James Setouchi

 

バルザック『谷間の百合』  

Honoré  de Balzac  〝Le Lys dans la vallée〟

 

1 オノレ・ド・バルザック 1799~1850

 フランスの作家。トゥール市生まれ。パリ大学法学部に学び、見習い書記の仕事などをする。創作を行う傍ら出版業、印刷業、活字鋳造業などに手を出すが失敗。銀鉱開発や雑誌経営も試みるが失敗。債権者に追われる。その中で多くの傑作を残した。1850年没。代表作『ピラーグの女相続人』『ふくろう党』『結婚の生理学』『ウージェニー・グランデ』『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『老嬢』『幻滅』『従妹ベット』『従兄ポンス』『現代史の裏面』などなど。彼の主な作品は『人間喜劇』という全集に収められる。(集英社世界文学事典の高山鉄男の解説などを参考にした。)

 

2 『谷間の百合』(新潮文庫、石井晴一 訳)

 サント=ブーヴの『愛欲』(1834年)に対抗して創作。1835年ころほぼ完成、ペテルブルクで未定稿が発行されてしまう。その後ヴェルデ書店から刊行、改訂版を1839年夏にシャルパンチエ書店から出す。作者40歳頃。自伝的要素が強く、また最高傑作の一つと言われる。「人間喜劇」シリーズの一つ。(新潮文庫解説を参照した。)

 

 実に面白い。ただし、かの鹿島茂(フランス文学者)は、高校時代これを読もうとして全く面白くなく挫折した、のちに『ゴリオ爺さん』でバルザックの面白さを発見した、と書いている(岩波文庫別冊12『世界文学のすすめ』)ので、面白さは読者の年齢や人生経験にも左右されるのかもしれない。私には実に面白かった。

 

 舞台は19世紀はじめ、ナポレオン没落とフランスのブルボン王家の復活のころのフランス、ロワール川の近くのある谷間貴族の若者フェリックス・ヴァンドネス年上の美しい伯爵夫人、アンリエット・ド・ルノンワール(モルソフ伯爵夫人)と出会い、恋に落ちる。小説の形式は、フェリックスが現在の恋人(らしい)伯爵夫人ナタリー・ド・マネルヴィルに対して、自分の過去を回想して語る長い手紙の形をとっている。すでにモルソフ伯爵夫人との恋は過去のものとなり、美しい谷間での美しい伯爵夫人への美しかった恋を、フェリックスは回想して語るのだ。その語りの中で様々な人物の姿が明らかになっていく。

 

 語り手フェリックスは、貴族・上流階級の母親に冷たくあしらわれ、愛に飢えている。幼い子供のようだったが、モルソフ伯爵夫人との出会いで変容し美しい若者に成長する。

 

 モルソフ伯爵夫人は、まるで聖母のような存在だ。地元の困っている人々のためにも献身的に尽力したことが明らかにされる。夫に尽くし、病弱な子供二人を育て、フェリックスの情熱が爆発しそうになると賢明にもたしなめ、弟のように(?)愛情を注ぎ、パリにいる実家の人脈を使ってフェリックスの出世の手助けをする。至れり尽くせりなのだ。フランス上流階級のキリスト教(カトリック)の禁欲的な美徳に殉じていくその様は、まさに谷間の百合だ。

 

 その夫モルソフ伯爵は老齢で、かつての気苦労から病身であり、極端な人物だ。すぐかっとなり、夫人に当たり散らす。実はこのモルソフ伯爵の人物造形もバルザックは実にうまい。いかにもこの人物が生きて動いているようだ。

 

 子供が二人いる。姉マドレーヌ弟ジャック。モルソフ伯爵夫人は二人を愛するが、二人は病弱だ。子供はフェリックスたちになつくが…

 

 谷間の自然描写も美しい。特に恋に落ちたフェリックスの目には。

 

 言うまでもなく、百合は聖母マリアの純潔のイメージだ。美しい谷間に美しい百合が咲いているのだ。

 

 この後どうなるのだろうか? それは言えない。言うと読者の楽しみをそぐことになる。実に面白い展開が待ち受けているのだが、ここでは秘密だ。

 

 フェリックスの一方的な長い語り、モルソフ伯爵夫人への賛美を、退屈と思うだろうか? 私は引き込まれて読んだ。さらに、さすがはバルザックで、話はそこにとどまらない。バルザック自身は貴族階級の出身ではない。貴族階級へのシニカルなまなざしもバルザックは実は持っているに違いない。まさに「人間喜劇」。悲劇にして喜劇、喜劇にして悲劇。フランス文学は面白い! の代表例の一つだ。

 

(フランス文学)ラブレー、モンテーニュ、モリエール、ユゴー、スタンダール、バルザック、フローベール、ゾラ、ボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ、カミュ、サルトル、マルロー、テグジュペリ、ベケット、イヨネスコ、プルースト、ジッド、サガンなどなど多くの作家・詩人がいる。中江兆民、永井荷風、萩原朔太郎、堀口大学、島崎藤村、与謝野晶子、高村光太郎、小林秀雄、横光利一、岡本かの子・太郎、遠藤周作、渡辺一夫、大江健三郎、内田樹、池澤夏樹らもフランスの文学・思想に学び多くを得た。