James Setouchi  ドストエフスキー『死の家の記録』  工藤精一郎・訳(新潮文庫)

 Фёдор Миха́йлович Достое́вский“Записки из Мёртвого дома”

 

1 作者ドストエフスキー(1821~1881)

 19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。父はモスクワの慈善病院の医師。1846年の処女作『貧しき人びと』が絶賛を受けるが、’48年、空想的社会主義に関係して逮捕され、シベリアに流刑。この時持病の癲癇が悪化した。出獄すると『死の家の記録』等で復帰。’61年の農奴解放前後の過渡的矛盾の只中にあって、鋭い直観で時代状況の本質を捉え、『地下室の手記』を皮切りに『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』等、「現代の預言書」とまで呼ばれた文学を創造した。 (新潮文庫の作者紹介から。)

 

2 ドストエフスキー略年譜 (NHKブックス 亀山郁夫『ドストエフスキー父殺しの文学』の年表を参考にした。)

1821( 0歳)帝政ロシア時代の地主の家に次男として生まれる。

1339(18歳)父ミハイルが農奴によって殺される。

1845(24歳)『貧しき人々』完成、

1849(28歳)ペトラシェフスキーの会のメンバーとともに逮捕。死刑宣告ののち恩赦でシベリア流刑

1854(33歳)刑期満了。シベリア守備大隊に配属。

1859(38歳)ペテルブルグに帰還。

1860(39歳)『死の家の記録』の連載開始。

1866(45歳)『罪と罰』連載開始。以後『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』など。

1881(60歳)1月死去。

 

3 『死の家の記録』

 作者がシベリア(オムスク要塞監獄)で徒刑囚として4年間服役した経験を基にしている。時間順には『貧しき人々』→シベリア流刑→『死の家の記録』→『罪と罰』であり、『罪と罰』以降のドストエフスキー作品の人物像の材料を示す作品と言えるが、未読の人は『貧しき人々』→『罪と罰』→『カラマーゾフの兄弟』を読んでから読まれると腑に落ちることが多いと私は思う。物語としての展開などはあまりなく、流刑地でのエピソードがオムニバス的に綴られる。アレクサンドル・ペトローヴィチ・ゴリャンチコフという人(妻殺しの罪でシベリアで徒刑囚となり、10年の刑期後移住囚として暮らした)がシベリアの監獄で見た世界をリアルに描く、という体裁をとっている。

 

 心に残る言葉も多い。ドストエフスキーがロシアの「民衆」そのものに共感し、人間に違いなど本来ない、と実感するヒューマニスト(あるいはキリスト教徒)だったとよくわかる。(他方民衆自身は貴族との間の溝を当然のものとして捉えている。)笞刑は残酷で、特にサディストの刑吏は異常な様相を見せる。だが、それも制度の欠陥が助長している。流刑地に住む人々は「まれに見る」「もっとも天分豊かな、強い人間たち」ばかりだが、「それらの逞しい力が空しく亡び去ってしまった」のは、一体「誰の罪なのか?」と語り手は問う。こうして読者は、人間の「自由」を奪うロシア帝政下の非人間的なありかたの疑問へと誘われる。では、スターリン専制下ではどうだったか? では、現代の高度な格差社会の下で、重い借金(ローンなど)ゆえに「自由」を奪われていることについてはどうか?

 

 彼らは「自由」を渇望する。イルトゥイシ河畔での労役の途中、対岸に広がる曠野(こうや)を遠望すれば、そこからは遊牧民キルギスの歌声が聞こえてくる。これは『罪と罰』ラスト近くでラスコーリニコフが遊牧民の世界を遠望するシーンと同じである。

 

 「民衆」とは誰か? 徒刑囚たちの出身は、百姓、職人、兵士、役人、異民族、無宿者、貴族もいる。罪状は、殺人、盗み、政治犯などなど。過酷な運命を背負う人々の交錯するその場所には不思議な活気があり笑いもある。女性がほとんど出てこず、男子校、あるいは男ばかりの工場の寄宿舎、あるいは男ばかりの村の祭の世界のようでもある。そこにいるのは、賢明だったり愚かだったりする、紛れもない人間たちである。ドストエフスキーは自身のシベリア体験で様々な人々に出会いロシアの「民衆」について考察を深めたに違いない。『貧しき人々』にすでに表われている無名の弱者への優しさといたわりが、経験の裏打ちを得てさらに強化されたのではなかろうか。 

 

(ロシア文学)プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー、ソルジェニーツィンら

多数の作家がいる。日本でも二葉亭四迷、芥川龍之介、小林秀雄、椎名麟三、埴谷雄高、加賀乙彦、大江健三郎、平野啓一郎、金原ひとみ、

などなど多くの人がロシア文学から学んでいる。