James Setouchi

 

俳句1    

 

俳句について、私が偉そうに言うこともないと思うが、あまり他の人が言わないことを書いてみよう。

 

 先に断っておくと、俳句にはいい面もある。

1 私の母は高齢で近所の俳句の先生や俳句仲間のおかげで俳句作りを楽しんできた。ありがたいことだ。感謝している。

 

2 正岡子規は血を吐く病だったが俳句なら表現できた。ロシアの長編小説のようなものは無理だったろうが。

 

3 上野千鶴子(フェミニスト)はあるとき失語症になったが、尾崎放哉の自由律俳句に出会い、「このような表現も出来るのか」と目からうろこが落ちる思いをして、言葉を取り戻していった、とご本人が書いていた。

 

4 第1次大戦の悲惨な塹壕の中で、それでも文学表現を求めるフランス人は(すでに万博などで日本文化が紹介されていたので)ハイクを作った。ユーゴ内戦のときもユーゴの人がハイクを作った。

 

→このように、高齢者、病気の人、戦争中など、大変なときにも俳句は十七音という短さ故に、作りやすく、参加しすく、人びとの文学(表現)への欲求をある程度満たすことが出来る。

 

5 私自身は例えば川端茅舎(ぼうしゃ)の「ぜんまいののの字ばかりの寂光土(じゃっこうど)」という句は好きである。秋桜子の美しい句もさすがで、葛飾に行けば水田の側に桃の籬(まがき)があるのかなと思ったりする。

 

 しかし、俳句にはやはり問題(限界)がある。

1 誰でも参加できるはずなのに(それゆえに?)俳句会は四分五裂し論争を始める。「あんなものは俳句ではない」と互いに言い始めると大変なことになる。実際、俳句の流派や雑誌は、分裂して限りなくある。某地方都市で東京のエライ人が地元新聞の俳壇に載ったある句を「こんなものが載っているようではこの県も…」と言い出したとき、会場がシーン…となった。

 

2 短詩型文学であるが故に、言いたいことが十分盛り込めない。深い思想が入らない。ドストエフスキーや漱石が長編小説に込めた複雑な思想は、俳句十七音には、ついに入らない。

 

3 十七音で短詩なので、言いたいことが分からず、解釈が分かれやすい。解説が別に必要になる。有名な例では「いくたびも雪の深さを尋ねけり」という子規の句は、東京で寝たきりの子規が風流心を欠かさず降雪の具合を家人に尋ねた、というものだが、そういう説明がないと、雪の降らない暖冬でスキー場の経営者が「今年はスキー場経営できるかな、客は来るかな」と問うた句、とも読めてしまう。これは有名な笑い話だ。十七音では正確な伝達は無理だった、ということになる。

 

4 この問題を鋭く指摘したのは戦後すぐの桑原武夫『第二芸術』だ。高浜虚子大先生の、教科書に載らない無名の句と、小学5年生の句とを並べて、それが虚子のか当ててもらおうとすると、人びとは大抵間違う。結局「虚子の」という名前でありがたがっているに過ぎない、芸術ではなく、芸に過ぎない、強いて言えば第二芸術だ、と批判した。近現代人の精神的な苦悩は、十七音に載るはずがなく、フランスやロシアや漱石の小説位を持ってこないとダメだ、というのは、私も同感だ。最近若手で俳句を作る人が桑原武夫の『第二芸術』を批判しようとしている例も散見するが、私の知る限り周辺を攻撃するだけで、本質を射抜いてはいない。

 

 同様のことが短歌でもソネット(14行詩)でも言えるだろうが、17音の俳句は特にこれが言えるはずだ。

 

 

俳句2 正岡子規

 子規は俳句革新と短歌革新を行った。褒める人は写生文も言う。写生画もうまい。小説にも挑戦したが挫折している。

 

 正岡子規は病で短命だったが、もし元気で長生きしていたら? 戦記文学を書いたのではないか? 万葉集を称揚したり日清戦争の従軍記者となったりしたことからも、相当にナショナルな情熱があっただろうが、そこから「戦争とは何か」「国家とは何か」「近代とは何か」「いかに平和を構築するか」といった深い問いに進み、最終的に反戦・平和論にまで深化していけたかどうか、は分からない。早世したので。

 

春や昔十五万石の城下哉(かな):子規の地元・JR松山駅前に巨大な石碑がある。松山藩は十五万石の親藩(松平)。第2次長州征伐にまじめに参加し長州に返り討ちに遭い戊辰戦争では戦うか降伏するかで議論し降伏・和平の道を選んだ。明治維新では朝敵(朝敵は徳川慶喜、会津、長岡、桑名だけではない)とされ土佐に占領され賠償金を払わされ貧乏になった。殿様の奨学金で子規は東京へ。期待されたエリートだったが…

 

行く我にとゞまる汝(なれ)に秋二つ:日清戦争の帰路喀血し松山の漱石の下宿で一時生活した。その後子規は奈良を経て東京へ。その時の句。M28。松山中の後身である松山東高校の中庭に句碑(石碑)が立っている。

 

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺:その途中奈良を訪れ法隆寺近くの茶店に立ち寄った。小中学校で学習するはず。これをヒントに(?)「教会の鐘聖らかにぶどう園」とか作った人がいたような…

 

柿の実のあまきもありぬ柿の実の渋きもありぬ渋きぞうまき:子規は柿が大好きだったのだ。渋柿の渋の抜き方を知っていますか? 

 

行かば我れ筆の花散る処まで:従軍記者として行く決意、引いては文筆家として命をかける決意だろう。この句は結構浪漫派で、まるで与謝野鉄幹の歌だ。これを投稿したら「写生句ではないからダメ」と言われそうだが…

 

梨咲くや戦のあとの崩れ家:朝鮮半島、大連にて。戦争が庶民の暮らしを破壊したことを見てはいる。そこに梨の花が咲いている。「夏草や」「国破れて山河あり」の同工異曲とも言える。難しい思想を言わず、美しい自然に身を委ねることに、日本人の安心立命はある、と小林秀雄は言い、川端康成も同様の講演をノーベル章受賞時に行った。是か非か。

 

 

俳句3 河東碧梧桐

松山出身。新傾向句を作った。子規の弟子だが、虚子とは方向が違った。

 

赤い椿白い椿と落ちにけり:これは最も有名。

君を待たしたよ桜ちる中をあるく

曳(ひ)かれる牛が辻でずっと見回した 秋空だ

正月の日記どうしても五行で足るのであつて

 

 

俳句4 高浜虚子

 松山出身。『ホトトギス』の中心となった。長生きした。虚子が頑張ったので今日の俳句の隆盛の基礎があるのだろう。子規(のぼさん)が野球(ベースボール)を松山に持って帰った。虚子(キヨシさん)や碧梧桐(秉公=へいこう)はそれに憧れた。のぼさんは赤い西洋タオルをしていた。日本手ぬぐいが当たり前の時代に、赤い西洋タオルはいかにもカッコイイものに映っただろう。

 

遠山に日の当りたる枯野かな:最も有名な句の一つ。

桐一葉日当りながら落ちにけり:同上。

流れ行く大根の葉の早さかな:「易水(えきすい)にねぶか流るる寒さかな」(与謝蕪村)を意識していたかどうか。

 

去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの:S25作。

 

 松山市の北部・旧北条市柳原に虚子が幼少時住んだ場所があり、像が建っている。酸性雨で痛んで古びたお地蔵さんのようになっている。桑原武夫の『第二芸術』に対しても言わば無視を決め込んで長生きをしたタフさに学ぶ(あやかる)べきかも知れない。(アントニオ猪木の挑戦を無視し続けたジャイアント馬場のような・・?)

 

 

俳句5 飯田蛇笏(いいだだこつ)

 山梨県で頑張った人。

芋の露連山影を正しうす:近景(芋の露)と遠景(連山)なのか、連山は芋の露の中に映っているのか。

 

秋たつや川瀬にまじる風のおと

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

冬滝のきけば相つぐこだまかな

 

 山梨生れで、東京の京北中(巣鴨にある)、早稲田大に学ぶが、山梨の田舎に定位して生活し、句を作った。子どもも俳人になった(飯田龍太)。このように、地元に定位して頑張る人は凄いことは凄いのだ。東京でないと文学(芸術一般も)はできないのか? どうなのか。

 

 

俳句6 夏目漱石

 

お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花;旅立つ子規を送るときの句。松山東高校の中庭に碑がある。

 

あるほどの菊投げいれよ棺の中:大塚楠緒子がなくなったときの句

 

厳かに松明(まつ)振り行くや星月夜:明治天皇崩御の時の句。

御隠れになった後から鶏頭かな:同上。

 

 『こころ』で明治天皇崩御を扱っているが…

 漱石も悩むことの多い人間だったので、山水画趣味と同様、俳諧趣味によってほっとする所はあったのかもしれない。

 

 

俳句7 水原秋桜子(しゅうおうし)

 

葛飾(かつしか)や桃の籬(まがき)も水田(みずた)べり

啄木鳥(きつつき)や落葉をいそぐ牧の木々

 

 秋桜子の句はキレイな世界をうたう。それはそれで美しいから好きではある。だが、…?

 

 高浜虚子門下で4Sの一人と呼ばれたが、独立して『馬酔木(あしび)』を主宰。新興俳句運動をした。本人は東大医学部で医学博士。

 

 

俳句8 川端茅舎(ぼうしゃ)

 

金剛の露ひとつぶや石の上

ぜんまいののの字ばかりの寂光土(じゃっこうど):寂光土は仏のしずかな世界だろう。

 

 茅舎は仏教語を用いる。茅舎浄土と呼ばれる世界を描く。脊椎カリエスに苦しんだ。自己と世界が一体化した境地に救いがある、という立場から言えば、これらの句は素晴らしい。だが、この句によって社会改革はできないし、戦争を防止することもできない。

 

 

俳句9 中村草田男

 

 松山出身。水原秋桜子に学んだが、やがて「人間探究派」と言われる。

 

降る雪や明治は遠くなりにけり:有名。

 

はまなすや今も沖には未来あり:「はまなす」は漢字だが変換できなかった青春の憧れを歌ったとも読めるが、昭和初期の句で、海の向こうに大日本帝国は夢を見ていたのだから、その時代の気運の中の句だとすると、どうなるのだろうか。

 

万緑の中や吾子(あこ)の歯生えそむる:これも有名。

 

勇気こそ地の塩なれや梅真白:「地の塩」は聖書の言葉。「世の光」「地の塩」とイエスは言った。これも戦時中の句。

 

葡萄食ふ一語一語の如くにて:戦後の作。葡萄も聖書に出てくる。

 

 

俳句10 石田波郷・加藤楸邨  よく教科書に載っている。

(1)石田波郷

松山の人。人間探究派。

 

バスを待ち大路の春をうたがはず:京都の大通りだと私は思い込んでいたが、東京のどこか神田あたりだろう、という解説をどこかで見た。私にとって京都はバス、東京は地下鉄で移動するものだった。が、波郷がいた昭和初期にはバスは新しいハイカラな乗り物だったということだ。つまり作者の時代について訓詁注釈をしておかなければ正確には読解できないということになる。もちろん作者の意図とは別に勝手に解釈して楽しむやりかたもある。

 なお、『東京のバスガール』という歌は戦後昭和32年。

 

雀らも海かけて飛べ吹流し;

栗食(は)むや若く哀しき背を曲げて:昭和20年。

 

(2)加藤楸邨

東京生れ。人間探究派。芭蕉や一茶の研究もした。

 

鰯雲(いわしぐも)人に告ぐべきことならず:秋の鰯雲を見るとこの句を思い出すのだが…

 

春暁の長き長き貨車なつかしき:朝貨物列車がゴトゴトゴトゴトと走る音がする。加藤楸邨は駅の近くに住んでいたに違いない。

 

隠岐やいま木の芽を囲む怒濤(どとう)かな:隠岐の島にて。

木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ

鮟鱇(あんこう)の骨まで凍ててぶちきらる

寒雷やびりりびりりと真夜(まよ)の玻璃(玻璃)

 

 

 

俳句11 西東三鬼(さんとうさんき)

 

水枕ガバリと寒い海がある:病気で熱を出し水枕をしている。それがガバリと音を立てたのか。悪寒がするのだろう。「ガバリと寒い」と切るのか、「寒い海がある」なのか。海は水枕の中の氷水を言ったのか、近くに海があったのか。中学くらいで学習するが、印象的な句の一つ。

 

限りなく降る雪何をもたらすや:

 

算術の少年しのび泣けり夏:夏の算数の宿題ができないのだろう。この子が夏休みの宿題のせいで不登校になったら、宿題を出した先生はどう責任を取ってくれるのだろうか? 安岡章太郎の『宿題』を参照。 

 

 

俳句12 種田山頭火(たねださんとうか)

 

 放浪の俳人。山口県出身、熊本の曹洞宗の寺で出家、最後は松山で過ごして没。無季自由律。

 

分け入っても分け入っても青い山:どういう意味だろうか? あえて略。

しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

今日の道のたんぽぽ咲いた

夕立やお地蔵さんもわたしもずぶ濡れ

ほろほろほろびゆくわたくしの秋

酔うてこほろぎと寝ていたよ

どうしようもないわたしが歩いている

まっすぐな道でさみしい

うしろすがたのしぐれてゆくか

ついてくる犬よおまへも宿なしか

鉄鉢の中へも霰(あられ)

 

*西行、芭蕉同様、旅に生き旅に死んだ人の代表としばしば言われるが、どうやって生活していたのだろうか? 

*誰かが言っていたが、旅が安全にできたのは江戸以降。西行も旅をしたそうだが、多くの歌人は旅をせず京都にいて歌枕の歌を詠んだとか。う~ん・・

*曹洞宗の道元は京都出身だが京を去り福井の山中でひたすら坐禅した。(支援者があった。)近現代では内山興聖という人は曹洞宗で、貧乏しながら坐禅。但し、曹洞宗の「修証一等」(修行の姿即悟りの姿)の境地と、山頭火の自由律句の境地とは、どうなのだろうか?

 

 

俳句13 尾崎放哉(ほうさい)

 

 自由律。

 

たつた一人になりきつて夕空

海のあけくれのなんにもない部屋

人をそしる心をすて豆の皮むく

さびしいぞ一人五本のゆびを開いて見る

朝早い道の犬ころ

咳をしても一人

入れものが無い両手で受ける

一日物言はず蝶の影さす

春の山のうしろから烟がでだした

 

 尾崎放哉は鳥取県生まれ、旧制一高・東京帝大法科出身のエリート会社員だったが、酒の飲み過ぎでドロップアウトした。各所の寺などに世話になりながら、最後は香川県の小豆島で暮らした。

 

 こうして写していると、山頭火も放哉も生活者としてはドロップアウトしてみせているが、表現はすばらしい。リズムもいい。心を打つ。

 

 

俳句14 金子兜太(かねことうた)

 現代俳句協会。印象としては、極めて魅力的な快男児。惜しくも亡くなられた。

 

彎曲(わんきょく)し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン

 

銀行員等朝より蛍光す烏賊(烏賊)のごとく

 

白梅や老子無心の旅に住む:金子兜太が旧制高校時代に作った。

 

秩父困民党ありき麦踏みの人ありき:金子兜太は秩父の出身で、秩父困民党に共感している。秩父困民党とは何か?勉強してみて下さい

 

被爆の人や牛や夏野をただ歩く

 

 

俳句15 坪内稔典(としのり)(ねんてん)

 

 愛媛県伊方町出身。本名はとしのり、俳号ではネンテン。

 

三月の甘納豆のうふふふふ

春の風ルンルンけんけんあんぽんたん

がんばるわなんて言うなよ草の花

 

・・この句を芭蕉が見たら、何と言うだろうか?

 

 

俳句16 神野紗希、佐藤文香(あの俳句甲子園の、初期の頃の優勝者)

 

神野紗希(こうのさき) 

起立礼着席青葉風過ぎた:高校生の時の句。これが出たとき実に感心した。何かで日本一になった。

 

佐藤文香(さとうあやか) 

夕立の一粒源氏物語:これも高校生の時の句。これも何かで日本一になった。「夕立の一粒平家物語」だとどうなりますか? あるいは、「どしゃ降りの中で源氏物語」だと?

 

 

 

俳句17 国際HAIKU

 2001年(だったと思う)、某県と市が頑張って世界から国際HAIKU関係の人を招待して、国際HAIKU交流会をした。

  西洋では詩人は尊敬されている。アメリカの学校でも詩を作る練習をする。生徒の作品はつい冗長になりがちなので、HAIKUを作って簡潔にする練習をする場合もあるとか。(アメリカの作家、サリンジャーやヘンリー・ミラーの小説を見ていると、中にHAIKUが出てくる。一種のオリエンタリズムなのかも知れないが。)

 フランスではジャポネズムでかなり早期からHAIKUは紹介されていた。フランス語圏では、ベルギー、セネガルなどでもHAIKUは盛んだ(った)。

 フランスの詩人イヴ・ボンヌフォアは日本の俳句(芭蕉など)に憧れた。そこには自己と他者の限りない争いではなく、世界と自己の一体化・調和がある、ということだろうか。

 ユーゴスラビアでもHAIKUを作る人がいた。

 国際HAIKUは、17音とは行かない。シラブルを17音節にしてみたり、3行分かち書きにしてみたりする。

 季語はどうなる? 温帯ならいいが、日本の季語とは異なる。日本でも地球温暖化で四季がなくなったらどうなる? そもそも極地や熱帯ではどうなる? 宇宙空間では? これらを踏まえ、季語を再定義する試みもある。

 

 JALが子どもたちにHAIKUを作らせた。90年頃だ。

I saw a rose/then I saw a butterfly/then I just sneezed very hard(ホセ君11才フィリピン)

Damong malamig/sa saking paglalakad/dasa ng hamog(シャーリーさん11才フィリピン)

How a vine can grow/creeping on the side of a wall/twisting and turning (ニール君9才カナダ)

I pick a nice rose/with a big worm and sharp thorns/and jewels of dew(シン君10才タイ。原タイ語)

 

次は大人(多分プロ)のHAIKU。

first thing heard/the snow-plow truck/a year of white(ヒギンスンさん、カナダ)

above Lake Tahoe/the mountain snow melt/my boots splash water(ハートさん、アメリカ)