James Setouchi
フランツ・カフカ『変身』 Franz Kafka“Der Verwandlung ”
1 作者:フランツ・カフカ(1883~1924)
プラハに生まれる。ユダヤ系商人の子。当時プラハはオーストリア・ハンガリー帝国のボヘミア王国の首都で、支配階級はオーストリア人(ドイツ系)だが少数派。ユダヤ人も少数派だが成功した人もいる。多数派のチェコ人(スラブ系)は被支配階級。父親は成功した商人で、カフカは父親にコンプレックスを持った。ドイツ語高等学校、プラハ大学(法律学)に学び、法律学の学位を取得、保険会社に就職。フェリーツェ・バウアーという女性と交際し婚約するが結核になり婚約解消。その過程で『変身』『判決』『審判』を書く。さらに『流刑地にて』などを書く。会社を辞め年金生活者となり『城』『歌うたいのヨゼフィーネ』などを書くが、病が悪化して1924年に没。41歳。(集英社世界文学全集の城山良彦の解説を参考にした。)
2 『変身』(1914年作)
グレゴリー・ザムザは会社の外交員だが、ある朝目覚めてみると醜い毒虫になっていた。人の言葉は理解できるのだが、グレゴリーの発する声は言葉にならず、誰にも聞いて貰えない。家族はパニックに陥る。グレゴリーのいるはずの場所にグレゴリーはおらず、巨大な毒虫がいるのだから。妹だけが食事(えさ?)を運ぶ。グレゴリーは部屋に閉じこもり一人で暮らすことに多少の幸せを感じたりする。母親はパニックに陥る。父親が憤激してリンゴをグレゴリーに投げつける。グレゴリーは深手を負う。それまでグレゴリーの稼ぎで一家は暮らせていたのだが、グレゴリーが変身した今、父も母も妹も働いて所得を得るしかない。下宿人三人にグレゴリーの変身を知られたくなかったがあるとき見られた。グレゴリーは家族に疎まれながら衰弱死する。死んだグレゴリーを見て父親は言う「これで神さまに感謝できるというものだ」と。
これは一体何の話なのか。世界中で読まれる話で、短編で若い人にも読みやすいので某所の読書会で扱ったことがある。「これはむごい話だ」「可哀そうで読むに堪えない」「かなしい話だ…」「どこの家族にも体の不自由な高齢者や病人がいる、それが亡くなって家族は解放されたという話だとしたら、本当につらい話だ」「誰でも生きていける社会にしないといけない」などの感想が飛び交った。
そうだ。毒虫に見られ親しい人からも存在意義を疑われる。彼にも魂があり感情があり言葉があるのに、周囲はその声を聞き取ることができない。あなたは、そういう存在の声なき声を聞き取ることができますか? こういう問題提起の書として読むことができる。これこそが文学のする仕事だ。
声が大きく計算高い人だけがこの世で生きていていいのではない。中島敦は『山月記』で発狂・失踪した男にも実は内面のドラマがあったことを示した。夏目漱石は『こころ』で何も言わず失踪したなぞの男「先生」の内面を描いて見せた。森鴎外は『舞姫』でドロップアウトした、もと官費留学生・太田豊太郎の内面を描いてみせた。カフカは、毒虫に見える男の心の叫びを聞きとった。カフカはこれを笑い話として書いたという伝聞もある。確かに笑うところもある。だが、全体としてはやはり真剣な話なのではないか。グレゴリーを突然訪れる悲劇。家族の変容。
ラスト。グレゴリーは死んだが、妹は美しく成長しつつある。家族はそこに希望を感じた、とカフカは記す。これはカフカの強烈な皮肉なのか? それとも、(確かに悲劇は起こったけれども)絶望し衰弱していた家族に、それでも希望(救済)が生じた、と文字通り取っていいのか。皆さんはどう考えますか?
*ドイツの作家・詩人と言えば、ゲーテ、シラー、グリム、リルケ、トマス=マン、ヘッセ、カロッサ、カフカ、ブレヒト、エンデらがいる。最近では多和田葉子がドイツ語で小説を書いている。ドイツでは哲学者・社会科学者が有名だ。(カント、へ―ゲル、ショーペンハウエル、マルクス、ニーチェ、コーヘン、ヴィンデルバント、マックス=ウェーバー、ハイデッガー、ヤスパース、ハーバーマス、ルーマンなどなど。)心理学のフロイトもユングもアドラーもドイツ語圏の人だ。音楽家が多数いるのは周知だろう。