James Setouchi
尾崎一雄の短編『暢気眼鏡』『虫のいろいろ』ほか
1 尾崎一雄1899(明治32)~1983(昭和58)。
父祖は小田原の由緒ある神社の神官。父は皇學館(伊勢)の講師。一雄は父の仕事の関係で三重県に生まれたが、4才から神奈川県小田原育ち。法政大を経て早稲田大に学ぶ。志賀直哉(しがなおや)(注1)に傾倒し、作家を志すが、徒食により貧窮に陥る。父祖の資産を売って生活。若い妻との結婚を機に再生、1937(昭和12)年『暢気眼鏡(のんきめがね)』で芥川賞受賞。戦時中に重病で小田原に帰省。戦後も創作を続け、1978(昭和53)年文化勲章。(注2)(集英社日本文学全集の小田切進の年譜を参照した。)
彼の作品(の多く)には不思議なユーモアがある。貧しい時代が長く、病気でもあったが、有人や家族との交わりの中で「暢気眼鏡」をかけて人生を眺める。どこか達観しており、余裕がある。妹の死、戦災における大量死などを目の当たりに見て、否応なく無常の感覚を持ちつつも、しかし生を見つめ生きていこうとしている。どこまでが事実でどこからか虚構かは分からない。原則として虚構として読むべきものだろう。
2 いくつか紹介する。
『暢気眼鏡』1933(昭和8)。
「私」は作家だ。芳枝という若い妻と暮らしている。「私」は金がない。家賃が払えず夜逃げをしたり友人の家に転がり込んだりしている。妻の芳枝の天然ぼけとも言うべきキャラクターのおかげで「私」は助かっているが、同時に妻に対してすまない気持ちも持っている。昭和12年芥川賞受賞。
『芳兵衛』1934(昭和9)
芳兵衛とは、「私」の妻、芳枝のこと。二十二才と若く(私はすでに三十才頃)臆病者で、かついわゆる天然ぼけ、本文の言葉で言えば「トンチキ」である。「相当に思慮に足らぬ方で、人前に云わでものことを云ってのけ、気に入らぬことあれば誰の前でも文字通り頬をふくらし、嬉しいと腹の底をそのまま写した程の笑顔をする。」「どこでもいきなりくつろいで了(しま)う。くつろぐもくつろがぬもない、芳枝にとってはそれが自然なのだ。」「私のように三十何年もの間、世の中の規約で縛られ、それを利用する能力に欠けて何事も不如意(ふにょい)な生き方しか出来なかったものから見れば、芳枝の日日の生活は確かに一つの何かだ。」この幼い妻に接して、「私」は、心がほぐれ、また自分がしっかりしなければとの自覚を深めていく。
『擬態』1942(昭和17)
戦時中だがまだ東京はまだ被災していない。妻の芳枝が中古の風呂桶(昔の五右衛門風呂)を買ってきた。借家生活で風呂桶など置くスペースはないのに。考えた末、玄関に置くことにした。玄関風呂だ。入浴中は来客は遠慮してもらう。大家に内緒のはずだが幼い子どもがペラペラしゃべってしまった。「私」は貧乏で米もなく電灯も切られた。子どもも生まれた。「私」はニヤニヤして暮らしている。
注1:志賀直哉(1883~1971)の『大津順吉』を読んで傾倒した。なお、志賀の『城の崎にて』と尾崎の『虫のいろいろ』は心境小説の代表とされる。心境小説とは、私小説に似ているが、破滅型ではなく、調和型の作品。(コトバンクの宗像和重の記述から)
注2:牧野信一(1896~1936)、丹羽文雄(にわふみお)(1904~2005)、坂口安吾(1906~1955)、上林暁(1906~1980)、太宰治(1909~1948)、檀一雄(1912~1976)らもほぼ同時代の作家。
尾崎一雄(続き)
尾崎は、戦時中に、重病もあって、東京から小田原に帰る。病に臥しながら、すぐれた作品を書き続ける。いくつか紹介する。
『虫のいろいろ』1948(昭和23)発表。
その辺にいる蜘蛛や蠅や蜂などについて描写しながら生と死について思いを述べる。心境小説の代表とされる。「時間と空間から脱出しようとする人間の努力、神でも絶対でもワラでも、手当たり次第掴(つか)もうとする努力、これほど切実でもの悲しいものがあろうか。・・・なぜ諦めないのか、諦めてはいけないのか。だがしかし、諦めきれぬ人間が、次から次へと積み上げた空中楼閣(ろうかく)の、何と壮大なことだろう。そしてまた、何と微細セン細を極めたことだろう。」圧倒的に巨大な存在(自然?)の前では人間も虫も大差ないちっぽけな存在でしかない。だが、こうやって生きている。(「セン細」は原文のまま)
『大観堂の話』1949(昭和24)。
若い頃「私」は貧乏で、いつも早稲田の本屋の大観堂(本屋の主人をこう呼ぶ)から金を借りていた。大観堂はいつも貸してくれた。その大観堂が亡くなった。大観堂との思い出を書き綴りその人となりをしのんだ文章。「私」はここでも生と死について考える。「いつのまにかこの世に生れ、いつとは知らず、しかし確実に死んでいく。それが私に予定されたことであり、同時に、あらゆる生物にとって決められたことだ。」
『なめくじ横丁』1949(昭和24)。
高田馬場の近くの檀一雄(作家。尾崎一雄とは別人)の家に住み込んでいたときの思い出を綴る。若い作家の卵たちが出入りし、談論風発だった。ここに尾崎一雄の創作態度が少し書いてある。「人間があり、生活があって、やがて芸術がある、としている私には、書くために、小説にするために、生活を設計する、などとは倒行だ、としか思えぬ。それで書けなくなったら、書かなければいいのだ。」これは、また、いわゆる私小説家、告白小説家たちへの批判でもある。
『痩(や)せた雄鶏(おんどり)』1949(昭和24)。
重い病に伏しながら、緒方(作者の分身らしい人物)は人生を振り返る。自分は重い病で、代わりに妻がしっかりしてきた。隣の家の雄鶏は、家族を引き連れて家長としての勇姿を見せる。対して自分は。家族の幸せを願い、自分は態度が穏やかになってきた。幼い娘が海水浴に連れて行けという。自分は生と死について考える。「自分が病気になり、どう考えても余り長い命でない、という事実にぶち当ったとき、緒方は始めて、痛い、と感じた。・・改めて見直すと、ひどく新鮮であった。ありふれたあたりのものも、心をとめて見ると、みんな只ものではなくなった。」「緒方は、いのち、或いは生というものについて、納得したいのだ。」「俺は、癇癪(かんしゃく)を起さず、凝(じ)っと持ちこたえて行こう。堪え、忍び、時が早かろうと遅かろうと、そこまで静かに持ちこたえてゆく、―それが俺のやるべきことらしい・・」
『退職の願い』1964(昭和39)
「私」は六十代となった。長女と長男は結婚し子どももある。次女は未婚だが社会人となった。空襲もあったが、皆さんよく育ってくれた。半生を顧み語り直している。
3 コメント
ブログのコメントなどを見ると、「この程度なら今なら誰でもブログで書く。もはや小説としては絶滅したジャンルだ」と言ってしまう人もあるが、「生と死を見据える透徹したまなざしに打たれる」といった高評価もある。プロットの卓抜さ、劇的な構成などはない。が、単なる身辺雑記に見えながら、実は、病と貧苦に苦しむ自分をいったん突き放し、「のんき眼鏡」をかけて眺め、余裕あるポーズで描く中に、不思議なユーモアがあって、面白い。「ささやかな自己を凝視し反芻して、・・私小説的なきびしい自己検証を経過することなしには、文学は、たとえ筋立てのおもしろさや、社会的視野の広さ等において得るところがあったにしても、ついに根を失った絵空事になりかねない・・その危険は、問題を論理的に把握して追求する力と、厳しい倫理観に欠けるところのある日本の作家にとってはことに顕著」「その点で私小説は地の塩的な役割を果たす」と山室静は言う(新潮文庫『暢気眼鏡』解説)。
(R4.8記す)