James Setouchi  2024.5.13  藤澤淸造『根津権現裏』新潮文庫

 

1        藤澤淸造(明治22=1889~昭和=1932)

 石川県(能登半島の七尾)生まれ。尋常小学校卒。右足骨髄炎にかかる。18歳で文筆業を志して卒業。徳田秋声の紹介で『園芸画報』誌の訪問記者となり、室生犀星・芥川龍之介・菊池寛らと交流。大正11=1922年『根津権現裏』を刊行し好評。大正12『われ地獄路をめぐる』大正14『女地獄』など、人生の悲惨醜苦を描く。寡作と放埒な生活のため窮乏に陥り、芝公園内で凍死体で発見された。(ほぼ明治書院『現代文学大事典』の田中栄一の記事による。)新潮文庫巻末には西村賢太による藤澤の伝記がさらに詳しく載っている。

 

2 『根津権現裏』大正11=1922年刊行。

 藤澤淸造の代表作。西村賢太が心酔(「没後弟子」を自称)して推しているので読んでみた。結構面白い。但し西村賢太と同じではない。文庫で350頁位の長さもあってか、西村の短編よりも内容があって面白い。「私」が岡田という友人について語るスタイル。語りの中で岡田の人生が浮き彫りになっていく。それはまた「私」の人生、ひいては当時の貧しい若者の人生とも重なる。現代の若者とも無縁ではない。

 

 「私」は地方出身で東京の本郷、根津、千駄木、谷中界隈で暮らす貧しい書生だ。いずれ文筆で身を立てたいと考えている。「私」には近しい友人、岡田(モデルは安野助太郎で、作者・藤澤の同郷の先輩←西村賢太による)がいる。「私」と岡田は境遇が似ている。お互い貧しい書生で、病を抱えている。「私」は足が悪く、岡田は鼻が悪いが、貧しく、病院に行けない。彼女がほしいがうまくはいかない。文筆に志しているが、能力を磨く資金もなく、不如意だ。岡田は何かと「私」の所に来ては悩みを打ち明ける。同じ境遇の「私」にとってそれは他人事ではない。

 

 今も本郷、根津、千駄木、谷中あたりには学生や芸術家志望の若者がいる。崖の下にはラブホテル街もある。町の構造は当時と同じだ。根津神社あたりは坂の下で何だかじめっとした感じがする。南に東大(当時は旧制高校)の岡があるので、根津神社は日陰なのだ。(GWのつつじ祭りの時は華やかだが。)

 

 (以下ネタバレ)そんなある日、岡田が急死したとの連絡を受ける。あわててかけつける「私」。郷里から上京した岡田の兄との対話。明らかになっていく岡田の死の経緯。岡田は宮部という将来を嘱望された男の世話になっていたが、その宮部にひどく攻撃されて死んだのだ。「私」はそう思う。最後の日々、岡田は精神に異常を来していた。宮部が病院(斎藤茂吉の脳病院がモデルらしい)に強制入院させたが、そこで看護師の目を盗んで自死してしまったのだ。

 

 最後の日々、岡田は何に悩んでいたのか。宮部との関係もある。宮部は岡田を下に見て命令口調で扱う。岡田は真面目に悩むタイプだが、宮部は意志力を持って人生を切り開いていくタイプだ。ロシア文学や二葉亭四迷が採用する、悩む良心的な男と強い実行的な男のペアのパターンを作者は採用しているに違いない。読者は「私」とともに宮部を憎む。だが、岡田の死の要因は、それだけではなかった。岡田は、将来の不安、女性関係、鼻の病、貧しさなどなど、様々な要因によってすでに精神状態に変調を来していたのだろう。わらにもすがる思いで「私」の所に頻繁に訪れてきていたのだろう。だがそんな友人・岡田を「私」は受容できず、邪険に扱ってしまう。岡田は黙って死んでしまう。「私」は岡田の死に自分も関わっていると思い至る。宮部のせいだけではなかった。

 

 しかし「私」は、考えた挙げ句に、病気と、それを治療する金のないことが、すべての根本原因だと思い至る。病と貧。(これに戦争を加えれば、戦前・終戦直後の新宗教隆盛の背景=「貧・病・争」と同じくなる。)この作品には戦争は出てこないが、大日本帝国(ここでは明治終わり、日露戦勝後、大正の初めが舞台)は(一見華やかに見えその実は)多くの人が病と貧に苦しむ社会でもあった。岡田だけではなく「私」においても全く同じだ。「私」もまたこのまま岡田と同様の未来が待つばかりなのか。「私」は暗い予感を抱き雨の中で呆然とする。

 

 作者はプロレタリア文学に傾斜してもいいはずだが、本作ではそちらへの展開は見せていない。芥川の『羅生門』(大正4年発表)と同じく泥棒をすることを思いつくが、「良心」が許さない。ここが『羅生門』との違いだ。「良心」はどこから来たのか? 帝国の道徳教育か? そこへの考察はない。聖書「貧しき者は幸いだ」への言及はあるが「精神の豊かさ」への言及はなく文字通り「金銭的に貧しい者は不幸だ」と聖書に反論する。これら、ラストの片付け方は、不満の残る作品だ。まだ作者三十代初期の作品だから、無い物ねだりかもしれない。

 

 (なお、舞台設定は明治末年。漱石は明治41年『三四郎』で広田に「(日本は)亡びるね」と言わせる。内村鑑三は明治末年には柏木で集会を開き多くの弟子を育てていた。)(『根津権現裏』刊行は大正7年。漱石は2年前に没し、内村鑑三は再臨運動を開始。)

 

 『根津権現裏』に戻ろう。あらすじは面白い。「私」と岡田の兄の対話の中で岡田における事実が明らかになっていく、とする組み立てが巧みだ。岡田の兄の方言も田舎の純朴さを示し効果的だ。「私」は都会の学問の意義について論理的に力説するが岡田の兄との会話はかみ合わない。ここにはおかしみがあり、作品の暗さに対してわずかに明るく、読者を救う。だが、「私」の現実と未来を根本的に解決するものではない。

 

 田舎の生活者である岡田の兄にとって、大学で学ぶ学問(ここでは特に心理学)は、よくわからないもののようだ。大学、学問は、名前だけ聞くと凄そうに見えるが、その実態は、岡田一人を救えない。何のお役にも立たないのではないか? こう問うてもよい。この素朴な問いを推し進めていくと、昭和初めの農本・武断主義(日本は農民で成り立っている、机上の学問は無用だ、農村で暮らし肉体を鍛えて兵士となって戦争に参加すればよい、といった思想)に安易に結びつく危険もある。

 

 岡田の病は、現代ならどう診断されるだろうか。もしかしたら性病が脳に来たのではなかったか? 医師の知見を待ちたい。

 

 現代においては国民皆保険制度があり、とにもかくにも奨学金や社会保障がある。これらがもしなくなるか有名無実化すれば、岡田や「私」は現代においても大量に生まれることになる。社会構造を改変するのでなければ、精神(信仰でもよい)でいかに希望を見いだし語ることができるか? 作者は希望を語っていない。

 

 岡田のモデルは藤澤と同郷の安野助太郎という人で、大正1年、第1次大戦開戦の1年半前に自死したらしい(西村賢太の解説による)。作者・藤澤自身は性病が脳に来て精神に異常を来した。最後は芝公園内のベンチで凍死した(昭和7年)と言う。(北村透谷が明治半ば、日清戦争勃発直前に自死したのも、芝公園の、但し自宅だった。)岡田の死、予見される「私」の未来、安野の死、作者自身の現実の死が、重なって見える。西村賢太の五十代の死すらも。明治末年の青春の暗い一面を描き、現代に通ずる射程を持った作品ではある。

 

 西村賢太は、藤澤淸造について再発見・顕彰しテキストを校正し注釈をつけた。西村およびその周辺の各位の労に敬意を表したい。

 

(参考1 地名について)

・本郷、弥生、向丘、追分、西片、本駒込、白山上:おおむね本郷台の丘の上にある。根津、千駄木、谷中は、おおむね丘の下にあり、遊郭、墓地、飲食店、商店街がある。団子坂、根津神社南のS字坂などの坂(斜面)で丘の上下は結ばれている。

・芝公園:港区。東京タワー、増上寺、プリンスホテルがあり、今でこそ都心の華やかな区画であるが、当時はどうだったのだろうか。「ブラタモリ」で、増上寺あたりは古代以来スピリチュアルスポットだったと紹介していたと思う。そこで北村透谷も藤澤淸造も亡くなったとすればややホラーな感じもするが・・

 

(参考2 年代順にわかりやすく表にすると)

・明治37=1904年~明治38=1905年の日露戦争で帝国はロシアに勝ったとして戦勝気分を盛り上げた。

・明治41年漱石『三四郎』では、登場人物の広田先生が「(日本は)亡びるね」と予言する。

明治45年頃を藤澤『根津権現裏』は舞台設定とする。岡田のモデルである安野助太郎は明治45=大正1年に自死。語り手の「私」も病と貧に苦しむ若者だ。

・明治末年頃、内村鑑三は柏木(新宿の近く)で柏会を開き、その中から多くの弟子が育った。彼らは戦後日本に光明を灯した。

・大正4年芥川は『羅生門』を書く。下人は将来展望を失い強盗をし、暗黒の中へと飛び出していく。「良心」への問いは弱い。

大正7年藤澤は『根津権現裏』を書く。「私」たちは「良心」ゆえに泥棒などは行えない。

・大正7年内村鑑三は再臨運動を開始。

・なお、第1次大戦は大正3=1914年~大正7=1918年。