James Setouchi

 

 『永遠のゼロ』百田尚樹 講談社文庫 2009年(2006年太田出版)

 

*映画・TV化されるなど、有名であるので、批判しておく

 

1 百田尚樹(ひゃくたなおき) 1956年大阪生まれ。同志社大中退。放送作家を経て作家。『永遠のゼロ』『ボックス!』『聖夜の贈り物』『風の中のマリア』『モンスター』『海賊とよばれた男』など。

 

2 『永遠のゼロ』

 現代の若者、慶子と健太郎は、特攻で死んだという祖父について知るために、当時の祖父の戦友仲間たちを訪ね、聞き取り調査を重ねていく。その中で、彼らの祖父・宮部久蔵の姿が浮かび上がってくる。宮部久蔵は戦地にあって生き延びることを考える、帝国軍人の風上にも置けぬ臆病者だった。いや、宮部久蔵は極めて慎重で有能な稀代のゼロ戦乗りだった。宮部久蔵は特攻に旅立つ兵士の心がわかる優しい男だった。そして何より、内地に残してきた妻子のことを思う、愛の人だった。宮部久蔵の生き方に触れた人は変わる。宮部久蔵というすぐれた人格がすっきりと姿を現したとき、慶子と健太郎も変わった。読者も何らかの感銘を受けることだろう。読者は何度も号泣することだろう。百田氏は放送作家であり視聴者(読者)に訴えるのが上手い。だから、気をつけないといけない。

 

 この小説は、ゼロ戦(注1)乗りの宮部久蔵の事績を通して、太平洋戦争(真珠湾から敗戦後まで)(注2)を描いている。

 

 真珠湾、ラバウル、ガタルカナル、特攻など、海軍の戦史にもなっている。南雲・宇垣・山本といった名前を今の若い人はあまりご存じないであろう。私たちが子供の時は小学校の先生が兵隊帰りでいらしたので何かと戦争の話をしてくださった。中学・高校の時も帝国軍人上がりの先生方がおられた。特攻に行く直前で終戦になった方も。憲兵だった方も。南方から引き揚げた方も。家族親族知人にも、シベリア抑留で死んだ人、フィリピン戦線で生き残った人、予科練に志願した人、学徒勤労動員の最中に空襲に遭い目の前で級友が多く殺された人、授業などそっちのけで掩体壕を作りに行かされた人、その他その他その他。太平洋戦史ものの子供向け読み物も(「平和のために」と銘打ってあったが)存在した。それで戦争についての知識も多少は入ってきた。今の若い人はあまりご存じないであろう。戦史入門書としてもこの本はある程度機能する。だが、本書だけでは全然足りない。目線としては、大本営など指導者の目線ではなく、前線の兵士の目線で書いてある。

 

 特攻は狂信的なテロリストの仕業なのか? 死にたいわけではないが苦悩しつつも愛する家族や国を守るために敢えて飛び立ったのか? この論争が作中に書いてある。

 

 みなさんはどう考えますか? 

 

 特攻作戦自体は極めて非人間的で理不尽なものだった、上層部はけしからん、とこの作品は繰り返し主張する。が、それでもなお突入していった若者たちを、単なるテロリストで犬死だったとは呼びたくない、という視点が書き込まれている。

 

 みなさんはどう考えますか?(注3)

 

 実は当時徴兵忌避した人がごく少数だが存在した。その視点はこの小説には書いてない。(一部の宗教者など。肉親が戦争で死に、あるいは家を空襲で焼かれ、あるいは食糧や物資が足りず腹ぺこで、戦争なんていやだなと本音のところで思った人は沢山いただろう。いやだなとすら言わせてもらえない状況に追い込まれていたわけだが。)

 

 国家神道・軍国主義に反対して当局に捕らえられ獄死した人もいた。

 

 エホバの証人の前身である灯台社の明石順三のグループは、戦争を拒んだ。

 

 天理ほんみち、内村鑑三の流れを汲む矢内原忠雄ら、創価学会の牧口常三郎、ホーリネス教会、耶蘇基督之新約教会、新興仏教青年同盟の人びとらも、国家神道・軍国主義に抵抗し弾圧された。治安維持法等により弾圧され投獄され獄死した人もある。思想・言論・信条・信教の自由がなかったのだ。共産党の人も弾圧され入獄した。学者では三木清や戸坂潤、河合栄治郎(自由主義者)、津田左右吉(実証主義の歴史家)などなどに至るまでもが弾圧された。

 

 戦後は、帝国憲法ではなく平和憲法(憲法については別に論ずるであろう)にし、教育勅語・軍人勅諭・徴兵制を無くし、平和国家を建設し、思想・言論・信条・信教の自由を保障する社会にした。「戦争に反対し、平和な戦後国家を作った人たちのお蔭で今の平和がある」と言う方がより正確な言い方だ。「特攻で死なれた方は純粋さゆえに国策の犠牲になった」と言うべきであろう。「特攻で死なれた方のお蔭で今の平和がある」という言い方は、「今の平和を守るためにあなたがたも特攻で死んでください」へと安易に転換しうるのだ。気をつけないといけない! 戦前は明治維新1978年からわずか77年で大きな戦争をいくつもし、首相クラスも(大久保利通以来)何人も暗殺され、日本国民は安心して暮らせなかった。戦後は1945年から77年なら2022年(安倍もと首相暗殺の年)で、戦争をせず、テロもほとんど無く、国民は(問題もあったが)一応安心して暮らせた。だが、本作には、これらのことは書いていない、またはアプローチが極めて弱い。作者のイデオロギーの偏りのためであろう。または、売れるためにミリタリズムを使っているのだろう。

 

 愛する人を守ることと、国家や軍隊組織を守ることとは、よく考えてみると、少し(いや、決定的に)違う問題だ。(注4)この小説では宮部久蔵が愛する家族のために生きて帰ろうとし、国家のために無駄に死ぬまいとするので、実はこの問題を問う視点があるのだが、どうかすると曖昧化されてしまっている感がある。読者の中で、本作を呼んだ後で、「愛する人を守ることと、国家や軍隊組織を守ることとは、違うよね」、ということに、より意識的になった人は、どれくらいいるだろうか。愛する家族を守るためには今の自国の独裁者に退場して貰う方が早い、という事例は、世界史上いくらもあったのだ。実際、日本でも敗戦によって軍部が退場して平和な世の中になった。

 

 陸軍はビルマや中国大陸で、悲惨な地上戦を行っていた。フィリピン戦線も飢餓やマラリアで極めて悲惨なものになった。これらについても、この小説では少しは言及されるが、多くは描かれていない。

 

 代わりに多く描いてあるのは、ゼロ戦の空戦の描写だ。ゼロ戦や航空機のマニアにはたまらない魅力だろう。だが、そこに目を奪われて、地上の悲惨さを忘れてはいけない。

 

 地上戦だけではない。戦争もの」のシリーズ(映画でも本でも)は、しばしば「あの戦争を二度と繰り返さないために」と謳いつつ、実際には「なぜ戦争が起きたか」「どうすれば止め得たか」の深い考察はなく、無名の一般人や兵士たちの苦しみ、理不尽な軍隊内部への言及も乏しく、カッコイイ戦艦や空母や高名な将軍たちが、いかにカッコよく英雄的に戦いかつ滅んでいったか、の記述にページを割いているものが多い。それを読みまた見て育った少年少女は、カッコイイ武器や軍隊や将軍に憧れるようになるだろう。本作でも空中戦のカッコよさ、また自己犠牲のカッコよさに読者は幻惑され、もっと大事なことを見落とすことになる。気をつけないといけない。ああ、特攻で突入したとき、ゼロ戦の乗組員の太郎や次郎にも家族があるが、突入されたアメリカ兵のジョンやマークにも家族があったのだ。妻や子どもや年老いた親があったのだ。お互いそもそもなら友人になってもよかった人びとだが(現に戦後は友人になった)、戦争の仕組みのせいで敵味方になって殺し合う羽目になったのだ。問題は戦争の仕組みなのだ。

 

 (現代のロシア・ウクライナ戦争でも、例えばキューバの貧しい人が借金を返すためにロシア軍に雇われウクライナで無残に死んでいく。キューバの人とウクライナの人は本来何の恨みもないはずだ。問題は戦争の仕組み戦争を引き起こす仕組みなのだ。それを解明し解体し防止することが大切なのだ。)

 

 かつ、あの戦争で一般の日本国民は(明治以降の教育勅語や軍人勅諭によるマインド・コントロールや国民総動員令等などで駆り出されたとはいえ)加害者でもあり被害者でもあったこのことは忘れずしっかり勉強しておきたい。(注5

 

 本作は、非常に売れたわけだが、読者は、本作を読むに当たって、以上の諸点に注意すべきである。 

 

 この小説は岡田准一や三浦春馬のキャストで2013年末に映画化された。さらに向井理の主演でTVにもなった。小説・映画・TVなど複数のメディアで制作する手法をメディア・ミックスと言う。売る側としては利益を上げやすい手法であり、享受する側も多様に楽しめるとも言える。但し活字と映像は決定的に異なる。活字は思考力を育てるが映像は思考停止を強いることが多い。活字文化をぜひ重視してほしい。ハンサムな俳優のやることだから正しい、とつい思わせられる。それは極めて危険だ。戦時中の国策映画はどうだったのか。

 

 いや、活字(文章)も同じだ。あまり考えさせずリズムに乗せてイージーに読ませる文体、というものがある。ロックあるいはイージー・リスニングのような文体。これは危険だ。ドラッグと同じだ、と誰かが言っていた。乗せられ扇動されてどこかに連れて行かれるのではなく、「ちょっと待てよ」と立ち止まって勉強し直し考える姿勢が大切だ。批判的な目が大切だ。

 

 確認したいが、映画で戦争の悲惨さを描くことは、現段階では不可能だ。例えば、臭(にお)いが描けない。死屍累々(ししるるい)の戦場において、腐った死体がものすごい悪臭を立てる。ウジや蠅がたかっている。マラリアで下痢をした兵士。風呂に入らず何日も密林を彷徨う。ひどい悪臭が戦場にはつきまとうが、映像ではそれは描けない。『ランボー』『地獄の黙示録』などなど、臭いは描けない。電車でそばにいたおじさんが臭いというあなた! 戦場の死体の山はもっと臭(にお)いますぞ。

(痛みも描けない。内臓を滅茶苦茶にやられてどくどくと血を流しながら死んでいくときは非常に痛いだろう。映画の観客に同じ痛みを味わわせることはできない。)

 

 念のために言っておくが、私の知り合い(先輩)もかつて軍国少年で、情熱に駆られて旧制中学を中退し予科練に入り特攻を志願した。誰もが20歳までに死ぬと考えていた。その情熱は、国家主義教育によって形成されたものである。若者自身は極めて純粋だった、と私は考える。純粋な若者を駆り立てて死地に赴かせた、当時の国策(教育を含む)が問題なのだ。沖縄の鉄血勤皇隊の少年たちも同じ。国策により沖縄の師範学校で皇民化教育をして熱烈なる軍国少年を育てたのだ。国策の軍官民共生共死思想であそこまで連れて行ってしまったのだ。私の知人親戚も言っていた、米軍が砂浜に上陸して来たら、砂浜にタコツボのような穴を掘って爆弾を持って待ち構えておき、自爆攻撃するはずだった、と。普通の人がそういう洗脳教育を受け、立派な軍国少年に育ってしまっていたのだ。

 

 「特攻で死なれた方のお蔭で今の平和がある」のではない。よくある常套句(じょうとうく)的な言い回しに騙されてはいけない。「特攻に死にに行かせた当時の指導者たち、また周囲の(「世間」の)軍国主義の圧力のせいで、純粋な若者が殺された」のである。(どこかのカルト宗教と同じ構造なのだ。)「戦争をやめようと努力し、実際に戦争をやめた人と、その後の平和な社会を建設しようと努力した人のお蔭で、今の平和がある」のだ。戦争中に戦争反対を述べた(当然逮捕され「非国民」と言われた)少数の人びとと、戦後に歯を食いしばって平和国家建設に尽力をされた多くの方々のおかげで、今の平和がある。

 

 鎮魂慰霊はあってしかるべきだと私は考える。公的にするか私的にするかは別として。その際、敵味方の区別なく、皆が愚かな戦争の犠牲者だった、とする、沖縄の平和の礎の精神や、一遍上人の時宗の藤沢の清浄光寺(遊行寺)の敵味方供養塔(てきみかたくようとう)の精神が、合っている、と私は考える。「ウチ」と「ソト」を分けて「身内」だけ慰霊すると、「敵を討つためにソトを攻撃しよう」とたやすくなってしまう。靖国神社はそのために近代の帝国が作った装置だ。現に、靖国神社は日本の戦争を推進することに役立ったのであって、日本の戦争を止め得なかった。神様なら愚かな戦争を止めてくれてもいいのでは? 日蓮聖人なら神様を叱責するところだ。キリストはペテロに対し武器を捨てよと言った。戦争をしたい人たちが神様の名をかついで戦争をしてきた、それで儲ける人と死ぬ人が分化しているのでは? そんなの全部やめて、みんなで仲良く平和に暮らしなさい、というのが本当は神様のお考えでは? (言っておくが、靖国は、長年の日本人の宗教心とは必ずしも一致しない。靖国が日本の伝統だと言う人は、勉強が足りないか、わざと嘘をついているか、どちらかだ。)(注6)

 

 「安らかに眠ってください、過ちは二度と繰り返しませんから」とヒロシマで言うのは、合っている。愚かな戦争(ヒロシマの場合特に核戦争)を始めてしまったことが「過ち」なのだ。愚かな戦争という手段を容認して実施してきた各国の政策それ自体が「過ち」なのだ。ヒロシマのこの碑の含意は、深い。(「核を落としたのはアメリカだからアメリカが過ちを犯したのだ、日本の過ちではない」と言う人は、考えが浅い。ヒトはそもそも何百万年も前から助け合うようにできているのであって、戦争なぞはじめたのはつい最近にすぎない。ましてや国家主義・帝国主義の戦争など、最近二百年くらいのことではないか。国家主義のイデオロギーに踊らされてはいけない。)

 

注1:ゼロ戦は当時世界最高水準の技術を有し、軽い機体で航続距離が長く、旋回が素早くできた。反面被弾するとたちまち炎上・墜落した。人命尊重思想の欠落した技術だった。アメリカのグラマンなどはそうではない。被弾してもパイロットは死なない。この点は本作にも書き込んである。戦後の新幹線は、人命を大切にした、いい技術だ。交通事故ですぐペシャンコになって多くの人が死ぬ電車やバスは、ゼロ戦と同じ発想で作ってある。技術における倫理が問われている。ま、そもそも兵器である以上人殺しの道具ではあるのだけれど。老子は「技術の高い兵器や軍艦や戦車があっても、そんなものは使わせないのだ」と言っている(他の解釈もある)。

 

注2:「太平洋戦争」という呼称は、昭和16年の対英米開戦以降に注目した言い方。満州事変から数えて「十五年戦争」、アジアと太平洋を戦場としたので「アジア・太平洋戦争」、アジアの諸民族を解放するとして「大東亜戦争」などの言い方もある。

 

注3 フランスでは自爆テロのことをkamikazé(kamikaze)と表現する。「今日はパリで三つのkamikazé(kamikaze)があった」など。自爆テロと神風特攻は違う。が、人間を爆弾のための手段にしてしまう点で、同じだ。人間は単なる手段として使い捨ててはならない、人間はそれ自体目的として尊重されなければならない(カント)。爆弾をうまく命中させ起爆させるための手段。戦場で勝つための手段。戦争という手段で自分たちが儲けるための手段。人間をそんなものにしてはいけない。(ナチスはそれをユダヤ人に対してやった。)

 

注4  軍隊に参加することが直ちに家族や恋人を守ることにつながるわけではない(松元雅和『平和主義とは何か』中公新書p.24)。実は戦争下では人は平等でない。戦争ビジネスで稼ぐのは軍需産業の株主、あるいは軍産官政学複合体に属する人々で、対して兵士として駆り出され前線で死ぬのは貧しい人びとだ。従来の戦争では、金持ち・高齢者・女性よりも貧困層・若者・男性により大きな負荷がかかってきた。

 

注5 特攻は翼の空気抵抗のため突入速度が遅くなる、飛行機も末期には劣悪だった。にも関わらず理不尽な命令(強制、また志願の体裁をとった強制)を上の者は出し続け、海兵や陸士出身の軍部エリートではなく学生出身者や少年飛行兵(子ども!)がより多く死亡した。これら特攻の問題点についてこの本では論究がない、または甘い。鴻上尚史『不死身の特攻兵』参照。

 

注6 会津系の某氏(右翼の大先生)は、靖国は長州が勝手に作ったものであって、国民を分断する装置だ、と怒っている。会津の人は勤王の志が強かったが、朝敵としてみなされ靖国に祀って貰えなかったのだ。長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)は皇居に大砲を撃ち込んだが祀られている。敗色濃厚な戦場で隊からはぐれ密林を彷徨い辛うじて帰隊しても上官から「敵前逃亡」と見なされ処刑され、これも祀って貰えない。乃木希典は自死だから祀って貰えない。戦場で絶望のあまり自死した人は祀って貰えない。バンザイトツゲキで全滅すれば(それが限りなく自死に近くても)祀って貰える。おかしいではないか? 靖国はいろいろとおかしな装置なのだ。

 大村益次郎が戊辰戦争の後で東京招魂社を作り、それが靖国神社になった。つまり近代(帝国)の産物だ。戦前は国家神道の神社で、遺骨収集の習慣は昭和12年(1937年)の日中戦争開始以降だそうだ。つまり案外最近だ。戦後は民間の宗教法人になった。小泉純一郎が私人として自分のポケットマネーで自由時間に自家用車や電車で拝みに行くのはかまわない(信仰の自由がある)が、首相として公費を使って勤務時間内に公用車で拝みに行くのは、おかしい。政教分離原則に反する。ましてや閣僚そろっての公式参拝はおかしい。中国が言うからではない。政教分離の原則から見ておかしいのだ。閣僚がそろって統一教会に公式参拝に行くとしたら、どうですか?