James Setouchi

 

 浅田次郎『兵諫』講談社 2021年7月12日(初出『小説現代』2021年1・2月号)

 

1 作者 浅田次郎:1951年東京まれ。作家。『地下鉄に乗って』『鉄道員』『壬生義士伝』『お腹召しませ』『中原の虹』『終わらざる夏』『帰郷』などなど作品多数。

 

2 『兵諫』

 『蒼穹の昴(すばる)』シリーズ第六部。このシリーズは清朝末期から20世紀までの中国史を扱っている。続編がどこまで進むかはわからない。『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』『中原の虹』『マンチュリアン・リポート』『天子蒙塵』に続くのが『兵諫』。二・二六事件(1936年2月)よりあと、1936年初秋から1937年冬の日中開戦前夜までを扱う。

 

 「兵諫」とは、主君を兵力を使ってでも諫めること。出典は『春秋左氏伝』の荘公19年の記事で、楚の主君に対し忠臣の鬻拳(いくけん)が武器を持って強く諫めた。鬻拳は主君に対し武器を持ち出したことを恥じ自らの足を切る刑罰を自らに与えた。この故事を浅田次郎は用いている。(169頁に出てくる。)

 

 作中では、二・二六事件は兵諫である、と当事者が言う(40頁)。また張学良の西安事件は兵諫であったと特務機関の志津が指摘し(169頁)、当事者の陳一豆(230頁)も兵諫だと言う。兵諫であるからには実行者は責任を取って刑を受ける。二・二六事件の場合は死刑を覚悟、西安事件の場合は? あとはお読み下さい。

 

3 主な登場人物

村中孝次:陸軍将校。二・二六事件(1936年2月)への関与が疑われ、取り調べを受ける。

吉永将:陸軍軍人。張作霖爆殺に立ち合い、負傷。

志津邦陽:日本陸軍の特務機関員。関東軍の暴走に対して疑問を持っている。

笹井義夫上等兵:三越社員だが徴兵で近衛連隊へ。が、軍隊の理不尽さに疑問を持つ。

ジェームス・リー・ターナー:NYタイムズの記者。朝日新聞の北村や特務機関の志津と知り合い情報を分析する。アメリカのアスター財団から奨学金を貰い、エール大学で学んだ。

北村修二:朝日新聞の記者。

張学良:張作霖の子。東北の軍閥を率いている。現在は蒋介石の国民党軍に従い、ナンバー2を務めている。父親を日本軍に殺された。共産党軍と蒋介石国民党軍との共同戦線をはるべく、西安事件(1936年12月)を起こす。これは歴史の教科書に載る、周知の事件である。

陳一豆:張学良の護衛。もと散髪屋。張作霖時代から仕えているが、張作霖や宋教仁を守れなかった、との強い思いがある。

馬占山:張作霖の部下。日本に抵抗を続けた。

楊虎城:西北軍閥の長。

蒋介石:国民党南京政府。北伐により中国を統一し、「紅匪」(共産党)を排除しようとしている。日本に留学したことがあり、親日的。日本と組んで共産党と東北軍との双方を弱体化させようとしているのではないか、との疑いがある。

宋教仁:革命家。1913年に上海で暗殺される。

宋子文:資本家。その娘は宋家三姉妹と言って、それぞれ孫文、孔祥煕、蒋介石の妻である。

周恩来:中国共産党のナンバー2。

 

4 少しコメント(ややネタバレあり)

 張学良の西安事件を中心に扱っているのだが、日本の二・二六事件に触発された「兵諫」だった、という形にしている。ただし二・二六事件の轍を踏まぬよう周到に考え抜かれた作戦で、それを実行した張学良と張学良を生かすため命を投げ出した陳一豆の人物像が際立つ。NYタイムズの記者の視点も入れているので日中両国だけでなくアメリカ資本も含めた視野で見渡すことができる。なお、兵諫は武力を用いており、平和社会においてはやはり容認できないと念のため確認しておく。   

 

5 もう少し詳しいコメント(ネタバレあり)

(1)      二・二六事件についてのとらえかた

 二・二六事件の首謀者の一人として、村中孝次が出てくる。実在の陸軍軍人だが、小説でどこまで虚構化されているかは知らない。この小説では、村中と特務機関の志津が面会する。志津がこの決起の目的を問うと、村中は答える。「憲法の定めた国体を明らかにせねばならぬ。今の日本は天皇親政ではなく違憲国家だ。重臣・財閥・政党やこれに利用された一部軍人が訳の分からぬ国を捏ね上げようとしている。…我らが起てば同士が呼応し陛下も覚醒なされ明治維新の本義に退化恵里昭和維新が断行される。これが目的だ」(大意。39頁)と。そのために決起した、と言う。これに対し、志津は違和感を唱える。「貴様の言うことは理念であって目的ではない。観念的すぎて具体性を欠く。」だが、志津はこうも言う、「方法はさておき、貴様らは決して捨て石ではない。…陛下は必ずや貴様らの真意を悟られる。諸君の行動は叛乱ではない、兵諫である。」さらに、面会後の志津と吉永大佐との会話では、北一輝(民間人、思想家)にたぶらかされた一部青年将校が勝手に決起したのであって、軍全体は被害者だ、という図式を作るために、北一輝ほかをまとめて死刑にするのだ、という解釈を示している。つまり軍の面子を保つために北一輝を死刑にする、という筋書きである。

 

(2) 二・二六事件は鎮圧されて終わったが、中国大陸の張学良たちを刺激し西安事件の誘因となった。張学良は言う「二月のクーデターが私を目覚めさせてくれた。」(265頁)。史実は知らない。浅田次郎の枠組みはそうだ。

 

(3)      西安事件についてのとらえかた

 前作の『天子蒙塵』では、蒋介石の国民党軍は、日本(関東軍)と密約があり、まずは蒋介石は共産党軍を相手にする。東北部は日本にやらせて南下しないようにする、という枠組みがまずあったのではないか、と語られる。その中で、張学良は巨大な東北軍閥を率いて、あえて蒋介石と戦わず、蒋介石に服属する。自身はアヘンの毒を抜くためにヨーロッパに遊ぶ。が、東北軍は張学良の言うことしか聞かない。張学良は龍玉(ロンユエ)を預かっているが、天命を受けているのは自分ではないと考えている。蒋介石も天命を預かる器ではないが、軍の指揮官としては蒋介石が勝れているのであえて東北軍を蒋介石に預ける、龍玉を渡す相手については、その出現を待つ、というのが張学良の考えであった。

 

 本作では、蒋介石が張学良の東北軍を解体・弱体化しようとしている、という疑いが語られる。他方毛沢東・周恩来の共産党軍の抵抗は強い。張学良は共産党を本気で倒そうとはしておらず、本当の敵はまずは日本ではないか、と考えている。業を煮やした蒋介石によって、張学良は追い詰められる。ついに張学良は決起、兵諫を実施する。蒋介石を捕らえ、本当の敵は日本、まずは共産党と国民党が手を組むべきだ、とし、国共第二次合作へと道を開く。そこには事前の周恩来や宋子文らとの打ち合わせもあった。

 

 張学良は死を決意していたが、死刑にはならず赦免され、軍事委員会の管理下に置かれる(監禁される)ことになった。それを導いたのは、直前の陳一豆の裁判だった。陳一豆は張学良の護衛で、張作霖の時代から仕えている。裁判で陳一豆は言う、自分が独断でやった、張学良の指示ではない、と。陳一豆は死刑になる。

 

 陳一豆の意図については、あとで種明かしがされる。自分が罪を背負う気概を示せば、張学良は意気に感じて、死を思いとどまるに違いない、これは陳一豆の張学良へのひとりきりの「兵諫」だ、と。このあたりが浅田次郎独特の世界だ。人生意気に感じ、信義において呼応しあえるものがある、と。その意図を馬賊仲間の馬占山は見抜いたのであろう、陳一豆に向かい「上出来だったぜ」と言う。なお、本作では兵諫は好印象で語られるが、平和国家においてはそれ以外の方法(話し合いなど)をとるべきだ、と再度確認しておく。

 

(4)      NYタイムズ記者・ターナーの存在

 本作はNYでのターナーの描写に始まり、上海でのターナーと北村(朝日新聞)の記述に終わる。ターナーが描かれることで、日中だけでなくアメリカの資本の視点が導入される。読者は東アジアを相対化する視点を持ちうるわけだ。ターナーはアスター財団(実在する)から援助を貰って大学で学び、中国でも最高級のホテルに宿泊できる。ターナーは取材を重ね、日中開戦を予見し、アスター財団に対し、中国から資本を引き上げるべきだ、と助言する。結果的に、ターナーもまた巨大資本のために尽くす役割を果たしている。普遍的・客観的立場で良心・正義・公正さを持つ者は誰か? 真に民のためになる者は誰か? という問いを私は持った。