James Setouchi

 

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』『桜の園』(ロシア文学)

Антон П. Чехов“Дядя Ваня”“Вишнёвый сад”

 

1 アントン・パーヴロヴィッチ・チェーホフ(1860~1904)

 ロシアの劇作家。黒海の北方アゾフ海の港町で生まれる。祖父は農奴で、父親は雑貨商で芸術的な人物だった。中学に二度落第。父親が破産し夜逃げをしたため中学最後の3年間をアルバイトをして通学。人と打ち解けない孤立型の少年だった。奨学金を貰いモスクワ大学医学部に進学。収入を得るために滑稽小説を書き始める。当時のロシアは、農奴解放(1860年)、皇帝アレクサンドル2世暗殺(1881年)などがありツアー帝政の末期だった。旧貴族が没落し、資本家が台頭してきた。皇帝アレクサンドル3世は弾圧政治を行った。チェーホフはモスクワで医者をする傍ら滑稽小説を書いた。彼の精神病理学の知識は作品にも生かされている。文壇に認められるが、思想性のなさを攻撃されもした。1890(明治23)年、サハリンを訪問、日本(当時コレラ騒ぎ)には寄れずインド洋・スエズ運河を経てモスクワに戻った。モスクワ郊外の田舎町メーリホヴォに住み戯曲『かもめ』などを書いた。肺結核が進行し、南方クリミア半島のヤルタに移り、戯曲『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』などを書いた。女優オリガ・クニッペルと結婚したが、1904年7月逝去。日露戦争中のことだ。彼はショーペンハウエルやマルクス・アウレリウスの影響で冷静な醒めた目で人生を見つめつつ、他方、明るいはずむ心を失わなかった人だった。(集英社世界文学全集43の佐藤清郎の解説を参考にした。)

 

2 『ワーニャ伯父さん』(戯曲)(ネタバレ有)

 1889年の『森の精』の改作で、1896年から改作、1897年活字に(上記佐藤清郎による)。村上春樹『タクシー・ドライバー』(これも不倫の話だが)の中で言及されている。ワーニャ伯父さんは地主だが、セレブリャーコフ(妹ヴェーラの夫で、学者)のために、自身は節約しつつ、せっせと仕送りをしてきた。だが、今やセレブリャーコフが虚名ばかりで空疎な男であることを知り、幻滅を味わう。加えて、セレブリャーコフから領地を売る提案をされ、錯乱する。セレブリャーコフは、ワーニャ伯父さんの妹ヴェーラの没後、若く美しいエレーナと再婚。エレーナは実はワーニャの思い人でもあった。これに、医師アーストロフ、ヴェーラの娘ソーニャ、破産した地主チェレーギンらがからむ。

 

 どのキャクターもそれぞれに事情をかかえているが、深刻なのはワーニャ伯父さん。セレブリャーコフを代表とする知識人階級に対する尊敬を抱きつつ、結局は幻滅し錯乱しピストルを振り回す。帝政ロシア末期の悲喜劇と言うべきか。若い娘ソーニャは、都会の虚名を持つわけではないアーストロフに惹かれる。(付言ながらアーストロフが森林環境の保全を主張しているのは面白かった。)

 

3 『桜の園』(戯曲)(ネタバレ有)

 1902年に着想、1903年脱稿(上記佐藤清郎による)。早世したチェーホフの最後の傑作。資本主義が浸透し旧地主が没落するロシア。人の良さゆえに没落してしまった女地主ラネーフスカヤは、なお美しい桜の園を所有している。そこを管理しているのは、兄のガーエフだ。成り上がりの小資本家であるロパーヒンは、金の力でそれらを狙っている。ラネーフスカヤの幼い子どもは川で溺れて亡くなった。しっかりした養女のワーリャと、実の娘アーニャがいる。夢想家の大学生トロフィーモフは自由と幸福を語る。ラネーフスカヤは金策に困りついに桜の園を売ることに。桜の園を競売で買い取ったのは、ロパーヒンだった。ラネーフスカヤはもと夫のいるパリへと去る。桜の園が斧で切られる音がする。旧地主貴族が没落し、新興の小資本家が勝利し、美しい桜の園は破壊されるだろう。だが、若い世代の芽は育ちつつある。       

 

(ロシア文学)プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー、ソルジェニーツィンら多数の作家がいる。日本

でも二葉亭四迷、芥川龍之介、小林秀雄、椎名麟三、埴谷雄高、加賀乙彦、大江健三郎、平野啓一郎、金原ひとみ、などなど多くの人がロシア文学から学んでいる。

チェーホフからは、芥川、太宰、正宗白鳥、井伏鱒二、小林秀雄、村上春樹らも影響を受けている。