の巣窟と化した、貧困な若者が他に選択肢なく戦場に送られる、政治の失敗を戦争によって現政権は隠蔽している、現実を兵器の側に合わせこれら兵器を活用できる作戦を立てているのだ」などなど。ここはぜひ読んで考えて頂きたいところだ。火星探査もレアメタルの入手のため宇宙飛行士の安全を犠牲にして敢行したのではないか? などの疑惑が語られる。

 

 さらに、《ドーン》および〝ニンジャ〟を巡る真相暴露が重なり、そしてどうなるのか? この後はご自分でお読み下さい。佐野明日人に未来は開けるのか? 本作はある形で未来へ向けて一歩を踏み出す作品になっている。

 なお、本作では「分人主義dividualism」という人間観が語られる。個人individualとは違い、相手によって時期によって異なる複数の「分人dividual」を人は持って生きている。平野啓一郎はこの「分人」について繰り返し考察するが、私には煩雑に感じた。従来の「ペルソナ(人格、仮面)」が複数ある、という言い方でどうしていけないのか、と感じた。