James Setouchi

 

カミュ『ペスト』および内田樹『ためらいの倫理学』

 

 新潮文庫解説の宮崎嶺雄によれば、『ペスト』は1947年6月に発表され、爆発的な熱狂をもって受け入れられた。その理由は、象徴性(死や病や苦痛など人生の根源的な不条理、人間内部の悪徳や弱さ、貧苦、戦争、全体主義などの政治悪などの象徴を見出すことができる)と、文体の魅力(簡潔な筆でありつつ、心と心の触れ合う微妙な感触を伝える)とになる。『異邦人』(1942年)の主人公「ムルソーの『自己への誠実』というモラルは、ほとんどまだ個人的な好尚の域を脱せず、行動者の規範としてよりも、むしろ否定的な面が強かった。『ペスト』において初めて連帯感の倫理が確立され、『不条理』との不断の戦いと言う、彼の思想の肯定的な面が力強く打ち出されたのである。」(新潮文庫463~465ページ、475ページ)(新潮文庫『ペスト』は昭和44年)

 

 内田樹は『ためらいの倫理学』(角川文庫平成15年発行)の中で、『ペスト』の登場人物タルーの語る「紳士」に注目する。

 

「私たちが生きているだけで、すでに他者に害をなしている可能性がある。」「私たちにできる最良のことは、あらんかぎりの努力をもっておのれの自分の邪悪さを抑えること、おのれを冒している病をこれ以上伝染させないことである。」「それを試みられる人間をカミュは『紳士』(honnete homme)と名づけた。」「人間が『より人間的になる』ためには、自らへの倫理的負荷を『他者よりも高く』設定しなければならない。自らのうちに『選び』を感知しなければならない。そのことをタルーは『紳士』というきわめて平凡で日常的な語に託したのである。」(角川文庫『ためらいの倫理学』342~343ページ)

 

 内田によれば、カミュの『異邦人』のムルソーは、「平等性のモラル」つまり「平等性さえ確保されていれば、暴力は免責される」というモラルを生きている(同書312ページ)。戦時中ナチスの抑圧下でレジスタンス運動にカミュが参加したのはこの論理による。しかし、戦後、対ナチス協力者を処刑するかどうかの局面に立ち、カミュは減刑を求める。カミュは死刑執行に「ためらい」を覚える。カミュの描く『ペスト』のタルーは、かつて検察官だった父親が死刑を求刑するのを見、強いトラウマを受ける。「殺人なき社会を作り出すためには何人かの死者が出ることはやむをえない、とぼくは説明された。…しかし、ぼくは結局、そういう種類の真実には耐えきれなかったのだ。たしかなことは、ぼくがためらっているということだ。」「『ペスト』とは、自分の外側に実在する邪悪な何かのことではない。そのような実体化された邪悪で強力な存在を自分の『外側』に作り出し、その強権的な干渉によって不幸と不自由の理由を説明しようとするような精神のあり方こそが『ペスト』なのだ。」(同書341~342ページ)

 

 カミュの『ペスト』の描くペストは、ナチズムを寓意していると多くの人が読んだだろうか。これと闘うリウ医師に読者は尊敬の念を抱くだろう。だが、内田樹の解釈によれば、タルーの言う通り、ペストは自分の中にも存在しうる何物かだ。他者を異物として排撃し、自らを正しいとする不寛容な何物かだ。そしてそれは危険な何物かだ。カミュは独善的正義と手段としての暴力を警戒し、中庸を選ぼうとしたということなのだろう。21世紀の危機的状況において内田樹がカミュ『ペスト』におけるタルーの人物像を発信した理由は、分かるような気がする。

 

アルベール・カミュ(1913~1960)フランスの作家、劇作家、思想家。アルジェリア生まれ。代表作『シーシュポスの神話』『異邦人』『ペスト』『反抗的人間』など。ノーベル文学賞受賞。惜しくも47歳で交通事故死。サルトルと論争し排除された。

 

内田樹(1950~)哲学・思想研究者、武道家。『ためらいの倫理学』『「おじさん」的思考』『寝ながら学べる構造主義』『先生はえらい』『日本辺境論』『修行論』『街場の戦場論』など著書多数。ブログでも多くを発信している。                                

 

(フランス文学)ラブレー、モンテーニュ、モリエール、ユゴー、スタンダール、バルザック、フローベール、ゾラ、ボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ、カミュ、サルトル、マルロー、テグジュペリ、ベケット、イヨネスコ、プルースト、ジッド、サガンなどなど多くの作家・詩人がいる。中江兆民、永井荷風、小林秀雄、遠藤周作、大江健三郎らはフランス文学科に学び多くを得た。