James Setouchi

 

大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち

 

1 大江健三郎 1935(昭和10)~

 ノーベル文学賞作家。愛媛県大瀬村(大洲市内子町)に生まれる。内子高校から松山東高校に転校、伊丹十三と出会う。東大仏文科で渡辺一夫に学ぶ。在学中『死者の奢り』で東大五月祭賞。23歳で『飼育』で芥川賞。『個人的な体験』『ヒロシマ・ノート』『万延元年のフット・ボール』『沖縄ノート』『同時代ゲーム』『「雨の木」を聴く女たち』『新しい人よ眼ざめよ』『いかに木を殺すか』『M/Tと森のフシギの物語』『人生の親戚』『静かな生活』『燃え上がる緑の木』『あいまいな日本の私』『取り替え子』『憂い顔の童子』『水死』『晩年様式集』など。1994(平成6)年ノーベル文学賞受賞。反核・護憲運動でも知られる。

 

2 『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』1982(昭和57)年新潮社から刊行。新潮文庫でも読める。

 

 連作短編集。初出は「頭のいい『雨の木』」:『文学界』80年1月、「『雨の木』を聴く女たち」:『文学界』81年11月、「『雨の木』の首吊り男」:『新潮』82年1月、「さかさまに立つ『雨の木』」:『文学界』82年3月、「泳ぐ男―水のなかの『雨の木』」:『新潮』82年5月。つまり80年~82年に『文学界』や『新潮』に出したものだ。当時大江は45才くらい。障がいのある長男・光と共生。大江自身がメキシコの大学に長期滞在したのは1976年。ハワイ大学での短期滞在は1977年。これらの経験が作品中に生かされている。

 

(1)「頭のいい『雨の木』」:語り手「僕」は、ハワイで、精神病の施設を訪れ、パーティーに参加する。世界各国の人と交流するうち、自信家の建築家コマローヴィチとビートニク(ビートジェネレーション。60年頃に流行した新しい文化運動)の詩人との会話に耳を澄ませる。その施設は、自信家のコマローヴィチの設計したものだった。だが、ある事件が起こり、「僕」たちはその施設をあとにする。その暗闇の中には巨大な「雨の木」の幻影があった。アガーテという女性が「雨の木」について語ってくれる。

 

(2)「『雨の木』を聴く女たち」:語り手「僕」がハワイで経験したが前回書けなかったこと。高安カッチャンという大学の同級生がいた。高安カッチャンは才能があったが、その後大学を中退してアメリカに渡っていた。彼は「僕」に会うために、中国系アメリカ人のペニーを連れて、ハワイに来る。「僕」は高安カッチャンとの関係を面倒だと感じながら、彼の頼みを聞き、結果として税関でおとがめを受ける羽目に。さて、ペニーはマルカム・ラウリーの研究者でもあった。ペニーは高安カッチャンが事故で死亡したことを伝え、「僕」と高安の和解を願う。

 

(3)「『雨の木』の首吊り男」:「僕」はメキシコでカルロス・ネルヴォというペルー人と知り合う。カルロスは日本文学研究者だ。カルロスは「僕」の講義に協力してくれた。ところが、アルゼンチンからの亡命者のグループに内ゲバが発生しそうになり、カルロスは巻き込まれそうになる。その相手はカルロスのもと妻のセルマだった。「僕」は東京の息子の体調が急変し帰国することになった。カルロスは肉体的な苦痛をいやがっており、癌だと分かったら「雨の木」の下で自死したい、そこへ一緒に旅をする相手が欲しい、とセルマに語る。そのカルロスは今や重い癌でカリフォルニアでベッドに縛り付けられて苦しみながら死を待っている。

 

(4)「さかさまに立つ『雨の木』」:高安カッチャンは死んだ。が、彼の残した膨大なノートがある。「僕」はハワイでペニーと再会。高安の遺児・ザッカリー・K・タカヤスが高安カッチャンの残したノートを用いて仲間と共に音楽化して成功を収めつつある。この話に、ハワイの日系移民たちの反核運動の挫折を絡める。

 

 (1)~(4)の個々の話は互いに独立しているかに見えるが、どこかで連続しているようでもある。「雨の木」は巨大な木で、雨のやんだ後も葉に水をたたえいつまでも水滴を滴らせている。それは人間世界を潤す生命の木か

 だが反核運動は挫折。ザッカリー・K・タカヤスのアルバムのジャケットは、マルカム・ラウリーの精神世界に言うセロフィトの木(生命の木)の逆さまに立ったもの(クリフォトの木)の絵だ。「雨の木」の形は、原爆のキノコ雲の形でもある。世界の爆発のイメージ。

 帰国後「僕」は、ハワイのあの施設と暗闇で見た巨大な「雨の木」が火事で焼けてしまったことを知る。核戦争で先進国が焼かれた後に残るものは何か…

 

(5)「泳ぐ男―水のなかの『雨の木』」:最初に「僕」自身によるおことわりが書いてある。長編「雨の木」を書く構想を持っていたが、できなかった。「僕」は泳ぐプールの底に「雨の木」の全体像を幻視する、というラストシーンのつもりだった。さて、「僕」は東京でプールに通っている。そこで玉利君という競泳選手と、猪之口さんという女性の奇妙な関係に気づく。やがて猪之口さんは犯罪で殺害されてしまう。その犯人は玉利君でなかったようだが、玉利君は脅えている。犯人の男の妻がプールに真相を問いただしに来る。「僕」は彼らの話を総合し、犯人の男についてのある想像に至り着く。さらに、玉利君は今後どうなるのか? …この話は性的で暴力的な話題をあえて選んでいて、若い人には薦めにくい。その性と暴力の汚辱の中にも人間の尊厳を「僕」つまり大江らしい人物は辛うじて見いだそうとしているのか。それとも、ついに救いのない破滅への道を玉利君は進んでいくほかはないのか?

 

 全体として:男と女の話でもある。男は多く現代社会の不適応者であり、女はそれを見抜いてはいるが、同時に男の他にはない美点を信じてもいる。男が悲劇に終わったとき、女は、彼の美点を信じ、それを語り継ごうとする。高安カッチャンとペニー、猪之口さん殺害犯とその妻、マルカム・ラウリーとその妻はそういう関係だ。彼女たちが「雨の木」を聴く女たちなのか。「雨の木」を聴く女のいない玉利君にはやはり破滅しかないのか。