James Setouchi
カズオ・イシグロ『私たちが孤児だったころ』入江真佐子訳、早川epi文庫
Kazuo Ishiguro 〝When We Were Orphans〟
1 カズオ・イシグロ 1954~
日本人石黒一雄として長崎に生まれた。5歳の時父の仕事で渡英。ケント大学、イースト・アングリア大学大学院で英文学、創作を学ぶ。1982年『遠い山なみの光』で王立文学協会賞。1983年イギリス国籍取得。1986年の『浮世の画家』でウィットブレッド賞、1989年『日の名残り』でブッカー賞。1995年『充たされざる者』でシェルテンハム賞、2000年『わたしたちが孤児だったころ』、2005年『私を離さないで』、2015年『忘れられた巨人』。2017年ノーベル文学賞受賞。(ハヤカワ文庫表紙の著者紹介、集英社世界文学事典などを参照した。)
2 『私たちが孤児だったころ』〝When We Were Orphans〟 読み解きのための登場人物ガイド
クリストファー・バンクス:全編の語り手。10歳頃まで上海の租界に育つ。両親と切り離され、イギリスの伯母のもとへ。聖ダンスタン校からケンブリッジを経て私立探偵となる。それは両親の失踪の謎を解明するためでもあった。腕利きの探偵として社会的に成功し、1937年(日中戦争開始の年)の上海へ。そこで両親の失踪の謎を解き明かそうと試みるが…
(幼いころの上海)
クリストファーの父:モーガングルップ&バイアット社の社員。上海の租界で暮らすイギリス人。会社はどうやら阿片売買に関わっているようなのだが…/クリストファーの母:上海で暮らす美しい女性(イギリス人)。中国人を救うために阿片追放運動を行っている。/メイ・リー:フィリップの乳母。/フィリップおじさん:上海で中国人居住区の改善運動をしている人。/ヤマシタ・アキラ:上海で暮らす、クリストファーの幼馴染。日本人。/リン・チェン:アキラの家の雇い人。中国人。/シンプソンさん:会社の人。/ワン・ウー:当時の上海を支配していた軍閥の長。
(イギリス)
ジェームズ・オズボーン、スタントン、ソーントン・ブラウン:いずれも聖ダンスタン校でのクリストファーの友人。/ミス・ヘミング(サラ):イギリス社交界に出入りする美しい女性。実は両親を失っている(孤児)。/サー・セシル・メドハースト:大英帝国の大物政治家。/ジェニファー:両親を海難事故で失った少女。クリストファーが引き取って育てる。/ミス・ギヴンス:ジェニファーとクリストファーの世話役。
(1937年、上海再訪)
領事館のマクドナルド氏:クリストファーが上海を再訪した時に対応した役人。/上海市参事会のグレイスン氏:クリストファーが上海を再訪した時の上海の世話役の一人。/アンソニー・モーガン:クリストファーの学友。上海再訪時再会しクリストファーに情報をもたらす。/リン氏一家:クリストファーのかつての上海の家に今居住している一家。/イエロー・スネイク:謎の人物または組織。阿片マフィア?あるいはスパイ?クリストファーの両親失踪と関係があるのか?/クン警部:かつてクリストファーの両親の事件を担当した警部。/イエ・チェン:盲目の俳優。/チョウ中尉:中国軍(蒋介石軍)の中尉。クリストファーを案内する。/中国人の女の子:日本軍と中国軍の戦闘に巻き込まれて家族を失う。彼女もまた、孤児となった…/シスター・ベリンダ・ヘイニー:慈善団体のシスター。
3 コメント(ネタバレあり)
大変面白い。一日で読んでしまった。イシグロ一流の過去への誤認(思い込み)を伴う郷愁と、真相暴露とがある。同時にこの作品には、それらを引き受けつつこれからを生きて行こうとする覚悟(一種の諦観)とが描かれている。大きな舞台は1930年代の上海とロンドン。語り手クリストファーは上海の租界で育つが、両親が謎の失踪を遂げ、孤児となってロンドンへ。伯母に育てられ、私立探偵となる。仕事で成功し社交界でも有名人となった(と思い込んでいる)クリストファーは、両親失踪の謎を突き止めるため、風雲急を告げる東アジア、上海へ。全ての問題の核心は上海にある、彼はその上海と特別な関係にある、と社交界で思わせぶりな言葉を掛けられる(233頁)。だがそれは彼の自己像とは違いロンドンの社交界一流の彼への皮肉であったのか。ともかくも彼は上海に行く。人は「ブラインドの羽根板を束ねている撚り糸のような」存在で、世界を(家族を)「しっかりと繋ぎ止めて」おくのは自分の仕事だ、自分がそれをしないと、「すべてがばらばらになってしまう」(127頁はアキラの科白、228頁はクリストファーの科白)とばかりに。だがそこはイギリス人紳士たちが中国人を実力で(阿片をも用いて!)支配する場所だった。さらに中国軍(蒋介石軍)、共産党軍、日本軍の入り混じる戦争が勃発する。クリスファーの両親探しはどうなるのか。美しい恋人サラ(注1)との関係は。再会した幼馴染アキラ(注2)との関係は。謎のイエロー・スネークの正体は。
上海市街での戦闘シーンはリアルで、残酷だ。もともとは超大国イギリスが阿片を使うなどの汚い手段で中国を支配していた。そこに中国の軍閥や国民党(蒋介石)政権や共産党や日本軍が入り混じり状況は大混乱。遂に勃発した戦闘。戦場では中国兵も日本兵も叫び声をあげ泣き声をあげ苦しみながら死んでいく。罪もない一般人の家屋が目茶目茶に壊され、家族が殺される。21世紀の最も悲惨な市街戦の現場もこのようであるのか。イシグロは大国による理不尽な支配と戦場の残虐さを告発しているかのようだ。(注3)
結末は、あまりにも残酷な事実がクリストファーを待っていた。では、救いはないのか。イシグロは救いを用意する。それは愛だ。愛によって人は孤児であることを乗り越える。クリストファーは養い子のジェニファーに言う。「わたしはいつもきみを助けるためにここにいるからね。そのことを知っておいてほしいんだ」(253頁)。クリストファーは下の世代であるジェニファーに愛を贈る。
残酷な真相が暴かれるが、孤児として生きてきたクリストファーもまた母に愛されていたことを確信する。今まで「消えてしまった両親の影を何年も追いかけている孤児」(530頁)のような存在だったが、これからはクリストファーは「心の平安」を手に入れ、人生を受け入れて生きていけるだろう。
しかも、老いたクリストファーと一緒に田舎で静かに暮らすことをジェニファーは提案している。クリストファーは母親と暮らせなかったが、ジェニファーは結婚して家族を作るとともに、父親代わりであるクリストファーと暮らそうと言っている。クリストファーはこれからの人生を静かに生きていくだろう。ばらばらになったもの(家族)をもう一度繋ぎ合わせる、あるいは、新しく作り直す、この物語はそういう物語でもある。
(注1)サラについて付言。サラは変容した。最初はセレブ志向の女性として登場する。ハイクラスの人の集まるパーティーに出たがり、大物政治家と結婚する。(それもサラが孤児として育ち愛を求めるゆえの行動かもしれないが。)だがサラは上海でのサー・セシルとの生活に疲れ果てて言う、「あたくしにわかっているのは、あたくしが何かを探しながらここ何年も無駄にしてしまったってことだけ。もしあたくしがほんとうに、ほんとうにそれに値するだけのことをやった場合にもらえる、一種のトロフィーのようなものを探しているうちにね。でも、そんなものはもういらない。今は他のものが欲しいの。温かくてあたくしを包み込んでくれるようなもの、あたくしが何をやるとか、どんな人間になるとかに関係なく、戻っていけるものが。ただそこにあるもの、いつでもあるもの。ちょうど明日の空みたいに。そういうものが今は欲しいの。…」(358頁)サラはサー・セシルのいる上海から脱出してクリストファーと静かな生活をしたいと願っているのだ。サラの願いをクリストファーはかなえてやれなかったが、他の男とサラは静かに暮らせたかどうか、作品はヒントを示してはいるが真相は分からない。サラは戦争で収容所に入れられ健康を害して死んだ、との証言がある(527頁)。サラの求めた静かな生活はかなえられたとは言えないようだ。
代わりに静かな生活をかなえるかもしれないのはクリストファーとジェニファーだ。
(注2)アキラについて。アキラは上海時代の幼友達だ。大日本帝国の軍国主義の風潮のもと、自分は日本人だとのアイデンティティを強める。が日本に戻ると異分子として排除され、再び上海に戻る。ずっと上海で暮らし、1937年の日中戦争のさなか、クリスファーと劇的に再会する。アキラは戦場をクリストファーと共に移動し(このシーンは大迫力だ)、生死の境でクリストファーを生きのびさせるため「トモダチ」という日本語を教える。だが、現れた日本兵によってとらえられ、敵に情報を提供した裏切り者として連れ去られてしまう(466頁)。その後アキラについては語られない。劇的な再会をしたアキラは本当にアキラだったのか? と疑念を語る向きもある。日本と中国との橋渡しをしえたかもしれない人物、しかし悲劇に終わった人物として造形しているのかもしれない。
(注3)この小説には7つの語りの日付が明示されている。イシグロがなぜこの日付にしたのか本当のところは分からないが、仮に満州事変~日中戦争との時間的関係を下に記してみる。次に続く人が解明してほしい。
1927年蒋介石が北伐開始
1928年中国政府は南京へ。上海は繁栄。
パート1 1930年7月24日ロンドン
パート2 1931年 5月15日ロンドン
1931年9月18日満州事変(柳条湖事件)勃発
1932年5月15日五・一五事件
1932年1月28日~3月3日上海事変
1936年2月26日二・二六事件
パート3 1937年 4月11日ロンドン
1937年7月7日日中戦争(盧溝橋事件)勃発
1937年8月13日~10月26日第2次上海事変
パート4 1937年9月20日上海(第2次上海事変の最中での出来事)
パート5 1937年9月29日上海(同上)
パート6 1937年10月20日上海(同上)
1945年8月15日 大日本帝国、降伏
1949年 中国共産党、国共内戦に勝利
パート7 1958年11月14日イギリスはエリザベス2世の時代である。すでにインド・パキスタン・ビルマ・マレーシアなどが独立している。
(イギリス文学)
古くは『アーサー王物語』やチョーサー『カンタベリー物語』などもあり、世界史で学習する。ウィリアム・シェイクスピア(1600年頃)は『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『リヤ王』『マクベス』『ベニスの商人』『オセロ』『リチャード三世』『アントニーとクレオパトラ』などのほか『真夏の夜の夢』『お気に召すまま』『じゃじゃ馬ならし』『あらし』などもある。18世紀にはスウィフト『ガリバー旅行記』、デフォー『ロビンソン・クルーソー』、19世紀にはワーズワース、コールリッジ、バイロンらロマン派詩人、E・ブロンテ『嵐が丘』、C・ブロンテ『ジェーン・エア』、ディケンズ『デビッド・コパフィールド』『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』、スティーブンソン『宝島』、オスカー・ワイルド『サロメ』『ドリアン・グレイの肖像』、コナン・ドイル(医者でもある)『シャーロック・ホームズの冒険』、ウェルズ『タイムマシン』、20世紀にはクローニン(医者でもある)『人生の途上にて』、モーム『人間の絆』、ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』、ジョイス『ユリシーズ』、ミルン『くまのプーさん』、オーウェル『1984』、ボンド『くまのパディントン』、クリスティ『オリエント急行の殺人』、現代ではJKローリング『ハリー・ポッター』、カズオ・イシグロ『日の名残り』『私を離さないで』などなど。イギリス文学に学んだ日本人は、北村透谷・坪内逍遥・上田敏・夏目漱石・芥川龍之介・中野好夫・福田恒存・荒正人・江藤淳・丸谷才一・小田島雄志をはじめとして、多数。商売の道具としての英語学習にとどまるのではなく、敬意を持って英米文学の魂の深いところまで学んでみたい。