James Setouchi

 

 石川達三『蒼氓(そうぼう)』(再掲)

 

*芥川賞で記念すべき第1回受賞作なので、再掲する。(一部改変した。)

 

1 石川達三 1905(明治38)~1985(昭和60)。

 秋田県横手市生まれ。早大英文科中退。1930(昭和5)年、移民船でブラジルに渡る。半年後帰国。1935(昭和10)年『蒼氓』で第1回芥川賞受賞。他に『生きてゐる兵隊』『風にそよぐ葦』『人間の壁』『青春の蹉跌(さてつ)』など。(新潮社の作者紹介サイトを参照した。)

 

2 『蒼氓(そうぼう)』

 1935(昭和10)年同人雑誌『星座』に発表された。第1回芥川賞を受賞。

 神戸港を出てブラジルに行く移民たちの群れを描く

 

 第一部は神戸の移民収容所での生活、

 第二部は移民船『ら・ぷらた丸』での四十五日の生活、

 第三部はブラジルに上陸して皆が別れ農園に到着して新生活を始めるまでを描く。

 

 移民たちは全国から集められているが、多くは貧しい農民出身だ。国策で移民をブラジルに押し出すのだが、監督や受け入れ側主任や税関の役人たち、移民ブローカータチが不正をしていることも石川達三は描きこんでいる。それでも移民たちは日本に帰れず、ブラジルへブラジルへと行くしかない。多く描かれるのは、移民たちが右往左往する姿だ。東北出身の姉弟(お夏と孫市)、移民監督助手の小水、監督の村松らが比較的多く描かれるが、基本的には群像劇だ。

 

 生活苦がはっきりと描かれる。病気や栄養失調の子がいる。流産したケースも。それをそのままやりすごす親たちも。(親たちが無知で無力なのは、しかるべき教育を受けず貧しかったからだろうと予想される。)過酷な運命にさらされて、淡々と生きる、あるいは肉体のエネルギーで突破する、あるいは右往左往する、人々の姿を石川達三は描いていく。

 

 人間の根底にある優しさ、心情を作者は描く。ブラジルで船を去るとき、今まで対立していた同士(村松監督と塩谷)も思わず無条件に和解した。石川達三はそれを書き込んでいる。

 

 ラスト、ブラジルの農園に到着し、新生活を始めるお夏と孫市。先住移民の真鍋や米良に歓待される。ブラジルは事前に宣伝されていたごとき楽園ではない。期待しすぎると不幸になる。だが、とにかく生きて行けそうな国ではある。ここの人々は「あらゆる世間的な欲望を忘れ、世界の国々の動きにも何の関心もなく、貧しくつつましい気持のなかから、いつの間にか静かに湧いてきた、生きていること、そのことのみの喜びによって生活しているもののようであった。こうして日がな一日紫赤土にまみれての労働の中にも、他人には分からない多くの幸福がある、むしろ意外なほど純粋な幸福、原始人のような幸福がありそうであった。

 

 これは石川達三の、移民たちの幸福を願う祈りの言葉であろう。実際には健康を害すれば直ちに生活が崩壊する危険と隣り合わせでありつつ、ここにはとにもかくにも平和と幸福がある、とあえて記すのだ。東北の農村出身の貧しい農民・移民たちに対する石川達三の愛情があると言えよう。

 

 もちろん、当時の軍国主義ファシズムの社会で、「都市生活や知識や教養は要らない、農民の精神に戻れ」と叫ばれたことを想起すべきだ。(都市の知識人作家の代表とも言える芥川の死は昭和2年、1927年だ。)石川達三は一歩間違えれば軍国主義ファシズムに吸収されかねない。

 

*肉体のゲバルト(暴力)で事態を解決しようとして二・二六事件をはじめとするテロが起きたとも言える。

 明治以降四民平等の建前とは裏腹に、階層格差を拡大・固定化し、農工民には学問(知識・教養)は要らない、使い捨て労働力でいい、とばかりに愚民化政策を推進し(日本の成り立ちについて小学校ではイザナギ・イザナミの二神の国作りで教え、大学に行けば弥生式土器を教えるなど、義務教育と高等教育で教える内容が違っていた。戦時中は敵であるアメリカや中国の歴史も言語も一般には教えなかった、などなど)(注1)(注2)、自称リーダーたちがミスリードしても誰も正せず、国内の政治経済についての国民の不満はあったが、対外危機を煽ることで国民の目をそらさせ(「内憂」を「外患」に転化する、と言う。)、一億がみなおかしくなった挙げ句に大日本帝国は焼け野原になって滅んだ、とも言える。それは『蒼氓』からわずか10年後のことだった。

(注1)『葉隠』では普遍的教養など要らない、先輩たちが遮二無二突入したその事例だけ学べばいい、と言う。愚民化政策にうまくマッチする思想だ。ブシドウだから偉い、と思い込んでいる人は、大いに不足だ。別に詳論する。

(注2)英語は、江田島の海軍兵学校では教えた。情報戦で要るのと、敗戦とアメリカ軍による占領を見越していたと言われる。旧制中学では、勤労動員で作業ばかりしていて、英語の授業どころではなかった、と聞く。現場では「敵の文化なんか要らない」と言われていたかも知れない。事実として、あの世代の人の圧倒的大多数は英語をやっていない。

 

昭和12年盧溝橋事件で日中戦争始まる、などと言うが、それまでにも昭和6年満州事変・昭和7年上海事変などなどをはじめとして紛争(戦争)はいくらもあった。明治以降の近現代史を大きく捉えるべきで、日清・日露戦争を通じて軍産官学政の複合体ができあがり歯止めが利かず暴走してしまった、というあたりが正解だろう。明治は良かったが昭和のみ間違っていた、といういわゆる司馬史観は、誤り。別に詳論したい。)

 戦後はそれでも80年近く愚かな戦争をせずに何とかやってきた。それができたのは階層格差を解消する方向で努力し、多くの人に学問(知識・教養)への尊敬があり多くの人が真面目に勉強して平和で民主的な世界の担い手になろうと努力してきたからではなかったか。

 今でもあちこちの独裁国家は奇妙な戦争を安易に始め、自国民および世界の諸国民に多大の迷惑をかけている。(独裁軍事政権はまずは自国民を兵士として訓練でまた前線で死なせる、あるいは身心に傷を負わせる。父や兄や弟や夫を奪う。最近は女子も兵士になる。場合によっては少年少女も「少年兵」となる。家屋を破壊する。食料・エネルギーなど諸物資を欠乏させる。他国民に対しても同じことをする。地球人類全体が多大の迷惑を被る。)

 だが、最近の日本は、大丈夫か。

 

 もちろん、石川は家父長的な農本主義ではない。また石川には、東北の農村の貧困、生活苦(それゆえに移民にならざるを得ない)へのまなざし、当時の支配者搾取階級の欺瞞を見据えこれを批判するまなざしもありそうだ。

 

 石川自身はブラジルの農民にはならず、帰国して作家になった。石川はこの後南京事件(1937=昭和12年12月)の取材に行き『生きている兵隊』を書く。(即日販売禁止。)

 

 描写は迫力がある。例えば神戸を出航するシーン、マダガスカル海峡の嵐のシーンなどなどは見事である。

 

 現代(2022年)の関心からみるとき、日本列島に多くの移民・外国人労働者がやってきている。反対に、貧しくなった日本から海外に出稼ぎに行くケースも増えてきた。『蒼氓』の登場人物たちのような理不尽な苦しみに彼らが遭っているのでは、いや、あそこでここでもブラックな労働はブラックだ、グローバル資本主義は貧富の差を拡大し環境を破壊し人類の未来を奪っているのではないか、と問うてみよう。例えば、ブラジルのコーヒー園のモノカルチュア生産が、現地のみならず地球環境全体にどのような影響を及ぼしているかを想起してもよい。そこから、読者は何を考えるのだろうか。

 

*私の知り合いは、戦後の高度成長期、日本の山村から南米に移住した。(そういう方が結構おられた。)しばらく南米で苦労をし、母と子で帰国した。帰国後日本で市営住宅に住んで低賃金で頑張って生活しておられた。一家共に勤勉で謙虚で世界の人の幸せを考える、すばらしい人格の方々だった。高度成長期にも南米への移住というプロジェクトがあった、それが身近な人でおられた、という例である。ブラジル移住の再開は昭和27年(1952)年。昭和38年には海外移住事業団を設立。