2024.8.3

James  Setouchi   佐多稲子1『キャラメル工場から』『牡丹のある家』『樹々新緑』

 

1 佐多稲子1904(明治37)~1998(平成10)

 長崎生まれ。11歳のとき一家で上京、一家困窮のた少女時代から様々な仕事をした。堀辰雄、中野重治、窪川鶴次郎らと出会い、詩や小説を書く。プロレタリア作家同盟に入る。日本共産党に入る。当局から弾圧される。戦時中は大佛次郎や林芙美子らと戦地慰問をした。戦後は婦人民主クラブを創立し、新日本文学会に所属。共産党からは、除名・復党・再除名を繰り返した。社会活動も行いつつ作品多数。(集英社日本文学全集の小田切進の年譜などを参考にした。)

 

2 『キャラメル工場から』昭和3(1928)年、24歳の時発表。

 佐多稲子自身の経験が色濃く投影されている。佐多の家族は父親が会社を辞めて長崎から上京し、本所に住んだ。佐多は小学校5年でキャラメル工場(神田らしい)に働きに出た。大正4(1915)年のことだ。漱石『こころ』(「先生」は山の手に住む財産家)と『私の個人主義』(学習院=金持ちの学校=での講演)が大正3年だと想起したい。

 

 本作の発表は昭和3年だが、時代設定は不明。(佐多の伝記に即すれば大正4年頃のこと、となる。)主人公のひろ子の家族も父親が会社を辞めて地方都市から上京、ひろ子は小学校5年でキャラメル工場に働きに行く。(川のそば、とあるからどこか下町か。神田でもよいが墨田区・江東区等かも知れない。そこには年若い女工たちがいた。給金は安く、休憩もあまりなく、仕事の成果を競わされ、ついには歩合制になる。通勤手当も出ないので電車代を引くとその日の稼ぎは残らない。

 

 漱石の弟子筋の野上弥生子の描く世界は、戦前の準上流・中産階級のお嬢様の世界だ。その対極には、佐多稲子の描く、少年労働(児童労働)の世界があった。日本の戦前(大きく言って明治~昭和20年まで)は、階層・格差社会だった。

 

 ここで戦前と戦後をざっくり比較してみよう。

 戦前は貧富の差の大きい格差社会だった。本作でも、貧しい少年労働者(児童労働)が搾取され、山の手のお嬢様のための化粧品やキャラメルを作る。明治から昭和20(1945)年まで77年。この間、何度もテロがあり(例えば首相が何人も暗殺されている)、十年に一回大きな戦争をし(西南戦争から数えてみて下さい)、挙げ句に日本は焼け野原となった。大日本帝国は格差社会で壊れてしまったとも言える。

 

 対して戦後1945年から2024年まで79年。戦後は格差を縮小し一億総中流と言われる社会を実現し、この間戦争をしなかったテロもほとんどなかった

 

 ただし最近は、中流が没落し格差が拡大、階層が固定化していると感じる。(内閣閣僚に2世、3世が増えたことからもわかる。「親ガチャ」という悲しい言葉は格差拡大、階層固定化の現実をある形で表現している。)テロについては、つい先年元首相の銃撃という恐るべき事態が起きてしまった。また戦前のような状態に戻り、人々に欲求不満がたまり、為政者は内憂を外患に転化しようとして、戦争の危機が来るのか? 心配だ。

 

 戦争を避けるにはどうすればいのか? 武器を並べればいいのではない。戦前は武器がそこらにあってそれを使ってテロをした(二・二六事件など)。そうではなく、国民が安心して平和に暮らせる社会にするのが一番だろう。そのためには?

 

 念のために言っておくが、「文学史で聞いたことがあるよ」「どうせプロレタリア文学だから読まなくていいよね」などと思う人がいたとしたら、大間違いだ(偏見で排除せずいろんなものを読むべきである)。かつ、佐多の作品はステレオタイプなプロレタリア文学だと一面的に(まさにステレオタイプな偏見で)片付けて済ませられるものではない。そもそも共産党からも除名されるなど佐多は微妙なポジションにある。佐多の作品には佐多自身の人間としての感性や情感、思想が現われている。本作では、佐多自身が経験したであろう子どもの労働者の生活と悲しみが描かれている。主人公のひろ子は年齢の近い女工たちとの微妙な心理の行き交いがある。最後は小学校にも戻れない我が身の上を思い、暗い便所の中で泣く。これは佐多の実体験であるか否かわからないがリアリティーがある。「教条主義的な左翼の文学運動」ではすまされない人間的真実がここにはあるはずだ。子どもの涙を書かず読まずして何の文学ぞ。ドストエフスキーも「罪もない子どもの泣き叫ぶ声を聞け」と言っている。

 

 さらに付言:1920年代のアメリカは豊かで、超富裕層の家には召使いがいた。1950年、60年代のアメリカも豊かで、同様となった。冷戦終結後のアメリカもそう。例えばフィリピンから海を越えて出稼ぎ(子守=ナニーなどとして)に来る。英語圏からだと行きやすい。フィリピンはそれで外貨を稼ぐ。日本は、戦前、階層格差の起きい社会で、都会のカフェで働く「女給」が存在し、富裕層の家には貧困層出身の「女中」「書生」「お抱え運転手」「住み込みの家政婦」がいた。高度成長期以降「一億総中流」時代にはそれは減った。今はまた階層格差が拡大しているので、「メイド」(!?)「アルバイト学生」が多数出現し、戦前のような形になりつつあるのか?

 

3 『牡丹のある家』昭和9(1934)年、30歳の時発表。

 山陽地方の田舎(恐らくは兵庫県相生)に住むこぎく(十代)から見た田舎を描く。こぎくは都会で働いていたが肺病になり田舎の実家に戻っていたのだ。作中では兄嫁の出産が死産に終わり、兄嫁はその母親(兄から見て義母)から実家に連れ戻される。その実家は兄の家を下に見下している。こぎくは自分が肺病病みで家族の負担になっていることに絶望、自殺未遂の後、家出する。佐多は十代半ば(大正8年頃)で相生にいた。その時の経験が色濃く反映されているだろうが、二十代はじめで経験した自らの結婚、破談の屈辱の思い(次項参照)も投影されているに違いない。

 

4 『樹々新緑』昭和13(1938)年、34歳の時発表。

 宗代は23歳。上野のカフェや料亭に勤める。一度結婚し前夫との間に乳飲み子(みち代)があるが、悲劇的な破局(心中未遂)のすえ離婚した。今はみち代を実家の母に預けて生活している。櫛本という若い画家の卵と交際し、画家の卵たちと交流している。宗代は櫛本の求愛に応えたい思いもあるが、乳飲み子の宗代をかわいがりたい思いも強い。櫛本は役所勤めもあるが画家として将来やっていけるかどうかの不安もある。画壇の寵児・鷹司とも知己だ。だが、鷹司は様子がおかしい。「死にたいと思うことはないか」と宗代に聞き、やがて自死してしまう・・・宗代は夜明けの庭にセミの幼虫の脱皮を見る。それは透き通るように美しかった。

 

 佐多は大正13年一度結婚し娘を持つが幸福ではなく(夫の実家が資産家で家庭内事情が複雑、佐多は辛い思いをした)、14年には自殺未遂と離婚(当時21歳)という結果になった。上京し若い作家の卵たちと大正15(1926)年頃に知り合い、その一人窪川鶴次郎と同棲する(当時佐多は22,23歳)。その時の経験をもとに書いている。自死した鷹司のモデルは芥川龍之介だろう。

 

 ラストのセミの脱皮の描写は、新生への切ない祈りを込めた言葉だろう。

 

 ここで太宰治を想起する。時間軸で並べると、

 

大正14年、佐多自身(21歳)の自殺未遂と離婚。

昭和5年、太宰は21歳で銀座の女給・田部シメ子(18歳)と心中未遂(田部は死亡)。

昭和12年、太宰は28歳で小山初代(25歳)と心中未遂して離婚。

昭和13年、佐多(34歳)が本作を発表。太宰事件が佐多の執筆に影響を与えたかどうかは知らないが、可能性はある。

 

 佐多は貧しい女給経験者(注1)だが資産家の息子と結婚し破談。田部シメ子は銀座の女給で太宰は資産家の子。小山初代は青森の芸者で太宰は資産家の子。格差社会において貧しい女性がどんなにひどい目に遭うかを明確に示す事例として捉えることができる。

注1:但し結婚直前佐多は丸善で洋品を販売していた。当時丸善で舶来品を扱うとは、金持ちを客とするということだろう。梶井基次郎の『檸檬』を見よ。丸善の上司の紹介で資産家の子と結婚した。この結婚がうまくいけば、「玉の輿」婚となり階層を上昇できていたかも知れない。が、そうはいかなかった。)

 

 男目線の作品と違い、女目線である。男たちが「カフェの女給」「料亭の女」で済ませるところを、本作では、そこで働く女の実情と内面の葛藤を描いている。今なら「バツイチ、子持ちのわけありシングルマザーが、生活のためにカフェや料亭で働いている」というところだ。おや、これは現代の世界では・・?

 

 なお、佐多は中野重治らとの出会いで二十代でプロレタリア作家同盟・日本共産党に入るが、夫の窪川の検挙、小林多喜二の虐殺、佐多自身も検挙、起訴され有罪判決などの苦しみを舐める。その中での昭和13年、34歳での執筆である。大日本帝国は昭和6年に満州事変(柳条湖事件)、昭和12年に日華事変(盧溝橋事件)を起こし日中戦争に突入していく時期だった。それからわずか数年で大日本帝国は焼け野原になって滅亡する。