James Setouchi
第170回(令和5=2023年下半期)受賞作 九段理江『東京都同情塔』
・『文藝春秋』(2024年3月号)で読んだ。まだ本当には読み込めていないが、紹介を兼ねて、いくつか気のついたことを記してみよう。(ネタバレ有)
・パラレルワールドで面白い。2021年の東京五輪の競技場(注1)について、現実には隈研吾設計のものが建てられたが、本作では当初案で捨てられたザハ・ハディド設計のものが建てられたことになっている。設定は2026年、牧名沙羅は38才の建築家。拓人は23才で美しい男。後半の設定は2030年、沙羅は42才、拓人27才。本作が発表された2023年から見て近未来小説だ。そこにあるのはユートピアかディストピアか。
・社会への批評意識に満ちた作品だ、と評され、本人は「意識的に批評性のある小説にしよう、とは思っていませんでした」と言う(『文藝春秋』2024年3月号267頁)が、いや、やはり批評意識に満ちている。読者は気付き、考える出発点にすることができる。但し解決法や解答は書いていない。もっと思索の道筋を示し読者を誘ってもよかったが、そこまではやっていない。著者自身のそれほどは「思っていませんでした」はそういうことか。
・東京都同情塔(シンパシータワートウキョウ)には環境他から致し方なく犯罪に走らざるを得なかった人々をはじめ「ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人々)」が居住し、最高に快適な生活をしている。「誰一人取り残さないソーシャル・インクルージョンとウェルビーイング」(279頁)を実現するためだ。だが、体のよい隔離装置でしかない(本当の社会的包摂とは言えない)のは明らかだ(注2)。他方「犯罪者を優遇するのか」との激しい批判もある。ここには差別・福祉・教育などをめぐる重要な問題が提起されている。また、「同情」「かわいそう」は人権・同和教育では「ちょっと待て」と言われる概念だ(水平社宣言を見よ)が、九段理江は意図的に「同情」「かわいそう」を使い「それでいいのか」と問うているのだろうか。
・この同情塔は都会の富裕層の住むタワマンに似ている。但し入居者は自由に出入りできない。排除・隔離のシステムでもある。SNS禁止で情報も管理されている(327頁)。考えてみればタワマンに住む都会の富裕層も、自分の住む世界から自由に出入りできず、情報も偏ったものしか届いていないとすれば、同情塔の入居者と同じなのかもしれない。そういう問題意識も九段理江は書き込んでいるのか。
・言葉については繰り返し問うている。バベルの塔以来言葉が通じなくなった。現代はさらにそうで、各自が独り言を言っているだけだ。AIが多用されるが、それは人間の言葉ではない。「AIには己の弱さに向き合う強さがない」(280頁)。厳密・正確に表現するとは。日本語論・日本人論もある。カタカナ語とは。日本語は消滅するのか。日本人は本音と建て前、ウチとソトを使い分ける。「君たちの使う言葉そのものが、最初から最後まで嘘をつくために積み上げてきた言葉なんじゃないのか?」とマックス・クラインは問いかける。(329頁)
・世代の違い。Z世代の拓人は社会意識が乏しい。高額納税者ではないので税金が何に使われようが関心がない。牧名沙羅は2030年42才だから1988(昭和63)年生まれの平成世代。昭和の建築家を意識しつつ同情塔を建てる。(なお、ザハ・ハディドは1950年生まれ。隈研吾は1954年生まれ、丹下健三は1913年生まれ。)
・美をめぐる問題。三島由紀夫『金閣寺』への言及がある。『金閣寺』では「金閣寺を焼かねばならぬ」となるが、本作では東京都同情塔は立ち上がりそびえ立つ。やがて崩壊する予兆もはらみつつ。また、拓人の見た目の美しさは何度も言及される。見た目の醜いものへの嫌悪もある。人間でも建築でも見た目のフォルムやテクスチャーが重視される。そこで人間の内実はおろそかにされている。「美しくないフォルムとテクスチャーを持った物体を、一体も視界に入れたくない」(313頁)と牧名沙羅は言う。「美」を過剰に求めることは差別を生む、という問題意識も入れてある。
・『レ・ミゼラブル』(ユゴー)を連想させる。「レ・ミゼラブル」とは「惨めな人々、惨めであること」という程の意味。
・同情塔では言葉が管理される。読者はオーウェル『1984』を想起する。そこでは政府によって言葉が簡略化され、思考の自由は奪われる。いや、同情塔だけではない。AIの言葉がいつのまにか混入する。また、この世界では沙羅の表現は会社によって管理される。会社は国策・五輪招致をビジネス.チャンスにする。五輪招致自体の是非についても、沙羅は、近代五輪の真の目的に多少言及(304頁)しつつも、結局は「一度始まってしまったものはなりふり構わず進む続けるほかない」と現状追認的だ(286頁)。そのおかげで「富裕層」「成功者」になったのだろう。だが、実は他人の言葉に振り回されていた。挙げ句、「自分の心を言葉で騙していたことが、すべての間違いの根本的な原因だ」と2030年の沙羅は自己批判する(346頁)。沙羅は建築から離れる。では、私たちは自分の心で感じ、自分の頭で考え、自分の言葉で語り、かつ他と通じ合うことができているのだろうか? 読者はこの問いに導かれる。
・絵画と建築の違い。沙羅にとっては建築でなければならない。そこで実際に人間が出入りすることが沙羅にとって大切だ。彼女は「支配欲が強いから」建築家になった(303頁)。沙羅は支配欲の強い、一種のニーチェ主義者のようでもある。沙羅は美しい若い男・拓人を側に置こうとする。
・選良(エリート)主義の問題。沙羅は「私には未来が見える」とする(275頁)。見えた未来を現実化する。拓人もそう感じている。凡百の者はそれができない。大衆民主主義を沙羅は批判する。翻って、大衆民主主義を批判しエリート主義に陥ることの危険を読者は問題意識として持つ。
・実は沙羅自身が偏ったギフテッドだった、という問題。子ども時代数学や物理がよくでき、大きな挫折も経験しないまま富裕な建築家として「成功」してしまっている。そのことへの懐疑、自己批判、それは偶然の結果でしかないかもしれないという問いが、マサキ・セトの問題意識には当然あるが、牧名沙羅自身は自分のこととしては(少なくとも前半は)捉えていない。
ラスト、沙羅が巨大な同情塔の前で立ったまま固まり小さい塔のようになってしまうシーン。沙羅は自分の意志で垂直に立ち上がろうとする。そこに人間の偉大さを込めているようにも見えるが、実は誰か他の男によって沙羅はコンクリートで固められてしまう。人々は言う。「Ecce,homo」(注3)と。ここは、沙羅にこそ問題は集中的に現われていた、とのメタファーかもしれない。罪なき沙羅、あるいは、問題を背負った沙羅。彼女もまた「監獄」の住人だった。「彼女も監獄から出られるのに」と拓人が言うシーンがある。(315頁)人間の本来持つ悲劇性を作者はここに込めたのかもしれない。
なお、九段理江は1990年埼玉県生れ。『悪い音楽』『Schoolgirl』『しをかくうま』など。
(注1)国立競技場:2020年東京五輪(開催は2021年)の国立競技場の建設については瞑想した。当初ザハ・ハディドの案があったが、様々な問題が噴出し、ザハ・ハディド案は捨てられ、隈研吾によって建てられたのが現実。小説ではザハ・ハディド案が実現したパラレル・ワールドを設定している。
(注2)アマゾンの評を見ていると、リベラリズムの寛容性の行き過ぎを風刺した小説だ、との趣旨のコメントがあったが、方向違いだと思う。むしろ「隔離」は真の「社会的包摂」「共生」ではない、という問いが作者にはありそうだ。
(注3)Ecce,homo(エッケ・ホモー):最も惨めな姿で群衆に辱められるキリストをさしてポンテオ・ピラトが言った言葉。「見よ、この男だ」の意味だが「この人を見よ」と訳すことが多い。怒れる群衆に対しピラトは「この男を見よ、すでにこれだけ痛めつけられている」(神学的には「彼には本来罪はない」とピラトは自覚せずに言ったなどの解釈がある)という文脈で言うのだが、民衆はキリストを許さなかった。(ヨハネ伝19章)。古来芸術のテーマとされ、ニーチェは『この人を見よ』という著書を書いた。