James Setouchi

 

トマス・ハーディ『ダーバヴィル家のテス』(大沢衛訳)

Thomas Hardy  〝Tess of the d’Ubervilles〟 

 

1 トマス・ハーディ 1840~1928

 イギリスの作家。英国南端ドーセット州の田舎に生まれた。父親は石工。祖先は旧家らしい。州都ドーチェスターで徒弟奉公ののちロンドンに出て建築家のもとで働く。健康を害しドーチェスター戻る。建築家を続けながら創作活動。1867年『貧しい男』が第一作。社会主義的な作風で書店から嫌われる。第二作『窮余の策』は売れた。さらに『狂乱の群れを遥かはなれて』『帰郷』『キャスターブリッジの町長』『森林地の人々』『ダーバヴィル家のテス』『日陰者ジュード』などを発表。因習的な世間から宗教面で攻撃された。詩集『ウェセックス詩集』『覇王ら』を出す。(集英社世界文学全集の藤田繁解説を参考にした。)

 

2 『ダーバヴィル家のテス』(ネタバレあり)

 1891年作者51歳の時発表。当初雑誌社の意向で表現を和らげて出版されたが、のち現在に近い形に直して単行本化された。トルストイからも賞賛を受けたが、ヴィクトリア朝の英国では道徳上の理由から発禁にする地方もあった。(藤田繁による。)

文字通りダーバヴィル家のテスという女性の一生をテーマとした作品。

 

 時代設定は19世紀後半と思われる。農民が土地を失い、定住しない流動的な労働者となり、産業革命による機械化が進行し、旧家が没落し、新興の成金が力を振るう。海外の植民地に事業の展開を求めて雄飛するが失敗して帰国する者もある。キリスト教の新教・旧教が入り交じり、信仰リバイバル運動もあれば、無神論的傾向もある。

 

 テスのダーバヴィル家は、ノルマン・コンクェスト以来の名門の貴族の家柄だが、今はすっかり落ちぶれていて、貧しい農民になっている。継承者である父親自身が貴族の家柄だと知らなかった。歴史好きの牧師に知らされて、父親は夢中になる。近隣にダーバヴィルを名乗る新興の家があるが、実はダーバヴィルを僭称しているだけで、本当の血縁ではない。

 

 テスは両親や弟妹に囲まれて、貧しいながらも幸福な生活を送っていた。そこに、新興ダーバヴィル家の不品行な若者、アレックスが現われる。純真で人を疑うことを知らないテスは、アレックスによって性的被害を受ける。傷ついたテス。それでもテスは生きていく。牧場で働くテスは、牧師の子・エンジェル・クレアと恋に落ちるが、テスは己の過去を自責し、懊悩する。二人は行き違い、エンジェル・クレアはブラジルへ。

 

 農民の子として歯を食いしばって働くテスの前に、忌まわしいアレックスが、狂信的な宣教師となって現われる。だが、アレックスは、テスの魅力の前に、信仰を捨て、テスの窮地につけ込み求愛しようとする。エンジェルへの愛と現実生活の困窮との間で、テスはどうするのか。ここからはお読み下さい。

 

(さらにネタバレ)

 本作には、ダーバヴィル家という名門・旧家の墓や古い伝説の不吉な翳がつきまとう。かつて庶民に対して残虐な行いもしたであろうダーバヴィル家の罪の結果として、この悲劇は起こるのか。

 

 また、本作は、キリスト教的な世界が舞台であり、随所に聖書の故事を踏まえた言葉が出てくる。だが、当時のキリスト教世界からの意図的な逸脱が見られる。エンジェル・クレアの家はすました中流階層の牧師の家柄で、貧しい者の苦しみに無理解だ。アレックスは狂信的な宣教師となるが、自己反省が全くなく、明らかに欺瞞的だ。テスは異教的な雰囲気を持ち、ラスト近くではストーン・ヘンジと太陽光が効果的に使われている。テスの父の家系はノルマン・コンクェスト以来の名門だが、母親の家系はそれ以前から大地に生きている異教徒の系譜を継ぐとも言える。

 

 最初から最後まで「赤」色の血と「黒」色の不気味な何かがまとわりつく。

 

 また、19世紀の農民階級やジェンダーの苦しみを描き取った小説だとの見方もある。(以上、解説の藤田繁ほかを参考にした。)

 

 小説の流れは最初はゆっくりで、ラスト近くになって急に加速し、息もつかせない。最後は感動が残る。

 

 ウェセックス州の田園風景の描写が美しい。そこに生きる人々は貧しく、苦しみをかかえているが、働くテスやその友人の娘たち、またエンジェル・クレアたちは生命力を持っている。作者・ハーディは、ヴィクトリア朝の上品な世界に欺瞞を感じ、農村や牧場で額に汗して働く農民に、逞しく生きる人間の原像を見ていたに違いない。 

 

(イギリス文学)

 シェイクスピア『ハムレット』等、E・ブロンテ『嵐が丘』、C・ブロンテ『ジェーン・エア』、ディケンズ『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』『デビッド・コパフィールド』、オスカー・ワイルド『サロメ』、ハーディ『テス』、クローニン『人生の途上にて』、モーム『人間の絆』『月と六ペンス』、ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』、ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』『灯台へ』、オーウェル『1984』、リース『サルガッソーの広い海』、カズオ・イシグロ『日の名残り』『忘れられた巨人』などなど。

 イギリス文学に学んだ日本人は、北村透谷・坪内逍遥・夏目漱石・上林暁・福田恆存・丸谷才一をはじめとして、多数。商売の道具としての英語学習にとどまるのではなく、敬意を持って英米文学の魂の深いところまで学んでみたい。