James Setouchi

 

ディケンズ『大いなる遺産』山西英一・訳 新潮文庫

Charles Dickens  “Great Expectations”

 

1 ディケンズ(1812~1870)

 イギリスの作家。父親は下級官吏で貧しく、借金のために一家が監獄に入れられていたこともある。チャールズは小学校も十分行けず、生活のために工場で働くなどした。新聞記者をする傍ら、小説を書き、売れっ子作家となっていった。幼いころ貧乏と社会の矛盾に苦しんできたので、小説を通じて読者大衆に向けて、貧者・弱者の救済を訴えた。また社会改良運動も行った。代表作『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・キャロル』『デヴィッド・コパフィールド』『二都物語』『大いなる遺産』などなど。(『集英社世界文学事典』から)

 解説の山西英一によると、「イギリス資本主義の全盛期を代表する最も典型的な作家」である(下巻528ペ)。

 

2 『大いなる遺産』1860~61年。

 ディケンズ後期の代表作。大変面白い。ストーリー展開が面白く、そこで語られている思想内容も平易で、通俗的な大衆小説と言えば言えるかもしれない。が、そこで語られている平易な思想内容こそが私たちにとって最も大切にすべきことがらであるのかもしれない。ディケンズは大英帝国・資本主義の最盛期の真っただ中にあって、人間にとって一番大切なものは何か? を問い、それを踏みにじる社会やいわゆる世間のお上品な人々の欺瞞をえぐり取り糾弾する。作家のメッセージ、「それは、すべてのひとは、幸福であり、豊かである権利がある、ということです。それをふみにじるものをば本気で怒り、抗議し、糾弾することです。」と解説の山西英一氏は言う(下巻539ペ)。

 

 場所はロンドンおよびその近郊。ロンドンから馬車で5時間のテムズ川下流の沼沢地帯の田舎の村、ロンドンの中心街、ごみごみした下町、監獄、テムズ川畔の港や海岸などが登場する。時代設定は1800年代半ばと思われる。イギリスは資本主義が発達し、動産をつかんで財を蓄積する人や東洋へとビジネスを展開する人もあれば、貧困で教育も受けられず犯罪を犯し官憲に捕えられる人もある。またアメリカ大陸に渡り巨万の富をつかむ人もある。21世紀の私たちの世界と少し違うところもあるが基本の枠組みは同じとも言える。

 

 語り手=主人公のピップは、田舎の子で、年の離れた姉夫妻の鍛冶屋に育てられた。姉は横暴で夫と弟をすぐ殴る。姉の夫のジョーは鍛冶屋で、善良で貧しい。ジョーはピップを弟のようにかわいがる。近所のビディという貧しい女の子はピップに親切にしてくれる。田舎町に住む教会書記のウォプスルさん、車大工のハッブル夫妻、穀物商のバンブルチェック、渡り職人のオーリックらと付き合いがある。

 

 穀物商のバンブルチェックは、俗物を絵に描いたような人物だ。ピップが追い風の時は揉み手をし、ピップが貧しい時にはひどく扱う。手柄は何でも自分のものだと嘘や粉飾を交え宣伝する。当時こういう俗物がイギリスの田舎町には(都会にも)沢山いたに違いない。そして21世紀の東洋のどこかの国にも…

 

 幼いピップは、脱獄囚に脅され、大変怖い目に合う。ピップは脅されるままに台所から食べ物とワインを盗み出し脱獄囚に与える。やがて脱獄囚は兵隊たちに捕えられる。ピップは脅されているのでこのことを誰にも言えない。「あのとき以来(中略)わたしは恐怖におびえた幼いもののうちに、どんな秘密がかくされているかを知ってくれるひとは、ほとんどないのだ」(31ペ)とピップは記す。読者は共感する。ディケンズは他の作品でも、怯える幼い子どもの心を描き出す。子どもの孤独な震える心を描かせると彼は世界屈指だ、と私は思う。

 

 町の古い謎のお屋敷から呼び出され、ピップは不可思議な老令嬢ミス・ハヴィシャムと出会う。そこは時の停まった館だった。日の光の指さない場所だった。そこでエステラという不思議な少女にも出会う。

 

 ここまでが序盤だ。ところが、ある日突然、ロンドンの腕利き弁護士のジャガースがやってきて、ピップはある資産家から巨額の遺産を贈られることになった、贈り主が誰かは秘密のままだが、その遺産のおかげでピップはロンドンで紳士(エリートのジェントルマン)になるための教育を受けることになる、と伝える。ピップの人生は変わる。ピップは貧しく善意のジョーとビディを捨て栄達を夢見てロンドンに行く。田舎と都会の構図は今の日本にもある。

 

 ロンドンでは、弁護士のジャガース、事務員のウェミック、マシュー・ポケット先生やその子のハーバートらと出会う。ハーバートとは親友になる。そして…

 

 このあと劇的な展開が次々と起こる。読んでのお楽しみである。

 

 『大いなる遺産』(原題では「大きな期待、偉大な望み」)とは何か? それは、単に巨額の遺産相続のことのみを言うのではあるまい。ピップが多くの試練を経て得た人生観、それにより展開されるかもしれない今後の人生への期待をも含意しているのではあるまいか?

 

 田舎のジョーやビディの善良さと親切が心にしみる。貧しくて字も読めなくても、善良な人は善良だ。悪知恵や社会の偏見が人を転落させ押しつぶす。やむを得ず犯罪者の烙印を押されてしまった人の中にも美しい魂が生きている。それを見抜けない社会は間違っている。ディケンズの語る思想内容は平易だが尊い。イギリス最大の国民的作家としてディケンズを挙げる人も多い。                             

 

 (イギリス文学)

 古くは『アーサー王物語』やチョーサー『カンタベリー物語』などもあり、世界史で学習する。ウィリアム・シェイクスピア(1600年頃)は『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『リヤ王』『マクベス』『ベニスの商人』『オセロ』『リチャード三世』『アントニーとクレオパトラ』などのほか『真夏の夜の夢』『お気に召すまま』『じゃじゃ馬ならし』『あらし』などもある。18世紀にはスウィフト『ガリバー旅行記』、デフォー『ロビンソン・クルーソー』、19世紀にはワーズワース、コールリッジ、バイロンらロマン派詩人、E・ブロンテ『嵐が丘』、C・ブロンテ『ジェーン・エア』、ディケンズ『デビッド・コパフィールド』『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』、スティーブンソン『宝島』、オスカー・ワイルド『サロメ』『ドリアン・グレイの肖像』、コナン・ドイル(医者でもある)『シャーロック・ホームズの冒険』、ウェルズ『タイムマシン』、20世紀にはクローニン(医者でもある)『人生の途上にて』、モーム『人間の絆』、ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』、ジョイス『ユリシーズ』、ウルフ『ダロウェイ夫人』、ミルン『くまのプーさん』、オーウェル『1984』、ボンド『くまのパディントン』、クリスティ『オリエント急行の殺人』、現代ではJKローリング『ハリー・ポッター』、カズオ・イシグロ『日の名残り』『私を離さないで』などなど。

 イギリス文学に学んだ日本人は、北村透谷・坪内逍遥・上田敏・夏目漱石・芥川龍之介・中野好夫・福田恒存・荒正人・江藤淳・丸谷才一・小田島雄志をはじめとして、多数。商売の道具としての英語学習にとどまるのではなく、敬意を持って英米文学の魂の深いところまで学んでみたい。