James Setouchi
橋場 弦(ゆづる)『古代ギリシアの民主政』岩波新書 2022年9月21日
1 著者 橋場弦:
1961年、札幌市生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院人文科学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。主な著書に『アテナイ公職者弾劾制度の研究』『賄賂とアテナイ民主政』『古代ギリシアの民主政』ほか、共著に『西洋古代史研究入門』『古代オリンピック』『学問としてのオリンピック』など)、翻訳にカートリッジ『古代ギリシア人』、共訳に『アテナイ人の国制・著作断片集Ⅰ』などがある。(講談社学術文庫・岩波新書の著者紹介ほかから)
2 『古代ギリシアの民主政』
目次:はじめに
第1章 民主政の誕生
第2章 市民参加のメカニズム
第3章 試練と再生
第4章 民主政を生きる
第5章 成熟の時代
第6章 去りゆく民主政
おわりに
あとがき
3 岩波新書のカバーの紹介から:
「およそ二五○○年前、古代ギリシアに生れた民主政。順繰りに支配し、支配されるという人類史にかつてない政体は、いかにして考え出され、実施されたのか。公共性に、一人ひとりが平等にあずかり、分かち合うことを基本にして古代の民主政を積み重ねた人びとの歴史的経験は、いまを生きる私たちの世界とつながっている。」(そのまま引用した。)
4 「はじめに」から:
私たちにとってのデモクラシーは理念だが、ギリシア人にとってのデモクラティアとはそこにある生活であり「生きるもの」だった(2頁)。古代ギリシアの民主政については、①小国だったからできた②奴隷制があった③衆愚政だ、といった固定観念が語られがちだが、①例外的超大国だった②古代地球か異世界では奴隷制は普通③「衆愚政」とはプラトンやアリストテレスの立場からの見方に過ぎない(6~7頁)。本書では①アテナイだけでなく古代ギリシア世界全体を念頭に置き②時間的にもヘレニズム・ローマ時代まで視野に入れ③民主政と近現代についても語る(8~9頁)。
5 「おわりに」から:
ギリシア民主政とローマ共和政は違う。前者(ギリシア)は一人に一票の投票権、後者(ローマ)は財産別グループごとに投票し、貧富の差によって投票権の重みに差がある。しかも元老院が主導権を握る。富裕者による寡頭政だ(228~229頁)。
近代でもジャン・ボダン、啓蒙主義者、市民革命の英雄たち、バークらは、民主政とはたちの悪い多数の横暴だと考えがちだった(230~232頁)。19世紀半ば以降グロート、ミル、トクヴィル、コンスタンらは、近代にふさわしい民主主義があるはずと考えるに至った(232~233頁)。民主主義が普遍的な価値として認められるようになったのはやっと第二次大戦後(234頁)。ワイマール憲法から数えても一○○年しかたっていない(235頁)。
近代民主主義の基本原理は代表制(代議制)だが、これはラテン語レプラエセンタレに由来する。「代表する」人物に権威と権力が集中すればそれは民主政ではなく寡頭政だ(235~236頁)。古代民主政の基本は「メケテイン(あずかる、分かちあう)」だ。分け前、負担、祭祀、情報を「分かちあう」ことで、これは「嫌いな人びとと共生する技術」でもあった(237~238頁)。日本にも惣村や寄り合いがあったが、古代ギリシアでは市民団自身が権力者で、王や領主やGHQのような上位の権力があってはならなかった(238~239頁)。「自分の生き方を自分の意思で決めることには、かけがえのない価値がある。…彼ら(ギリシア人)がエレウテリア(自由)と名づけたその価値は、今も色あせることがない。」(241頁)
6 私からコメント:
(1) 古代ギリシアの民主政研究の第一人者による最新書き下ろしの本。東大文学部での講義の内容に基づいている。家にいながらにして東大の先生の最高の講義が聴けるのはありがたい。世界史の知識のある人の方が理解しやすいだろうが、そうでない人も読むとよい。大変勉強になるし、現代の民主主義を考える参考になる。
(2) 文章が魅力的だ。この文章力(文体)は、上質の歴史書を読み込む日々の習慣の中で培われたのだろうか。偉大な歴史家の書く著作物は、文体に力がある。
(3) いくつか紹介すると
(ア) 五○○人評議会(ブレ)は、抽選で選ばれ、任期1年、再任なし(66頁)。執行委員会に当たる当番評議員(プリュタネイス)も輪番(67頁)。民会(エレクシア)は5000~6000人参集すれば市民全体の総意に等しいと見なされたらしい(64頁)。民会は前四世紀後半には年40回の定例会があった(64頁)。
(イ)国家の財源は神殿領など国有財産などの賃貸料、銀山の採掘収益、関税・港湾税・市場税、在留外国人からの人頭税などで、直接税は(戦時財産税を例外として)市民には課さない。(76頁)。
(ウ)役人(アルカイ)が直接行政にたずさわるが、将軍(選挙で任命)などを除けば大半は抽選で選び、任期1年、再選なし(78頁)。大抵の役職は10名の同僚団で構成、職務を分担。任期は1年(80頁)。任期終了前に厳正な審査を受ける(81頁)。
(エ)民衆裁判所(ヘイアリア)の裁判員は任期1年6000人。年間150~200日ほど裁判を開いた。(86~87頁)
(オ)陶片追放(オストラキスモス)は、近年の学説では、僭主出現の防止ではなく、有力者同士の対立の解決を民衆に委ね党争のエスカレート(内乱)を未然に防ぐため(98,107頁)。紀元前5世紀末には弁論政治の時代に入っており、陶片追放は姿を消した(146頁)。
(カ)市民は「区(デモス)」に属しそこで豊かな政治経験をする。くじ引きで評議員になると中央に行く。区長は選挙(のちに抽選)で選出、任期1年。財源は区独自の公有財産から。(152~164頁)
(キ)アテナイ民主政は独自の政治理論や成文憲法を持たなかったが、①無頭制②代表制の不在③警察権力の不在④情報の公開、という原則がある。①一人に超越的な権威や権力が集中しないようにしている。一人の長官や代表者を常設することはなかった。②区から選ばれた評議員は、決して区の利益の代弁者ではない。③警察はなく、弓兵(トクソタイ)と呼ばれる下吏(スキタイ人で固有奴隷)はいたが、彼らに権力はなかった。④情報公開は当然で、碑文に記録を刻んで公開した。識字率は成年男子の15%と推定されるが、口頭伝達で補完したろう。公文書館も重要で、閲覧権は全市民にあった。(165~177頁)
(4)古代ギリシアの話でありつつ現代の私たちの話だ。碩学(せきがく)が誠意を持って親しく語りかけてくれる。大変有益な本だ、と重ねて言っておこう。
重ねて言う、東大に入るのは大変だが、この本を読めば誰でも居ながらにして東大の大先生の講義が聴けるわけだ。
(歴史関係でこれらも読んでみよう)
桜井・橋場『古代オリンピック』、橋場他『学問としてのオリンピック』、橋場弦『民主主義の源流』『古代ギリシアの民主政』、橋場弦『賄賂と民主政』、荒井章三『ユダヤ教の誕生』、フロイト『モーセと一神教』、小川英雄『ローマ帝国の神々』、弓削達『ローマはなぜ滅んだか』、加藤隆『「新約聖書」とその時代』、高橋保行『ギリシア正教』、浜本隆志『バレンタインデーの秘密』、葛野浩昭『サンタクロースの大旅行』、ボルテール『寛容論』、越智道雄『ワスプ』、大沢武男『ユダヤ人とドイツ』・『ヒトラーの側近たち』、稲垣久和他『神の国と世界の回復』、宮元啓一『ブッダが考えたこと』、小川聡子『浄土真宗とは何か』、小杉泰『イスラームとは何か』、桜井啓子『シーア派』、宮田律『イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか』、カーラ・パワー『コーランには本当は何が書かれていたか』、勝俣誠『新・現代アフリカ入門』、白川静『孔子伝』、加地伸行『孔子』『「史記」再読』、陳舜臣『儒教三千年』、島田虔次『朱子学と陽明学』、宮崎市貞『科挙』、吉田孝『日本の誕生』、菅野覚明『武士道の逆襲』、藤田達生『秀吉と戦国大名』、渡辺京二『日本近世の起源』、遠藤周作『銃と十字架』、小池喜明『葉隠』、一坂太郎『吉田松陰』、池田敬正『坂本龍馬』、原田・森田『明治維新 司馬史観という過ち』、半沢英一『雲の先の修羅』、色川大吉『近代日本の戦争』、服部龍二『広田弘毅』、共同通信社社会部『沈黙のファイル』、赤江達也『矢内原忠雄』、黒住・福田『日本の祭祀とその心を知る』、礫川全次『日本人は本当に無宗教なのか』、小池・村上他『宗教弾圧を語る』、高橋哲哉『靖国問題』、田中彰『小国主義』、中島・西部『パール判決を問い直す』など。