James Setouchi

 

 カズオ・イシグロ『充たされざる者』 Kazuo Ishiguro〝The Unconsoled〟

 

1 カズオ・イシグロ 1954~

 日本人石黒一雄として長崎に生まれた。5歳の時父の仕事で渡英。ケント大学、イースト・アングリア大学大学院で英文学、創作を学ぶ。1982年『遠い山なみの光』で王立文学協会賞。1983年イギリス国籍取得。1986年の『浮世の画家』でウィットブレッド賞、1989年『日の名残り』でブッカー賞。1995年『充たされざる者』でシェルテンハム賞、2000年『わたしたちが孤児だったころ』、2005年『私を離さないで』、2015年『忘れられた巨人』。2017年ノーベル文学賞受賞。(ハヤカワ文庫表紙の著者紹介、集英社世界文学事典などを参照した。)

 

2 カズオ・イシグロ『充たされざる者』

(1)登場人物

ライダー:語り手。世界的ピアニスト(らしい)。世界を旅して多忙な生活を送る。今回は東欧のある町に招かれ、「木曜会の夕べ」でのスピーチや演奏を通じてその町の問題を解決することが求められている(ようだ)。だが、町の人々から次々に難題を持ちかけられ引きずり回される。/ライダーの両親:ライダーの演奏を聴きにこの町に来るはずだが…

グスタフ:ポーター。かなり年配。ポーター仲間の信頼が厚く、ポーターの地位を高めるために奮闘している。ライダーにポーターの仕事を称揚するスピーチを依頼する。/ゾフィー:グスタフの娘。だが、ライダーは自分がゾフィーの夫だったと思い出す。/ボリス:ゾフィーの息子、グスタフの孫。幼く、多少変わっている。ゾフィーの連れ子だとすればライダーの義理の息子ということになる。

ホフマン:ホテルの支配人。/ホフマンの妻:音楽に詳しく、ライダーのファン。/シュテフェン:ホフマンの息子。ピアニストを目指してきたが、両親は彼には才能がないと思っている。

ブロツキー:天才的指揮者。長年アルコール依存症で、町の人からは呆れられている。/ミス・コリンズ:ブロツキーのもと妻。町で人の世話をして暮らしている。

クリストフ:この町の音楽をリードしていた人。最近は人々から批判されているようだ。

 

(2)内容(ネタバレあり)

 長編。世界的ピアニストらしき人物、ライダーの語りで物語は進行する。ライダーは東欧のある町を訪れる。その町の人々は音楽を愛好しているが、何か深刻な問題を抱えている。ライダーは「木曜会の夕べ」の演奏とスピーチで、その問題を解決することが期待されている。わずか数日の滞在だが、ライダーは果たしてうまくやれるのだろうか。

 

 だが、イシグロの作品の例にもれず、語り手は信用ならない。ライダーは何か大事なことを忘れている。あるいは、思い出すのだが、不確かだ。滞在のスケジュールもあいまいだ。

 

 そこに、多くの人がさらなる無理難題を持ち込む。きわめて慇懃・丁寧に、しかし強引に。ライダーは引きずり回される。引きずり回される途中でさらに他の人に出会い、別の問題に引きずり込まれる。その過程でさらに別の問題に…「木曜会の夕べ」本番が近付けば近付くほど、更に難題が降りかかり振り回される。やるべきことが多すぎる。本来の仕事からどんどん横道にそれていく。大丈夫なのだろうか、ライダーは? 自分のスケジュール表をなくした(忘れた)者はこうして他人に引きずり回される。

 

 指揮者のブロツキーとその妻はすれ違う。ライダー自身とその妻もすれ違う。ホフマン夫妻は息子のシュテフェンの成功を目にするか。ライダーの両親は息子であるライダーの成功を目にするか。これらの問題がパラレルに進行する(いや、進行していることが想起される)。両親がいさかいをすることに、幼いボリスはすすり泣く。両親がついに現れなかったことに、ライダーもまたすすり泣く。

 

 周囲の無理解。みんな自分勝手だ。ライダーははじめ親切に対応しようとするが、結局何度も怒りを爆発させる。だが、ライダー自身もまた身勝手なのだ。お互いがお互いを理解せず、自分勝手な主張を繰り返しながらすれ違い、事態は解決しないまま進んでいく。しかも、この町で名士と自負する人々の自分勝手さ。実は音楽を何もわかっていないのに、狭い町で自分勝手な世論を形成して、名士ぶって右往左往しているだけではないのか。真の勇者(かもしれない)ブロツキーは結局理解されない。真に芸術を愛する(と思われる)ライダーは、しかし演奏の機会も得られず両親にも会えず妻子にも去られ孤独にすすり泣く。幼いボリスもすすり泣いている。(希望は、若いシュテフェンが、才能の片りんを見せ、新たな修行へと旅立つことだろうか。)

 

 こうして、愚者の饗宴は終わり、愚者たちは愚者たちのまま取り残される。彼らの日常は続く。人生はそんなものだとイシグロは言いたいのか。まことに、それは私たちの人生によく似ている。

 

 …だが、孤独にすすり泣くライダーを、音楽など解しそうもない電気技師が、慰める。とりあえずビュフェで食事をし、つつましやかな会話を楽しむことはできる。人生は思い通りにならず愚劣なことの連続だが、多くを期待しなければそう捨てたものでもないとイシグロは言いたいのか。「人生に何かを期待するのではなく、人生があなたに何を期待しているかを考えよ」と誰か(確かフランクル)が言った。人生の期待に応えようとライダーは奮闘する。だが、全ては失敗に終わる。失敗に終わってもなおそれは人生ではあるとイシグロは言いたいのか。

 

 この作品は時間も空間も歪んでいて、まるでカフカの小説のようだ、と多くの人が言う。東欧の町なのに故郷のイギリスの部屋や級友が突然出てくる。ライダーが錯乱しているのか? 巻末「解説」によれば作家自身はブラックジョークのつもりで書いたということだが、踏んだり蹴ったりのライダーの姿を見ると、それはまさに私たちの人生そのもののようであり、まさしくブラックジョークである。