James Setouchi

 

 浅田次郎『天子蒙塵』講談社文庫(全4巻)

 

1 作者 浅田次郎 1951年東京まれ。作家。『地下鉄に乗って』『鉄道員』『壬生義士伝』『お腹召しませ』『中原の虹』『終わらざる夏』『帰郷』などなど作品多数。

 

2 『天子蒙塵』

 『蒼穹の昴(すばる)』シリーズ第五部。このシリーズは清朝末期から20世紀までの中国史を扱っている。続編がどこまで進むかはわからない。『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』『中原の虹』『マンチュリアン・リポート』に続くのが『天子蒙塵』

 

 『天子蒙塵』の初出は『小説現代』で2013年10月~2018年8月。「蒙塵」とは、変事に天子が都から逃げ出すこと。平時なら天子は道を清めて移動するが、変事ゆえ余裕がなく頭から塵をかぶって都落ちする。『春秋左氏伝』にある言葉。(デジタル大辞泉などから。)

 

 つまり清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ=アイチンギョロ・ブーイー)が辛亥革命(1912年)により廃帝となるがその後馮玉祥(馮国祥とは別人)のクーデターにより紫禁城から退去(1924年)、天津の日本租界に移動(1925年)、張作霖爆殺(1928年)などを経て、満州国皇帝に祭り上げられる(1934年)までの時代を扱う。非常に面白い

 

3 主な登場人物(あくまでも小説です)

愛新覚羅溥儀:清朝最後の皇帝(宣統帝)。万歳爺。関東軍に利用され満州国執政、ついで満州帝国皇帝となる。本人は清朝の再興を目指したかった。が、私欲に駆られた取り巻き連中にたかられ、日本軍に利用され、アヘン中毒の妻を抱え、苦悩はとまらない。

婉容(ワンロン):溥儀の正妃。第二夫人を憎む。アヘン中毒となる。

文繍(ウェンシウ):溥儀の第二夫人。淑妃。民国の法に従い溥儀と離婚し下町で暮らす。

張学良(チャンシュエリャン):張作霖の息子。漢卿(ハンチン)。戦わずして張作霖の国民党軍に下る。本人はヨーロッパに遊ぶ。戦わず逃げたと見なされがちだが、本人には本人なりの考えがあった。

エッダ・チャーノ:ムッソリーニの娘。チャーノ伯爵の夫人。

馬占山(マーチャンシャン):張作霖の腹心。秀芳。馬賊の頭目。日本軍に抵抗を続ける。

張景恵(チャンチンホイ):張作霖の腹心。好大人。もとは豆腐屋。満州国高官となる。

志津邦陽(しづくにあき):陸軍軍人。特務機関員。関東軍と満州国に疑問を抱く。

吉永将(よしながまさる):陸軍軍人。張作霖爆殺事件で足を負傷。関東軍と満州国に疑問を抱く。

武藤信義:陸軍軍人。関東軍司令官。大変人望のある人物。溥儀とも信頼関係を築く。

永田鉄山:陸軍軍人。人望が有り、将来の陸軍大臣と目されている。吉永の先輩。

石原莞爾:陸軍軍人。関東軍の謀略をリードした。土肥原や板垣を操る。世界最終戦争を望見。

甘粕正彦:陸軍軍人。関東大震災の時大杉栄らを虐殺したが満州に逃れる。

木築正太:東京の少年。奉公先から金を盗んで満州へ。

田宮修:東京の府立一中の生徒。中退し満州へ。俳優を目指す。

池上美子:日本の実業家の夫から逃げて駆け落ちし満州へ。

坂井豊:憲兵。法学部卒。各種事件に立ち会ううち、陸軍にありかたに疑問を持つ。

北村修司:朝日新聞の北京特派員。

梁文秀(リャンウェンシウ):清朝末期の高級官僚。史了。科挙第一等合格者(状元)。一時日本に亡命。

李春雷(リーチュンレイ):張作霖の部下。

李春雲(リーチュンユン):李春雷の弟。春児(チュンル)。宦官として西太后(老仏爺)に仕えた実力者。

玲玲(リンリン):春雷・春雲の妹。梁文秀の妻。       

        

4 いくつかの観点

どこまでが史実でどこからが虚構か分からないが、教科書で学習する現代中国史とは違う視点で光を当てている。特に愛新覚羅溥儀とその家族、張学良(張作霖の息子)については内面の苦悩を追いかけている。歴史全体については、中華皇帝のシンボルである龍玉(ロンユエ)を保有すべきは誰か、という虚構を設定し物語を面白くしている。張作霖の軍閥への期待については独特の視点。浅田次郎独特の、義侠心の強い馬賊、変わらぬ北京の下町風景、陸軍軍人にもある良心的な人間性、などは魅力がある。だからこそそこが虚構(小説)なのかもしれないが。

 

・登場人物が多すぎ収拾が付かなくなっている感がある。現代史に近くなると龍玉の持ち主を毛沢東にするのか? という難問が出てくるはずで、浅田次郎はどうするのだろうか。

 

・この巻では、張学良は張作霖の軍隊を継承しながら戦わず西洋に逃避したと世人が批判するが、張学良は、自分の東北軍と蒋介石の国民党軍が対立すべきではなく協力すべきだと考えて、あえて国民党軍に下った。蒋介石(国民党軍)はと言うと、共産党(いわゆる「紅匪」)を鎮圧することを優先し、日本との対決は後回しにしている。蒋介石は日本留学経験もあり、親日的だった、ということだろう。

 この小説では、中国東北部は日本軍(関東軍)に任せ、中国中部以内は蒋介石の国民党軍が押さえる、という密約があったのではないか、とほのめかしている。張学良の軍隊はその間の犠牲になったのか、と。

 これに対し、張学良は、中国人同士が争いをするのはやはりおかしい、敵は日本ではないか、と疑問を持つ。実際、父親の張作霖を爆殺したのは、日本軍(関東軍)の謀略だったから、張学良にとっては日本は親の敵だ。だが、張学良は世界情勢を俯瞰しながら、何を為すべきか考える。自ら東北の王として立つべきか、清朝最後の皇帝溥儀に託すべきか、蒋介石に託すべきか。いや、そのどこにも天命はないように見える。周恩来(中国共産党)とも出会う。張学良の決断はいかに?…それは続きの第六部『兵諫(へいかん)』で扱われる。

 

日本陸軍内部の葛藤も書いてある。関東軍を暴走させたのは板垣征士郎土肥原賢二、その背後にいたのは石原莞爾。関東軍の暴走の現場にいて疑問を抱くのが通訳の吉永将。(吉永は張作霖爆殺時自らも負傷。)特務機関の志津邦陽。また憲兵の坂井豊。坂井は大学法学部を出ており、法の遵守の立場から、法を歪める陸軍の暴走に疑問を抱く。

 だが、これら一部の者の良識も、巨大な組織の力の前で無力化される。吉永は陸軍幹部の永田鉄山と親しく、石原を批判する。永田は人事を動かして関東軍の暴走の後始末をしようとする。そこで抜擢されたのが信望厚い武藤信義で、関東軍司令官となり、溥儀とも信頼関係を築くが、急死する。石原一派の陰謀で毒殺されたのではないか、との疑いがある。さらに背後にはもっと巨大な政治や官僚の力があるのか? ともほのめかされている。石原はファナティックな思想の持ち主で危険だ、というスタンスで書かれている。

 確かに石原の責任は大きいだろうが、果たして石原一人の責任であろうか? システムに内在する諸問題が累積して事態が暴走してしまったのではないか? その奥にあるのは、明治以来の軍産複合体制の支配(ことに軍部と軍事産業への過剰な予算配分と権力の独占)、日本の(特に東北の農村の)貧困、甚だしい貧富の差、食糧不足、言論・思想の統制、不適切な政策および法体系などなどであろう。本作にも言及がある。(これらを根本的に改めた処から戦後の平和日本は出発している。

 

・張作霖の配下だった馬占山を魅力的に描いている。満州の馬賊の魂を持ち、信義に厚い。字も書けない男だが、ただ一人軍を率いて日本に抵抗を続けた。一時満州国に参加すると見せかけて、「還我山河(我が山河を還せ)」と脱走する。後は神出鬼没に抵抗を続ける。日本の子どもに至るまでが馬占山のファンだ。こういう人を書かせると、浅田次郎は勝れている。(だが、小説だ。実像は知らない。軽々に英雄視すべきではない。) 

 

父と息子の関係についても描いている。愛新覚羅溥儀には父親らしい存在がいなかった。武藤司令官が父親のような存在になってくれた。張学良には張作霖という偉大な父親がおりエリートとして育ててくれたが陰謀で殺害された。吉永将の父親は人望ある人で周囲に軍人が集い、その中で吉永が育つ。志津の父親は偉大な軍人で、志津は純粋さ故に軍部を批判して周囲から排斥され「あの志津さんの子が…」と言われた。李春雷は北京の下町で子どもを育てている。馬占山にも子がいて副官を務める。