James Setouchi
森 敦『月山(がっさん)』(1974=昭和49年芥川賞)
1 『月山』(ややネタバレあり)
語り手「わたし」が東北・出羽地方の月山の山中にある田舎の村の古寺を訪れ、一冬を過ごす話。
月山は、庄内平野の日本海側から見ると左から鳥海山、月山、朝日連峰とある中央の山。牛が臥したような姿なので臥牛山と言い、さらに出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の呼称がある。月山は死者の行く山として信仰の対象だった。その山奥に、本作の舞台の村と寺がある。
「わたし」は都会の教育を受けた者なのだが、どうやら放浪癖がある。誰もが行きたがるわけではないその村の古寺に「わたし」は行く。その村には何やら秘密がありそうなのだが、最初の段階ではそれは明かされない。村で暮らすうちにだんだんと分かってくる。
この村の冬は厳しい。まず秋にカメムシが来る。すぐ冬になり吹雪が来る。雪が古寺に吹き込む。吹雪に紛れて押し売りが来る。乞食が来る。彼らを、村と寺はある形で受け入れる。「わたし」もまた押し売りや乞食と同様の「やっこ」(乞食、この世の者でない者)の一人として受け入れられる。村には、吹雪に紛れて「カラス」がやってくる。「カラス」とは、この村で作る密造酒を買い取りに来る、平地の者たちだ。黒い衣を着てカラスに似ているのでこの隠語がある。
月に一度の念仏講がある。村のじさまやばさまが集まってくる。「彼の岸に願いをかけて大網の 引く手に漏るる人はあらじな」と御詠歌を詠う。皆が持ち寄った自家製の「イトコ煮」を親切に食べさせてくれる。寺のじさまはお礼に手製の割り箸を渡す。貧しく閉鎖的な村だが、何とか助け合って暮らしている。経済は自給自足・地産地消の気味が強い。一人の若い女がいる。親切で気立てのいい人だが「自分はこの世の者でない」と語る。この女は幽霊ではないか? と読者は一瞬思う。だが、そうではない。自分がかつて結婚していて子をなさぬので離縁されたらしいことがほのめかされる。
即身成仏のミイラのメッカだが、行き倒れの乞食の死骸を加工して行者のミイラとしてきたらしいことが語られる。それは寺の宣伝のためか、信仰ゆえか。よく知るとDV(女性への暴力)もある。かつてこの村に人口が多くもっと豊かだったとき、博打が横行し、破産した男たちが多く自死した、借金のカタに寺が土地を取り上げた、という過去が明らかにされる。その寺にある宝物もどうやら贋物であるらしい。
村の過去と現在は厳しい。だが、それでもある形で生活は続いていく。偽物でも過去があっても言挙げして指弾することをせず巧みに隠蔽しつつ今を何とか生き延びている。それが彼らの生きる知恵なのか。それでも、大きな時間の中で、歴史あるこの寺は廃れ、村も廃れていくだろう。諸行無常という言葉が一瞬頭をよぎった。
寺の部屋に住む「わたし」は寒さのあまり、寺にあった祈祷簿の和紙を用いて蚊帳を作る。過去の人々の宗教的な祈りや感謝の言葉を連ねた和紙の蚊帳に囲まれて「わたし」は眠る。「わたし」は今、どこにいるのか? この山には昔来たことがあるような気がする。ここは聖なる世界と俗なる世界、前世と現在とあの世が渾然一体となった世界であるのか?
春が来る。富山の薬売りが春の便りを告げてくる。ある日、「わたし」の友人で都会の土木技術者が訪れてくる。ロープウェイを作り、山頂にヒュッテと牧場を作り、客を集めると言う。「わたし」も村を後にする。「わたし」はこの村で何かを得たのか?
2 コメント:山中の村を旅人が訪れる構図は『桃花源之記』はじめ古来多い。近代の小説では、語り手「わたし」が旅人である点、太宰の『富獄百景』と同じ構図だが、中身とテイストが違う。また中上健次『岬』も田舎の濃密な人間関係を描くが、全く違う。比べてみよう。本作は、雪深い東北の閉鎖的な村の生活苦を描く点で柳田国男の『遠野物語』を連想した。これは一種の「日本の昔」を語る説話なのか? 本作は私が十代の頃芥川賞を受賞し騒がれたので、私も読んだはずだが何のことか分からなかった。今回も冒頭の描写が淡々としているので挫折しかかったが、二読三読してけっこういい作品だと感じた。ここには確かにこういう人々がいたのだろうと思わせる。それは(寒さという点を除けば)日本の各地にあった村の暮らしに違いない。もしかしたら今もある。村の暮らし、是か非か。
3 森敦(1912~1989)
長崎県生れ。一高中退。若くして『酩酊船(よいどれぶね)』(1934)を発表。放浪の中で作品を書き続け、1974(昭和49)年『月山』により芥川賞受賞。当時62才。他に『天沼』『鳥海山』『わが青春わが放浪』『われ逝くもののごとく』『マンダラ紀行』など。