2024.8.3
James Setouchi 佐多稲子3『機械のなかの青春』『夜の記憶』
1 佐多稲子1904(明治37)~1998(平成10)
長崎生まれ。11歳のとき一家で上京、一家困窮のため少女時代から様々な仕事をした。堀辰雄、中野重治、窪川鶴次郎らと出会い、詩や小説を書く。プロレタリア作家同盟に入る。日本共産党に入る。当局から弾圧される。戦時中は大佛次郎や林芙美子らと戦地慰問をした。戦後は婦人民主クラブを創立し、新日本文学会に所属。共産党からは、除名・復党・再除名を繰り返した。社会活動も行いつつ作品多数。(集英社日本文学全集の小田切進の年譜などを参考にした。)
2 『機械のなかの青春』昭和29(1954)年、50歳の時発表。
佐多は昭和26年共産党から除名処分を受けた。作家活動は続け、昭和30年7月に共産党に復党。本作は復党の直前の発表である。(以下、ネタバレ有り。)
戦後の労働組合も存在する紡績工場の年若い女工たちの世界を描く。中国の周恩来外相、朝鮮戦争休戦などが出てくるので、昭和28年3月よりあとが舞台とわかる。
恐らくは中学を出て就職した年若い女工たち。昼夜二交代制で忙しく働く。「苦しい労働は全部機械がして、人間は芸術や学問や宗教信仰などに専念できる世の中になればいいのにね」と私などは夢想するのだが、本作では、機械を扱う女工が機械のペースに引きずられて心身共に苦しむ。おや、最近のIT化でも同様のことが・・?
会社は、朝鮮戦争特需が終了した後の景気の落ち込み分を人員カットで対応し、女工たちに、より過酷な労働(「労働強化」)を強いる。
寄宿舎で暮らす女工たちには、それなりの青春もある。恋愛も。同世代同士のぶつかり合いも。田舎の家族(親や弟妹)も。
労働組合運動がテーマの一つになっている。
兼松美代は貧農の出身で妹が失職したので危機感を持っている。知らず知らず組合運動の代表に押し出され自覚を高めていく。文集の編集員だが会社はその内容までチェックし美代を「アカ」として包囲していく。石坂くにはかなり過激だ。一度に全部ひっくり返ればいい、と発言する。三好さなえは栗本という恋人ができ喜ぶ。が栗本が資格を取り管理職に近くなると、功績を上げるため、仲間の女工たちを締め付けはじめ、女工たちに嫌われる。その挟間で三好さなえは苦しむ。「機械のなかの青春が、会社の職制の仕組みでこんな悩みを持つなんて・・」と、美代が尊敬する草野は言う。井関のり子は模範的な女工であることに誇りを持っている。周囲から嫉妬されながらも模範的女工として懸命に働く。が、縁談を断られ、女工仲間からも会社側のスパイだと見られ、ハードワークがたたって精神に変調を来す。皆、怖くなる。
組合の賃上げ闘争では、同じ労働者なのに上位の者・男性にのみ有利な案を組合が呑もうとし、大多数を占める女工たちが遂に怒り始める。資本の横暴だけでなく、組合の幹部の横暴、男性上位社会などをもここでは問うている。他にも貧しい女工たちが多数出てくる。
ラストはやや模範解答的な結論(「みんなで一緒に闘おう」)になったと感じた。とりあえずそれしかないのかもしれないが、そこから取りこぼされるものがあり、それにこだわりたいはず。
昔は春闘やメー・デーと言えば全国の労働組合運動が盛り上がっていた。国会で保革伯仲・逆転の可能性もあったので、社会党の提案を自民党が呑み、労働者・女性の地位の向上がなされ、軍拡への一定の歯止めがなされた、と私は感じている。私は詳しくないのだが、国鉄分割・民営化(1980年代中曽根内閣)で、全国組織としての国労・動労が一挙に弱体化した。郵政民営化(2000年代小泉内閣)で全逓も弱体化した。マクロで見てこのような印象がある。労働組合運動は下火になり、結果、ブラック・ワークが蔓延し、正社員も非正規の人も多くが苦しむ時代になってしまった、と誰かが書いていた。なるほど。(ここで私は、「労組には問題がなかった」とか「これからは労組を復活しさえすれば事態は改善する」とか言っているのではない。かつて労組が一定以上の力を持っていたが今はその力を失い、働く人が苦しむ社会になった、というのはどうやら確からしい、ではどうすればいいのだろうか? と言っているだけである。)本作は、昭和20年代の、社会党や共産党、また労組が勢いがあった時期を描いている。
なお、本作は繊維工場が舞台だ。繊維産業がかつて日本では盛んで、若い女工さんが沢山いた。その中から1964年東京五輪の「東洋の魔女」も出た。クラボウ(倉敷紡績)は、大原孫三郎以来、女工さんをはじめ働く人の生活を向上させるべきだ、それが結果として会社の利益にもなる、と将来を展望し、工員さんを庭付きの一戸建て社宅に住まわせ、労働環境を改善し福利厚生に力を注いだ、と聞く。孟子が聞いたら絶賛するであろう。最近の会社はどうなっているだろうか。非正規雇用が20世紀末から非常に増え、中卒・高校中退・非正規の若者、パート主婦、貧しい学生アルバイト、外国人、最近では引退後の高齢者に、低賃金・非正規でブラックワークを押しつけることになっていないか? 正社員のデータだけで「日本人は賃金がいくら、休日も多い」と言う人がいるとしたら、事態を見誤っている。
3 『夜の記憶』昭和30年(1955年)6月、作者51歳の時発表。
佐多稲子が共産党を除名されたとき(昭和26年)のことが書かれている。まだ若い地区委員は上部の方針に従い居丈高に怒鳴りつけ他のメンバーの意見を封じ「彼女」を除名に追い込む。「彼女」は夜遅く人々の寝静まった町に座り込み思う、「こんな事態、それは何かが違っている、何かが、どっかで違っている。」と。人間として心の交流ができる人もいるはずだが立場上仲良くできない。「彼女」は、「自分を含めてみんなの、妙な立場に陥ったいきさつを、どこか滑稽なことのように考えはじめた。」
(佐多自身は昭和30年7月に復党するが39年にまた除名される。)
共産党からの除名については私は詳しくない。(かつてはいわゆる「左翼文化人」においてはこの問題は重要なテーマだった。)政治と宗教は違うだろうが、最近の社会現象では、某キリスト教系団体の「排斥」が有名だ。少し前まで共にやってきたメンバーを、あるとき「排斥」し始める、ということをしていた。(最近は変わっているかも知れない。)(念のために言っておくが、私の知る限り、その某キリスト教系団体の末端の信者さんは、穏和で謙遜で礼儀正しく上品で勉強家で生真面目だ。尊敬できる人が多い。「勉強家で生真面目」?にもかかわらず? あるいは、であるがゆえに?)
ここで共産党と某キリスト教系団体の事例を聞き、「アカとキリシタンはやはり不寛容でダメだな、対して日本は大和=大いに調和する=の精神だからいいな」と短絡して考えた人は、不勉強だ。歴史をしっかり勉強すべきだ。
国家神道・大日本帝国時代、廃仏毀釈、大本教弾圧、「アカ」弾圧、「キリシタン」弾圧、反戦平和主義者弾圧などなどにおいて、不寛容だったのは、日本人だ。「みんなが一生懸命頑張っているときにお前は何をしているのか!?」と指弾し抑圧しレッテル貼りし排除する。江戸時代、「キリシタン」や日蓮宗不受不施派を弾圧したのは、日本人だ。古代の「大和」も、異質なもの(と権力者が見なしたもの)を排除しての「和」だった。例えば蝦夷は夷狄と見なされ「征伐」された。孔子は「和」と「同」を区別して「君子は和して同ぜず(異質な存在と調和しよう、同調圧力は不可)」と教えたが、日本人は「和」の名の下に同調圧力をかけ異質なものを排除してきた、という面がある。私は、日本列島の住民は、異質なものを受け入れそこから学びつつ成長しつつけてきた(米作も仏教も儒教も明治・戦後の西洋文化受容などなども)と考えるが、時と場合によっては日本人は極めて不寛容だったのだ。
今でも、この若い地区委員のような、不寛容で狂信的で自分を絶対だと考えている(自己自身への懐疑のない)人、それに盲従し派閥を作る人々は、身近な日本社会に実在する。こういう奇妙な上司がパワハラをしそれがおかしいとも指摘されず見過ごされる、という事態は今までいくらもあったし、今もある。(最近は減ってきたと信じたいが。)ブラック企業や勝利至上主義のブラック・スポーツ・チームはどうだろうか。こういう人がリーダーになると、あるいは、そういうリーダーに熱狂する風潮は、またそういうリーダーを出現させるシステムは、危険だ。
*寛容については、渡辺一夫やパスカルが書いている。ヴォルテールにも『寛容論』がある。
(ちなみに、尊王攘夷という四字熟語は中国にはない。「尊王攘夷狄」はある。だがそれはどういう意味か、議論がある。孔子には「尊王」はあるが、イザとなれば夷狄の所で暮らす、といった発言が複数以上あるので、孔子には「攘夷」はない、と私は言いたい。夷狄をも「徳化」し王道に「調和」させるという言い方ならありうる。幕末に過激な「尊皇攘夷」を叫んでイギリス人に斬りかかったり英国公使館を襲ったりしたのは、孔子の教えにはない、後期水戸学の生んだ、奇妙な事態だと言うべきだ。再論は別の機会に行いたい。)