James Setouchi

 

大江健三郎『人生の親戚』

 

1 大江健三郎 1935(昭和10)~ノーベル文学賞作家。

 愛媛県大瀬村(大洲市内子町)に生まれる。内子高校から松山東高校に転校、伊丹十三と出会う。東大仏文科で渡辺一夫に学ぶ。在学中『死者の奢り』で東大五月祭賞。23歳で『飼育』で芥川賞。『個人的な体験』『ヒロシマ・ノート』『万延元年のフット・ボール』『沖縄ノート』『新しい人よ眼ざめよ』『静かな生活』『人生の親戚』『燃え上がる緑の木』『あいまいな日本の私』『取り替え子』『憂い顔の童子』『水死』『晩年様式集』など。1994(平成6)年ノーベル文学賞受賞。反核・護憲運動でも知られる。

 

2 『人生の親戚』1989(平成元)年『新潮』掲載、新潮社から単行本。新潮文庫でも読める。

 

(1)登場人物

僕:語り手。作家。東京に家があるが、メキシコの大学に教えに行く。

妻:東京在住。長男、次男、娘がある。

光:「僕」の長男。脳に障がいがある。音楽の才能がある。

倉木まり恵:アメリカ文学研究者。フラナリー・オコーナーの研究をしている。

ムーサン:まり恵の長男。知的障がいがある。

道夫:まり恵の次男。賢い子。事故で足を失い車椅子生活となる。

サッチャン:まり恵の夫。離婚する。

朝雄君たち3人の若者:倉木まり恵の周辺にいる大学生。

コズ:劇団「宇宙の意志」の中心メンバー。フィリピン人。

アンクル・サム:劇団「宇宙の意志」のメンバーで、アメリカ人。

テューター・小父さん:まり恵が関係する小さな宗教集団の指導者。(「イエスの方舟」の千石イエスをモデルにしていると思われる。)

セルジオ・松野氏:メキシコの農園経営者。まり恵をメキシコの農園に誘う。

 

(2)あらすじなど(ネタバレします)

「僕」は障がいのある息子の通う学校を通じて、同様に障がいのある子・ムーサンの母親である倉木まり恵と知り合う。倉木まり恵は、アメリカの作家フラナリー・オコナー(キリスト教徒)の研究者でもあった。が、まり恵の次男・道夫が交通事故で足を失い、車椅子生活になる。さらに、海岸の事故で、長男・ムーサンと次男・道夫が共に亡くなってしまう。まり恵は悲しみに打ちひしがれる。夫とも離婚しまり恵はどうやって生きていけばいいのか? だが、彼女は生きる。自分が死んだら、息子たちの苦しみを覚えている人がいなくなるから(p.72)。若者たちの協力で、まり恵はフィリピンから来た劇団「宇宙の意志」と行動を共にするようになる。が、そこでも軽率な劇団員たちの言動により、まり恵は大きく傷つけられる。まり恵は小さな宗教団体と行動を共にする。そこのリーダーであるテューター・小父さんと信仰を深めるが、決定的なところで考え方が対立。がメンバーと共に新天地を求めてアメリカへ移動する。テューター・小父さんはアメリカで死亡。メンバーの集団自殺を押しとどめて帰国させると、まり恵はメキシコへ行く。メキシコではセルジオ・松野氏の農園で献身的に働き、現地の人びとから聖女と崇められて、やがて病を得て亡くなった。彼女の心中には常に息子二人の喪失の悲しみがあった。しかし、彼女は亡くなる直前、Vサインをしてみせる。

 

 彼女の悲しみは癒えてはいない。しかし彼女は悲しみと共に最後まで戦い生き抜いた。彼女のVサインは人生に勝利したサインなのか。ヘミングウェイの『老人と海』の老人は屈服しない。その女性版と言うべきか。だが、彼女を襲う悲しみはあまりにも過酷だ。「人生の親戚」(Parientes de la vida)とは、「悲しみ」という意味だそうだ。

 

 作中で宗教的な思索も展開される。現代はイノセントなお祭りが破壊され、最良の人たちは確信を失い、最悪の連中が激しい情熱に駆られている時代だ(p.131)。神による宇宙の創造は今も進行している。しかもアポカリプスはすでに始まっている(p.134)。この時の濃密さをいかによく感じ取りうるかでアポカリプスに向けてよく生きうるかどうかが決まる(p.139)。この世界の感知しうるものは全て理解しうるのか、だが、あの悲劇は、酷たらしい感知しうるものだったが、到底理解しうるものではない(p.170)。いやそれはマニ教の考え方であり、キリスト教では、キリストがイエスとして受肉したことによって、時間を超えたものが一時的な現世の肉体と一致したと考える(p.171)。などなど。 

 

 私見では、すでに亡くなった人はどうやって救われるのか? という素朴な問いを持った。イエスも地上で最も悲惨な死を死んだが、復活した。本作の無神論的立場からは、まり恵の復活はない、と読むべきなのか。大江文学における「再生」あるいは「復活」の問題はなお一考を要する。