James Setouchi

 

 村上春樹『1973年のピンボール』講談社文庫で読める

 

1 村上春樹(1949年1月~):作家。京都生れ、兵庫県芦屋の育ち、神戸高校から一浪後早稲田大学第一文学部(演劇学科)に進む。学生結婚をする。ジャズ喫茶を経営。大学卒業後1979年『風の歌を聴け』で群像新人賞。その後次々と作品を発表、日本で最も売れている作家の一人。代表作『風の歌を聴け』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』など。ノンフィクション『アンダーグラウンド』『約束された場所で』、翻訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『グレート・ギャツビー』などもある。

 

2 『1973年のピンボール』:初出は『群像』1980(昭和55)年3月号。

 『風の歌を聴け』に次ぐ作品。語り手「僕」は1979年現在30才。「僕」は過去を語る。

 

 1973年。語り手「僕」は東京で翻訳の仕事をしている。金持ちの青年「鼠」はおそらくは関西の海辺の街で暮らしている。「僕」と「鼠」の二つの物語が平行して語られる。二人は1970年の出来事の痛みを引きずっている。

 

  (以下ネタバレあり。)1969年、「僕」には直子という恋人がいた。だが、1970年、直子は死んでしまう。喪失感をかかえたまま「僕」は大学を出て、東京で働き始める。1970年の春、「鼠」は大学を中退した。1969年は大学紛争の年だが、それは多くは語られない。今は海辺の街でジェイズ・バーに通いながら無気力に暮らしている。海の近くに彼女の住むアパートがある。「鼠」は彼女と霊園で過ごしながら、哀しみを抱いている。

 

 東京の「僕」の部屋には双子の女の子が転がり込む。「僕」は双子の女の子と楽しく暮らし、翻訳の仕事は成功、職場の女性にももてている風情だが、それでも心中には大きな喪失をかかえている。

 

 かつて熱中した旧式のピン・ボールを探し出し対話する。そこは郊外のきわめて寒く冷たい場所だった。これは死んでしまった直子と死の世界で対話したことのメタファーだろう。「僕」は直子の死の世界を離れ生の世界へと戻る。双子の女の子は、「もといた世界」へと帰っていく。

 

 「鼠」は閉塞感を打破できず死を選ぶ(と暗示されている)。「鼠」は言わばもう一人の「僕」だ。

 

 「鼠」は死ぬが、「僕」は生きる。「僕」は直子と死の世界で対話し、生の世界に戻る。生は死と隣接しているが、それでも辛うじて生を紡ぎ出していく。そういうことだろうか?

 

3 登場人物

「僕」:1970年に恋人の直子を失った。「暗い穴の中で」過ごすような気分でピン・ボールの呪術の世界に入り込む。痛みを抱えたまま東京で翻訳業をして生活。

「直子」:「僕」のかつての恋人。亡くなった。(『ノルウェイの森』の女性も直子。)

「鼠」:金持ちの子。大学を中退し海辺の街で無気力に暮らしている。彼女がいるが・・(『風の歌を聴け』にも「鼠」が出てくる。似たキャラクター。)

「鼠」の「女」:「鼠」の彼女。海の近くのアパートに住む。

「髪の長い少女」:「僕」の学生時代のアパートの住人。陰気な感じのする顔立ち。沢山の電話がかかってくる。あるとき「寒くって死にそうなのよ」と「僕」に訴えてくる。大学をやめて故郷に帰る。この少女はなぜ出てくるのだろうか? 誰もが寒々とした思いを抱きつつ都会で孤独に暮らしている、その典型ということか?

「双子の女の子」:「僕」の部屋に転がり込んできた双子。この双子がラストで「もとのところ」に帰るとは、どういうことか? 双子は、死に引きずられる「僕」が、生を引き受けることを選ぶまでの言わば助け手のような存在として出現していたのか? それとも、双子が去り、「僕」が一人取り残されることを重ねて示しているのか?

「事務員の女の子」:翻訳事務所の女性。よく働く。

「ジェイ」;恐らくは関西の海辺の街の、ジェイズ・バーのマスター。中国系。(『風の歌を聴け』にも出てくる。)

「ピンボール・マニア」:大学のスペイン語の講師。「僕」を郊外のピン・ボールの墓場のような世界に案内する。

 

4 その他:大江健三郎の『万延元年のフット・ボール』をもじった題名だ。大江の場合は「谷間の村」での社会運動と挫折を描くが、村上の場合はあくまでも個人の問題にフォーカスしている。もちろん背景に時代社会の問題はあるのだが。