James Setouchi
尾崎一雄『すみっこ』 筑摩現代文学大系47(1977年)にある。
1 尾崎一雄 1899(明治32)~1983(昭和58)。
父祖は小田原の由緒ある神社の神官。父は皇學館(伊勢)の講師。一雄は父の仕事の関係で三重県に生まれたが、4才から神奈川県小田原育ち。法政大を経て早稲田大に学ぶ。志賀直哉(しがなおや)に傾倒し、作家を志すが、徒食により貧窮に陥る。父祖の資産を売って生活。若い妻との結婚を機に再生、1937(昭和12)年『暢気眼鏡(のんきめがね)』で芥川賞受賞。戦時中に重病で小田原に帰省。戦後も創作を続け、1978(昭和53)年文化勲章。(集英社日本文学全集の小田切進の年譜を参照した。)
2 『すみっこ』昭和30年『群像』に発表(作者は当時54歳)
寺田透は失敗作としたが、三島由紀夫は「私小説の方法論を、徹底的に利用した」フィクションとして評価した。稲垣達郎、本多秋五、高橋英雄は評価した。(筑摩現代文学大系の紅野敏郎の解説による。)尾崎一雄と言えば身の回りの些細な出来事や虫の色々を取り上げる、一見身辺雑記風の私小説、心境小説で有名だが、この小説は違う。完全にフィクションだ。語り手は「ぼく」なので私小説の体裁をとっているが、全く違うことはページをめくればすぐわかる。尾崎一雄なりに展開を構想し、その中で生と死をめぐる思索を展開している、一種の思想小説である。読むに値する。
「ぼく」が今まで誰にも打ち明けられなかった内面の秘密を、信頼する「先生」に手紙で打ち明ける、という体裁をとっている。
「ぼく」は海軍の兵士として駆逐艦「眉月」に乗り組み、多くの人の死を見てきたが、自分は死を免れてきた。「自分は運がいい」のだとずっと思ってきた。
戦争が終わり、復員した「ぼく」は、戦友・加納の従妹と結婚し、子供が生まれてみると、兎唇だった(注1)。「ぼく」は衝撃を受ける。闇屋をして手術代を貯金し、妻と協力して子供の世話をし、手術をした。子供はかわいいが、今度はO脚を医師から指摘された。子供が怪我をしないようにと部屋に閉じ込め太陽に当てていなかったせいだ。また努力して子供の世話をした。
さらに(ネタバレします)幼いその子は突然電車に轢かれて死んでしまった。不運続きだ。これは一体どういうことなのか。何が悪かったのか。「ぼく」は「運がいい」と思ってきたが、間違いだった。妻の母は「何事も仏様の思し召し、信心しなさい」と言うが、「ぼく」には納得できない。
「善因楽果、悪因苦果」という言葉があり、「親の因果が子にたたり」という言葉があるが、本当に恐ろしい。自分は戦友の加納と喧嘩し「死んでしまえ」と思ったことがある。障がいのある子供のことを「いっそ死んでくれれば」と思ったこともある。それらが実現したのか。旧約聖書の『ヨブ記』も読んでみたが、共感できなかった。宇宙の五百億年の寿命に比べると人間の五六十年の時間は短くも尊いとも思う。あのとき、内職で忙しく、騒ぐ子供に「外で遊んでいなさい」と言ってしまった。子供は5分で電車に轢かれてしまった。両足がちぎれ死力を尽くして家に向かって這ってきた子供は「・・・ぼくが悪いんじゃないよ」と言った。結局「外へ行け」と言ってしまった父親である自分のせいではないのか。だが、誰が悪かろうが善かろうが、子供が突然この世から消えてしまった、という事実は動かすことができない。妻も悲しんでいる。
気づいてみれば障がいを持った人も多い。誰しも何らかの不幸を背負っている。「ぼく」は、自分の人生を支配している何者かに対して、納得しない。ささやかでも抵抗したいと考える。二人目の子供は持たない。それがささやかな「ぼく」の抵抗だ。
ラストは、反出生主義の思想の表明になっている。そこは賛成しない。実際の尾崎一雄は32歳で長女に恵まれ、子供たちと幸せに暮らした。この小説では、子供を喪失した悲しみが強く伝わる描写になっている。(反出生主義について考察されたい方は、森岡正博に本がある。)
なお、本作には、現代であれば差別的表現とされる言い回しも用いられている。障がいがあっても困らないユニバーサルデザインの社会にすべきは、今日では常識である。
注1:兎唇は、口唇口蓋裂。本作では2000人に一人と書いてあるが、神奈川県立こども医療センターの形成外科のサイトによると、口唇口蓋裂は500人に一人位の割合で出現する。近年では治療も確立されつつあり、適切な時期に適切な治療を受ければ機能的障がいなく通常の社会生活を送ることが出来る。(http://kcmc.kanagawa-pho.jp/department/koushin-kougairetsu.html)
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