James Setouchi

 

ドイツ文学  ハンス・カロッサ『美しき惑いの年』

 

1 作者:ハンス・カロッサ(1878~1956) Hans Carossa

 斎藤栄治によると、カロッサはトーマス・マンやヘルマン・ヘッセと並ぶ20世紀ドイツの大作家である。南ドイツのバイエルンに生まれた。父は開業医。カロッサはギムナジウム時代にゲーテを読み傾倒した。ミュンヘン大学医学部に進む。さらにライプチヒ大学に学ぶ。医師となり、医業を続けつつ詩や小説の創作をする。第1次世界大戦では軍医を志願しルーマニア、北フランスなどで従軍。1930年代以降のヒトラー政権期には収容所に送られる危険を感じつつドイツに留まり活動。ヨーロッパ著作家連盟会長などの名誉職を押し付けられたり、「ヒトラーと生死を共にする」という証言を強要され拒絶したりする。第2次大戦敗戦後もドイツに留まり、1956年死去。代表作『詩集』『ドクトル・ビュルガーの運命』『ルーマニア日記』『幼いころ』『若き日の変転』『医師ギオン』『美しき惑いの年』『西欧悲歌』『イタリア紀行』『狂った世界』『若き医師の日』など。                      (集英社世界文学全集の解説および年譜を参考にした。)

 

2 『美しき惑いの年』(1941年出版)“Das Jahr der schönen Täuschungen ”

 自伝的な作品。カロッサ自身のミュンヘン大学の医学生時代ころを回想して書いている出版は1941で、ドイツはヒトラーの指揮下で戦争をしていた。カロッサは63歳だった。

 

 学生時代、19世紀の終わり、ビスマルクが生きていたころ、カロッサ自身とおぼしき語り手「私」は医学を学びつつ文学にも傾倒する。文学好きの友人、フーゴーやワルターの影響で、プロメーイトスという文学好きの医学生と知り合い、さらに偉大な詩人デーメルに傾倒する。偉大なデーメルの詩の朗読会は、しかし聴衆の無理解により大混乱に陥る。*「私」は謎の年上の女性アルディーンと付き合う。アルディーンはパリから来たと言い、フランス文学に憧れる私を幻惑させる。だが、アルディーンの正体は謎だった。*「私」は医学生として死体を見たり、内科の臨床講義に参加したりする。また医学の試験を受ける。*「私」は社会民主党員なるものを見、メーデーに紛れ込む。*「私」はドナウ河畔の旅館の娘アマーリェたちと交際する。そこは自然豊かな田舎で、素朴な人たちが暮らしている。アマーリェは幼い日に心を通わせた女性だった。*「私」は有名な女詩人ゼンツを訪問し意気投合する。

 

 こうした回想が語られ、老年になった「私」のコメントが加えられる。南ドイツの美しい都市や自然の中での人々との交流が、詩情豊かに語られる。それはまさに「美しき惑いの日々」だった。東大の青木秀夫氏(物理学)は、この本を「真摯な人生態度と温かい滋味を持つ必読の書。言わば、北杜夫『どくとるマンボウ青春記』のドイツ版」と評している(『東大教師が新入生にすすめる本2』)。言い得て妙である。

 

 だが、当時老作家カロッサを取り巻く現実は、ナチス政権支配下で、欧州は戦場、カロッサ自身がいつ収容所送りにされるかもしれない状況だった。カロッサは幸福な青春時代を回想して描くことで現実を耐えようとしたのか。この青年の姿を「生命ある像としてそれをそのままの姿で友人たちの胸の内に沈める、そしてそこでそれが芽ばえて成長するのを待ちたい」(冒頭あたり、手塚富雄訳)と語り手は言う。この純粋なドイツ青年の姿に触発されドイツの青年たちが新しい希望を持って生き始めることをカロッサは願っていたのか。他方、カロッサは結局ナチスの協力者だったとの意見もある。強権下で良心の自由を守ってどう行動するか、の問いがここで問われているとも言える。 

 

*ドイツの作家・詩人と言えば、ゲーテ、シラー、グリム、リルケ、トマス=マン、ヘッセ、カロッサ、カフカ、ブレヒト、エンデらがいる。最近では多和田葉子がドイツ語で小説を書いている。ドイツでは哲学者・社会科学者が有名。(カント、へ―ゲル、ショーペンハウエル、マルクス、ニーチェ、コーヘン、ヴィンデルバント、マックス=ウェーバー、ハイデッガー、ヤスパース、ハーバーマス、ルーマンなどなど。)心理学のフロイトもユングもアドラーもドイツ語圏の人。音楽家は多数いる。森鴎外、北杜夫、柴田翔らはドイツ文学に学んだ。