James Setouchi

 

『恥辱』J.M.クッツェー 鴻巣友季子・訳 ハヤカワ文庫

〝Disgrace〟J.M.Coetzee

 

1 作者J.M.クッツェー 1940~

 ノーベル文学賞作家。南アフリカ出身。オランダ系アフリカーナの系譜だが家庭内では英語を使い、アフリカーンスとのバイリンガルとして育つ。ケープタウン大学で英文学と数学の学士号を取る。イギリスやアメリカに渡るが南アフリカに戻り大学で教えつつ作品を発表。2002年からオーストラリアに住む。2003年ノーベル文学賞受賞。代表作『黄昏の国々』『その国の奥で』『蛮族を待ちながら』『マイケル・K』『敵あるいはフォー』『鉄の時代』『ペテルブルグの文豪』『恥辱』『少年時代』『青年時代』『動物のいのち』『エリザベス・コステロ』『遅い男』『厄年日記』『サマータイム』『イエスの子供時代』『ダブリング・ザ・ポイント』(文学批評)など。(岩波文庫のくぼたのぞみの解説から。)

 

2  『恥辱』 1999年。イギリスでクッツェーが二度目のブッカー賞を受賞した作品で、評判が高い。

 

 「恥辱」の原語Disgraceは、辞書を引くと、「不名誉、恥、恥ずべき人、恥さらし、恥辱、不人気、不評、不信、恥辱を招く行為」というほどの意味であり、動詞では「・・の恥となる、・・に恥辱をもたらす」また「・・を失脚させる、・・を疎んじる」という意味もある。DisgraceはGraceの反対語で、Graceは「優雅、優美、気品、礼儀正しさ、気品」という意味だ。では、本作の題名「恥辱(Disgrace)」とはどういう意味か。

 

 主人公デヴィッド・ラウリー(白人)は、南アフリカの大学の文学部の教授(バイロンなどロマン派が専門)だったが、大学の改組でコミュニケーション学部の准教授に降格されている。女子学生に対するハラスメントで失職し、田舎で農業を営む娘のところに転がり込むが、次々と災厄が襲う。その転落の様を「恥辱」と呼んだのだろうか。

 

 あるいは、女子学生(おそらくは黒人)に対するセクハラ(はっきり性犯罪)で失職し散々な目に遭いながらもなお他者の悲しみが見えず白人男性・西欧文化中心の価値観にしがみつき愚行を繰り返すラウリーの存在自体が「恥辱」なのだろうか。

 

 (以下かなりネタバレ)

 あるいは、田舎で農業をするラウリーの娘・ルーシーにも降りかかる苦難の数々を「恥辱」と呼んだのか。ルーシーはそれでもなおその土地から逃亡せず、黒人たちの隣人として、困難を受容しつつ何とか生き延びようとする。「恥辱」は、見方を変えれば「恥辱」ではない、現実を静かに受け入れて忍耐強く生きていさえすれば。そう作品は語っているのだろうか。

 

 南アフリカの、アパルトヘイト禁止後の社会の、それでもなおあらわに存在する貧困、偏見、暴力、強盗、警察の無力、黒人実力者の台頭、白人の没落などを背景にしている。白人は黒人に「恥辱」を与え続けてきたが、今や白人が「恥辱」を受ける番が来たということか。それでもなお改心せず愚かな偏見を持ち続けようとする白人たちの存在そのものが「恥辱」だということか。ラウリーは没落する白人の運命の代表なのか。

 

 ラスト近く、年老いて殺処分(安楽死)させられる犬の群れが出てくる。全く無力な犬たち。ラウリーもまた、この犬と同じだ。ラウリーは全てを失って始めて真実に人間らしい生き方に着地したと読めるのか、それとも?

 

*ハヤカワ文庫も頑張っている。おかげで読めた。

 

(アフリカ関連)勝俣誠『新・現代アフリカ入門 人々が変える大陸』、ムルアカ『中国が喰いモノにするアフリカを日本が救う』、中村安希『インパラの朝』(旅行記、アフリカ全般)、マイケル・ウィリアムズ『路上のストライカー』(小説、ジンバブエと南アフリカ)、クッツェー『マイケル・K』(南アフリカ)、ナポリ&ネルソン『ワンガリ・マータイさんとケニアの木々』(絵本、ケニア)、曽野綾子『哀歌』(小説、ルワンダ)、宮本正興・松田素二『新書アフリカ史』(歴史)、山崎豊子『沈まぬ太陽』(小説、ケニアが出てくる)