James Setouchi
柳美里『JR上野駅公園口』河出書房新社 2014年 文庫は2017年
1 柳美里(ゆう・みり)
1968年生まれ。横浜の高校を中退、役者などを経て劇団を結成。97年『家族シネマ』で芥川賞。『フルハウス』は野間文芸新人賞。『ゴールドラッシュ』『命』『8月の果て』『雨と夢のあとに』『グッドバイ・ママ』『まちあわせ』『貧乏の神様』『ねこのおうち』『人生にはやらなくていいことがある』など。震災後2015年福島県南相馬に移住。『JR上野駅公園口』の英語訳『TokyoUenoStation』(MorganGiles訳)で全米図書賞。(河出文庫の帯の紹介などを参考にした。)
2 コメント(ネタばれあり)
・全米図書賞(2020年)受賞と言うので読んでみた。もしかしたら次のノーベル賞になるかもしれないとも。(ノーベル賞候補には多和田洋子、小川洋子らの名前も挙がっているか、と言われる。)
・「『帰る場所を失くしてしまったすべての人たち』へ柳美里が贈る傑作小説」と本の帯にある。本当にそうなら素晴らしい。だが、この本を読んで救いや励ましが得られるのか? と私は問いを持った。主人公はつらい人生を送ってきた。作者はホームレスや東北の震災の被害者の話を聞き取って書いているようなので、つらい事実を「自分たちのことだ」と共感する読者もいるかもしれない。が、そこに希望はあるのか? 救いや励みになるのか? 読者諸氏に聞いてみたい。
・語りの現在は平成24年(2012年)の6月と思われる。本文中に、東日本大震災の翌年である(36頁)、「我が政権は昨年の9月に発足」(37頁)と言及がある。2011年9月に野田内閣が発足しているので、語りの現在は2012年。「もうすぐ朝顔市」「再来週の金土日だな」(45頁)とあり、入谷朝顔市は七夕にあるので、現在は6月。上野公園管理事務所の張り紙が「更新期限平成24年8月末日」とある(128頁)のでそれ以前。桜が咲いているので平成24年の春か。但しこれも回想であって、語りの時点はもっとあとかもしれない。上野駅2番線のホームで主人公の森(森の現在についてはここではあえて秘する)は過去を回想する。
・森は昭和8年(1933年)の生まれ。森の息子浩一は昭和35年(1960年)2月生まれ。この父子の年齢は、あえて平成天皇陛下と今上(令和)天皇陛下と同じ年齢にぶつけてある。この符合は繰り返し出てくる。天皇陛下がポジなら森はネガだ。天皇陛下の上野行幸に際しては、行政がホームレスを立ち退かせ、上野周辺をきれいにする。立ち退かされる側は大変である。(解説の原武史は天皇権力への批判を読み取る。)
・森は昭和8年(1933年)福島県相馬郡八沢村の貧しい家庭に生まれ育った。(そこは津波・地震・原発事故で破壊される場所だ。)近郊や北海道で出稼ぎをして生活。結婚し子供ができたので金が必要になり、昭和38年(1963年)東京五輪の前年東京に出稼ぎにきた(30歳)。盆暮れにしか帰省しない(18頁)。昭和56年(1981年)長男が21歳で急死(森は当時48歳)。平成5年(1993年)ころ田舎に帰った(60歳)。平成12年(2000年)ころ妻が65歳で急死(森は67歳)。孫娘の世話を受けるが、これ以上家人(孫たち)に迷惑をかけられないと、家出をし、上野駅近くのホームレスとなった。平成18年(2006年)平成天皇の行幸が上野にあった(73歳)。周囲にはほかにもホームレスたちがいる。それぞれの事情を抱えている。森たちと対比するためか、上野公園(美術館やレストランがある)を行き来する豊かな(「普通の」)一般人が出てくる。彼らは同窓会や美術展に行き、旧友の噂話をし、彼女やレストランのメニューについて語り合う。森たちの暮らしはそうではない。
・森の息子の浩一は21歳で急死した。その悲しみと葬儀について多く頁を割いて語られる。
・森の先祖は昔富山エリアから福島に移入してきた「よそ者」で、土地の人たちから差別されている。(在日韓国人である柳美里の体験が投影しているかもしれない。)富山からの移住組は真宗の信者で、念仏をする。森にとっては失われた過去だが、なぜ長々と書き込んであるのか? 息子の死が大きな悲しみだったとは言える。だが、人は死んだらどこへ行くのか? の問いがこの作品のもう一つの主題であるからに違いない。(後で触れる。)(人は死んだらどこへ行くのか? 柳美里の書き込んでいる内容が真宗の教義に忠実かどうか、知らない。死んだら往生する=仏になる、と書いているが、私の理解では、念仏をして招かれるのは極楽浄土で、次には仏になることが確定する立場になる。「往生すれば次は必ず仏になる」をつづめて「死んだら往生する=仏になる」と表現したものか。なお、そこから自在に移動して随所に行ける、とは私もこの本の説明と同じ理解。)
・それでもホームレスにはホームレスなりの生活がある。隣人もありギリギリだが何とか生きている。シゲちゃんというホームレスは昔学校の先生だったのか、知的で、上野エリアの歴史を解説してくれる。
・平成23年(2011年)9月の震災・津波・原発事故についても言及される。多くの人が大切なものを失った。それを忘れて2020年の東京五輪へ向け浮かれているのは嘘だ、この人々を忘れるな、と作者は言いたいに違いない。だが、この物語によって読者は慰めや励ましを得られるだろうか? 希望は得られるだろうか? そこが気になるところだ。
・(本当のネタバレ)実は森は既に死んでいる。霊となってゆかりの地をうろつき回り、過去を回想しているのだ。住職は言う、阿弥陀仏は全ての命を救う、救うということは仏に生まれ変わる、すなわち我々を救う側に生まれ変わるということだ、阿弥陀仏の代わりとしてこの娑婆世界で苦しむ我々を救うために菩薩となって還ってくるのだ、亡くなって終わりでは無いのだ、と(68頁)。森は死んだ、だが森の霊は菩薩となって上野駅周辺を、福島のゆかりの地を、移動しているに違いない。成仏していないのではない。我々を救済するために菩薩になって敢えてここに踏みとどまっているのだ。我が友(勝手に友だちにしてしまったが)、柳美里よ、私はあえてそう解釈してみたいのだ。そう解釈すれば救いがあるだろうか?
・67才で家出をし、上野駅のホームレスとなって生活し、73才で平成天皇の上野行幸に遭遇したあたりまでは生きていたのだろうが、いつ森が死んだのかはわからない。死に場所を探しているうちに上野公園に5年間も過ごしてしまった(138頁)とあり、そのあと平成18年(2006年)11月20日の平成天皇の上野行幸のための特別清掃が出てくる。森73才時の平成天皇の行幸のあとに「不意に、涙が込み上げた。…」(157頁)とあり、その後徒歩で上野駅改札を通って山手線2番線の階段を下りる(160頁)シーンがあるので、この時かもしれない。ああ、森は、うつ病気味になり茫然自失の中で線路に転落したに違いない・・・それは自殺か事故か? 本当は区別がつかないのではないか・・・?
・2011年3月の東北の大震災と津波の描写がある(163頁以下)。2011年6月のルドゥーテの『バラ図譜』展(105頁)(上野の森美術館)、2012年の野田首相の発言のニュース(37頁)が出てくる。森の死が2006年だとすると、既に死者となった森の霊が福島や上野まで飛んで見たシーンだと言える。あるいは、森は2012年春までは生きていたとすると、2011年3月の津波は、森の霊が過去に遡ってそこへ行って見たシーン、2012年の野田首相の発言は生きている森が聞いた発言、ということになる。(いや、そういう事実確定が大事ではなく、現在のことなのか過去の回想なのかは判然としないまま森の意識が体験したリアルとして読者に示される、と言うべきなのかもしれない。
・似た構成の作品に、メキシコのファン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』がある。語り手は町をさまようが、実はそこは死者の町だった。語り手自身も冒頭ですでに死んでいて、幽霊の語りだということが、最初は分からないが、読んでいると読者に分かる仕掛けになっている。(柳美里作品で森が上野ですれ違う人々は全員が死者というわけではない、という違いがある。生きている裕福なマダムや勤め人たちは、貧苦と排除に死んだ人々のことを意識することはない。森は排除されて死に、死後も排除される。二重の排除がある。このことへの批判が柳美里作品にはありそうだ。)
・森は救われたのか? 森は言う、死ねば死んだ人と再会できるものと思っていた、でも気が付くとこの公園に戻っていた、と(103頁)。森の霊は今はこのあたりをうろついているが、やがて、住職の話にあるように、菩薩として立ち上がって多くの人の救済を始めるのだろうか? これはその前夜である、と書けば信仰と救済の物語となる。が、柳美里はそうしなかった。
・年代順の並べ替え(年齢は概算で多少の誤差を含む。)
1933(昭和8) 森、福島県相馬郡に生まれる。平成天皇と同年。のち地元で結婚。妻の名は節子。
1960(昭和35)息子の浩一生まれる。今上(令和)天皇と同年。森は27才。
1963(昭和38)森、東京に出稼ぎに行く。この時初めて上野駅のホームに降り立った。森は30才。
1964(昭和39)東京五輪。
1981(昭和56)息子の浩一、死す。森は48才。
1993(平成5)森、福島に帰る。妻と暮らす。森は60才。
2000(平成12)妻、急死。森は孫娘の世話を受けるが、出奔。再び上野へ。森は67才。
2006(平成18)平成天皇の行幸が上野に。森は73才。森、死亡?
2011(平成23)3月、東日本大震災。6月、ルドゥーテ『バラ図譜』展。9月、野田内閣発足。
2012(平成24)6月、語りの時点か。
2014(平成26)『JR上野駅公園口』出版
2020(令和2)東京五輪(予定)→コロナのため2021実施