James Setouchi
ショーペンハウエル ショーペンハウエル『読書について』から
(1)ショーパンハウエル(1788~1860)ドイツの哲学者。ゲーテやヘーゲルとほぼ同時代だがそれより後の世代。独自の思索により、ヘーゲルを批判、ニーチェほか「生の哲学」の先駆とされる。インドの宗教哲学からも影響を受けている、と言われる。
(2)『読書について』は、大著『意志と表象としての世界』(1819刊行。続編は1843年完成。第三版は1859年刊行)の注釈『余録と補遺』(1851年刊行)の一部。(光文社文庫の解説などを参照した。)
そう長いものではないので各自読んでみることを勧める。簡単に紹介すると、「読書は全部ダメだ」と言っているのではなく、「すぐれた古典を読んで自分の頭で考えなさい」と言っていることに注意。
・「本来なら良書とその高尚な目的」にコストを投入すべきだが、「お金目あて、官職ほしさに書かれた者に過ぎない」悪書に多くの読者は振り回されている、とショーペンハウエルは批判する。「あらゆる時代の最良の書」を読むべきで、「最新刊」ばかり読むのはだめだ、とショーペンハウエルは言っている。
・「昔の偉大な人物についてあれこれ論じた本」が沢山出ていて一般読者はそれらは読むが、「偉大な人物自身が書いた著作」を読まないのはけしからん、とショーペンハウエルは言っている。
・また、「真の文学」「不朽の文学」を読むべきで、「うわべの文学」(換言すれば金儲けのための売文業者が書いた流行文学)は読むな、とも言っている。
・また、「ギリシア・ローマの古典作家を読む」ことは「精神をリフレッシュしてくれる」が、「古典語の学習が廃止される日」には「野蛮で平板で無価値な駄文から成る文学」が生まれ、「すでにそこにいる」「野蛮人」による「文化破壊」は「必ず起こる」とする。
これらから言えることは、ショーペンハウエルは、読書がダメ、と言っているのではなく、現代の大衆社会において金儲けのために書かれた流行本や、古典そのものではない単なる概説書や教科書や参考書の類に振り回されるのはダメ、と言っているのであって、真に古典と呼べる本を読み、じっくり自分の頭で考えなさい、と言っているのだろう、ということ。さらに言えば、資本主義(市場経済)の大衆社会がヨーロッパに出現し、古典を読んで深く思索する人間が減ってしまった、かわりに流行の大衆小説や断片的なマニュアル本、ハウツー本ばかり追い求めるようになってしまった、と大衆社会を批判しているのだろう。
孔子は言った。「本を読むばかりで思索することをしないと、なにもわからないことになる。他方、思索するばかりで本を読むことをしないと、妄想状態に陥る」と。「学」と「思索」の両方が必要、ということは、孔子もショーペンハウエルも基本は同じ、と私は考える。
ところで、現代の私たちは、どうか。
孔子に従えば、きちんと本を読まない人で、自分勝手な思索にふけってばかりいる人がいたら、妄想状態に陥る危険性がある。好きなように誤読して楽しくやっている人が現代は多い。逆に、本や他人やネットから知識を注入してもらうばかりで、自分の頭で考えることをしない人がいたら、何もわかっていないということになる。
ショーペンハウエルに従えば、本を読んでいるように見えて実は流行のラノベ、推理小説、ファンタジーばかり読んでいて、古典を読まない人がいたら、それは「野蛮人」だということになる。受験・資格の勉強と称して断片的知識を詰め込み、受験・合格テクニックのマニュアル本ばかり読んでいる人がいたら、やはり「野蛮人」ということになる。それすらせず本も参考書も一切開かない人や、金儲けや就職活動のためのマニュアル本しかめくらない人がいたら、もちろん「野蛮人」だろう。情報は噂話かTVかスマホで採るので本は読まないという人も当然「野蛮人」。
現代社会においては古典(東洋では漢文・儒学の古典を例にしてもよい)を読み古典と対話しそれによって自己の思索を、すなわち自己や社会の倫理的ありかたを問い直す人が少なく、「反知性主義」が横行しているとしばしば言われる。現代にショーペンハウエルがいたら、「野蛮人」の「反知性主義」を激しく嫌悪するに違いない。(藤原正彦先生は憂えておられる。)
だが、古典ばかり読んでいて大丈夫かというと、現代においてはそうもいかない。新しい変化に対応して新しい情報を入手することも必要だ。つまり古典と最新の学術研究誌と、両方を読め、ということになる。皆さんはどう考えますか?
さらに言う。考えるためには言葉が必要だ。音楽や絵画やリズムや温度や匂いは「感じる」ことはできてもそれらを使って「考える」ことはできない。「考える」というのは皆さんどうしていますか? 言葉で対象を概念として把握(認識)し、言葉を再定義し、それによって思考を構築していくでしょう。では、その言葉(概念)は、どうやって手に入れますか? しっかりした本を読めば手に入りやすく、読書の質・量の乏しい人にはそれは難しいでしょう。狭い世間の中に閉じ込められて暮らすしかないでしょう。(それがかえって幸せということももちろんありますが…)沢山の情報に接しているように見えても、結局は市場社会の発信する(例えばディズニーランドとサッカーの大会と株式と円・ドルレートの)情報に取り囲まれて、そこから抜け出せないでいるのではありませんか? この世界システム(たとえば市場経済のシステム)とは違う世界システム(たとえば古代ユダヤ教の世界や春秋時代の世界)もありうることを、どうやって知るのでしょうか?
太田豊太郎はショーペンハウエルを読んだ。『舞姫』作中で太田がなぜショーペンハウエルを読んだか、ショーパンハウエルのどの部分に太田は共鳴したか、は、丁寧に論考しないと、本当のところは分からない。(ヘーゲルやゲーテではなくショーペンハウエルやシラーの名を出しているので、権威主義・国家主義的ではなくより自由で浪漫主義的なものに太田は惹かれたのではないか、くらいは言えるだろう。)