James Setouchi

 

高山羽根子『首里の馬』第163回芥川賞受賞(2020年上半期)

 

作者:1975年富山県生まれ。多摩美大卒。二十代は美術関係の様々な仕事をしたが三十代半ばで転職し、社会人向け文章教室に通う。根本昌夫(文章教室の先生)に見いだされる。野球好きで、沖縄には野球のキャンプを見に行く。そこで情報を得て『首里の馬』につながった。(文藝春秋令和2年9月号掲載の芥川賞受賞者インタビューなどから)

 

『首里の馬』:面白い。一読の価値はある。舞台は現代の沖縄、首里

 主人公は未名子という若い女性。沖縄の様々な古い資料をつめこんだ資料館に通い、そのインデックスを作る作業を、好きでしている。友人も家族もなく孤独。この資料館は、民俗学者の順(より)さんという年老いた女性のもので、順さんは全国を回ったあげくに晩年にここに居を構えて沖縄の資料を収集している。王朝以前の時代、王朝時代、琉球処分、戦争、戦後の変化など様々な変化の蓄積が、データとしてそこには積み上げられている。

 これとは別に、未名子が収入を得ている仕事は、謎の仕事。那覇の雑居ビルの人気ないあやしげな一室で、一人古ぼけたPCに向かい、現われた画面上の人物に不思議なクイズを出すだけの仕事。指示は東京から来る。クイズの相手は、謎なのだが、どうやらヴァンダは宇宙空間、ポーラは海底、ビバノは戦場の核シェルターにいる人のようだ。全員が孤独だ。

 やがて彼らの人生が語られ、順さんの人生が語られる。世界は空間的にも(宇宙から海底、戦場から平和な日本へ)時間的にも(古代から現代へ)と広がる。その中で人間の孤独が、社会が問われる。

 日本が豊かだった時代、華やかな表通りでは賑やかなクイズ番組が人気だった。が忘れられた裏通りには片隅で生きる人々がいた。繁栄の傍らで、カウンターとして小さなコミュニティーを作る人々がいた。社会と隔絶したコミュニティーに住む人々を世間の人々は白い目で見た。その意味は何か? この問いを作者は提示する。

 この話の中心には宮古馬がいる。宮古馬のヒコーキ(未名子が名付けた)は嵐の夜未名子の家に迷い込んできた。孤独な、周囲に害を与えない大人しい馬だ。(だが本当は強く、危険な存在だ。)まるで未名子のようだ。あるいは、現代の人々のようだ。それは宇宙や世界に比したら極めて小さい。しかし確かにそこに存在している。

 すべてのものは変化するが、どんな小さな存在の痕跡も失われてはいけない、と未名子は考える。知識や学問、また人間が生きることの意義への考察は不十分だが、少なくともその問いがある。物語の展開は面白い。作者の今後を待ちたい。

 

遠野遙『破局』第163回芥川賞受賞(2020年上半期)

 

作者:1991年、神奈川県生まれ。慶応大学法学部卒。『灼眼のシャナ』『ねじまき鳥クロニクル』などに影響を受ける。大学で小説を書き始める。漱石全集に文体を学ぶ。2019年『改良』で文藝賞。(文藝春秋令和2年9月号芥川賞受賞者インタビューなどから)

 

『破局』:あまり勧めない。(そう言うと読みたくなってしまうかもしれないが…)主人公のやることが不快だ。若い人には必ずしもお薦めできない描写も多い。

 舞台は現代の日吉と三田なので、登場人物たちが慶応の学生だとは想像がつく。主人公の陽介は大学4年生で高校ラグビー部のコーチをしながら公務員試験を目指している。彼女がいるが新入生に手を出す。友人でお笑いライブをしている「膝」が出てくる。 

 (以下ネタバレ)自分勝手で共感能力がなく肉体の頑健さを武器にしている主人公が、最後に「破局」に至る話。自慢のラグビーも大学では通用せず、体力もあてにならず、彼女に捨てられ、過ちを犯す。公務員試験もこれで失敗だろう。作者はいやな奴である主人公を造形して最後に破局に陥らせるという仕掛けをわざと作ったのだろうか。

 これを読んで東京の(慶応の)大学生はこうだろうなと誤解する人がいたらいけない。陽介の恋人の麻衣子はそれなりにつらい人生があるとわかるが、新しい恋人の灯(あかり)の背景は描いていない。陽介が何か悲しみを背負っているらしい描写はあり、真に他者の悲しみに立ち会うことがないゆえの人生の空虚感かなと想像するが、それ以上ではない。「かれの『欠落』とは、しかしいったい何なのかと、思索を誘う力が弱い感じがした。」と評者の奥泉光が言っているのに同感。

 

宇佐美りん『推し、燃ゆ』第164回芥川賞受賞(2020年下半期)

 

作者:1999年静岡県生まれ。大学生。小学校の時物語を書く面白さに目覚める。中学は演劇部、高校は合唱部。幼少時から世界文学全集を読む。好きな作家は村上龍を経由して中上健次。デビュー作『かか』で第56回文藝賞。『推し、燃ゆ』は第二作。(『文藝春秋』2021年3月号の作者インタビューから)

 

『推し、燃ゆ』:綿矢りさや金原ひとみ以来の若い作家の受賞。もっとも、芥川龍之介自身も『羅生門』は二十代前半だし、大江健三郎の芥川受賞(『飼育』)も二十代前半だ。

 主人公で語り手の「あたし」はまずは高校生。4歳の時に出会った8歳年上のアイドル(「推し」、と言うらしい)を懸命に推している。が、「推し」はファンを殴ったらしく、ネット上で炎上している。そこから話は始まる。

 「あたし」はどうやら生きづらさを抱えた女子高生で、授業中は居眠り、保健室の常連、学校は欠席がち。バイトも家事もままならない。父は単身赴任で外国、母と姉が「あたし」の世話をしてくれるが手を焼いている様子、祖母は入院している。「あたし」にはなぜ周囲が困っているか分からない。困っているのは「あたし」なのに。

 「あたし」は、「推し」を見つめ「推し」について研究しブログを書きグッズを買い集める時には生きている実感を得る。だが、その「推し」も芸能界で立場が悪くなりそうだ。「あたし」はどうするのか? ここから先はネタバレになるので書かない。ラストは悪くないと私は感じた。

 16~17歳くらいの女子のアイドル「推し」という小さな世界に拘って書いており、そこには環境、食糧、資源・エネルギーなどの問題は語られない。東アジア情勢も貧富の格差も扱われない。(もっとも、主人公は生きづらさを抱えているので、近い将来貧困者になる危険性は大いにある。)人間の罪と救済も問われない。ただしその狭い世界の中については、きちんと言葉で描き込んでおり、若いのにすごいなとは感じた。その世界は若者のSNSの世界でもあり、私にはよく分からない用語(「チェキ」「インスタ」「スクショ」「アカウント」「シリアルコード」「リプライ」「グッドボタン」「スタンプ」「エゴサーチ」「フォロワー」などなど)が当たり前に並ぶ。今の子はこういう世界を当たり前だと思っているだろうが、50年経ったらこれらの言葉も死語になって注釈が要るようになるかもしれないな、と思いつつ、ともかくも今の子の住んでいる世界がこうなのか、と思いながら読み進む。

 生き苦しさ、他の人との世界の見え方のずれ(違和感)については、ある程度以上書いている。確かにこれなら生きづらいだろう。だが、そこを正面から掘り下げ、ではどうすればいいか、についてもっと書いてもいいはずだが、そこは書いていない。

 また『コンビニ人間』(村田沙耶香)と比べると、『コンビニ人間』ではコンビニのマニュアルに習熟することで社会に適応し、明るいユーモラスな描写も多いが、『推し、燃ゆ』はそうではない。沢山書き込んでいるのは、「推し」にのめり込む主人公の姿だ。「あたし」はそうとしてしか生きていけない。「痛い」人生ではある。 

 (以下ネタバレ)

 ラスト、「推し」はある変容を見せる。「あたし」は偶像を喪失する。だが、それによって「あたし」も人生に対するある覚悟を持つ。「這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。」ここはよい。ある種の感動があった。が、もっと書いてほしかった。ここまでが長すぎた。

 選評から一部を抜き出すと、松浦寿輝「(ラスト近くまで来て)不意にじわりと目頭が熱くなってしまったのは、いったいどういうわけなのか。」島田雅彦「無意識から意識が立ち上がるその発語のスリリングな瞬間が連続しており、その躍動感に自分まで少女になったような錯覚を覚えた。」小川洋子「推しを通して自分の肉体を浄化しようともがく彼女の姿が、あまりにも切実だった。」堀江敏幸「最後の最後、自分の骨に見立てた綿棒をぶちまけ、それを拾いながら四つん這いで支えて先を生きようと決意する場面が鮮烈だ。」吉田修一「残念ながら真新しさを感じないまま読み終えてしまった。」平野啓一郎「結末もまた心憎いが、本当に主人公のような境遇に相応しいのだろうかと、疑問が残った。」などなど。(『文藝春秋』2021年3月号から)

 

 芥川賞は文藝春秋社が仕掛ける、日本でももっとも有名な賞の一つだが、読んでみて悪くは無い。この中から大作家が育つこともあるし、同時代の雰囲気を知ることもできる。第1回(昭和10年)は石川達三『蒼氓(そうぼう)』で、ブラジル移民の話だ。