James Setouchi
魯迅
魯迅:1881~1936。中国の評論家、作家。本名は周樹人。中国浙江省生まれ、日本に留学、医師を志すが方向転換して文筆家となる。北京や上海に住み、中国の大激動のなかで、社会的問題意識を持って発言を続けた。「中国民衆よ、このままでいいのか? 覚醒せよ!」と。魯迅は「近代中国文学の父」と呼ばれる。
『小さなできごと』1920年作
「私」の乗った人力車がおばあさんと軽い接触事故を起こした。大した事故ではなく、おばあさんのお芝居ではないかとさえ「私」には思われた。「私」は倒れたおばあさんには構わず行くように車夫に命じた。が、車夫は、おばあさんを助け、巡査の派出所へと向かった。その時この名もない車夫が不意に「私」には巨大な存在に見えてきた。「私」にとって「勇気と希望を増させてくれる」大きな出来事だった。
『故郷』1921年作
「私」はひさしぶりに故郷に帰ってきた。幼馴染のはずのルントーが「私」に向かって「だんなさま…」と膝を屈する。誰がルントーを卑屈にさせたのか?
しかし、「私」は希望を持って歩こうとする。歩く人が多くなれば、そこが道になるのだ。
『祝福』1924年作
「私」は故郷で年末の祭りを迎えた。そこで一人の乞食の老婆と出会う。彼女は「私」に不思議な質問をして去る。やがて彼女は死んでしまった。「私」は彼女の一生を思いだし書き留める。彼女にも若い頃があった。彼女は働き者だった。幸せな時もわずかながらあった。だが、中国社会が、周囲のみんなが、蒙昧と愚かさが、よってたかって彼女を痛めつけた。彼女は全てを失い、乞食となって死んでしまった。・・・これでいいのか?
『藤野先生』1926年作
「私」(魯迅らしき人物)は日本に留学した。まず東京、次に仙台。当時中国からの留学生は仙台では珍しく、日清・日露戦争を経て日本人は中国人を軽蔑の目で見るようになっていた。その中で、藤野先生だけは「私」を大事にしてくれた。それは中国のため、医学のためだったろう。
日露戦争で、ある中国人がロシアのスパイとして日本軍に囚われ銃殺されるというニュース映画を、教室で見た。日本人学生たちは万歳を叫んだ。「私」(中国人)が教室にいるにもかかわらず。また、銃殺される人を取り囲んで見物している中国人も映画には映っていた。
「私」は医者を目指すことから方向転換を決意し、お世話になった藤野先生に挨拶をして仙台を去った。「私」は藤野先生の写真を掲げて良心と勇気を奮い立たせてもらっている。
『魏晋の気風および文章と薬および酒の関係』1927年講演
『魯迅評論集』所収。漢代末期~魏晋期の文人たちについての論評。
孔融は建安七子の一人。曹操を批判して殺された。
何晏は五石散という劇薬を飲み、この風習を流行らせた。司馬仲達に殺された。
阮籍と嵆康(けいこう)は竹林の七賢人。よく酒を飲んだ。前者は沈黙して命を全うした。後者は時代批判をして、司馬氏に憎まれ殺された。
曹操や司馬懿(しばい)は孔融を殺害するに当たり「不孝」の名目で行ったが、彼ら自身が孝子の模範だったわけではない。反対者を排除する時に礼教を政治的に利用しただけだ。真に礼教を大事にしている人はかえって礼教について沈黙する。
魯迅の文学史論評は同時代批評につながる。反共クーデター後の国民党への批判をこめたものだ、と集英社世界文学事典の丸山昇は言う。