James Setouchi 2024.5.11 西村賢太からいくつか

 

1        西村賢太1967~2022

 東京生れ。中卒。2007年『暗渠の宿』で野間文芸新人賞。2011年『苦役列車』で芥川賞。『藤澤淸造全集』編纂に力を尽す。他の作品に『どうで死ぬ身の一踊り』『二度はゆけぬ町の地図』『廃疾かかえて』『随筆集 一私小説書きの日乗』『棺に跨がる』など。(以上は新潮文庫、文春文庫のカバーの作者紹介を参考にした。)

 

2        作品

『苦役列車』北町貫多の19才頃を扱う。貫多は家庭の事情で中卒で港湾エリアで日雇い労働者をしている。友人もいない。日下部という友人ができかかるが、結局もめてしまう。

 

『けがれなき酒のへど』貫多32歳。貫多は風俗嬢に金をだまし取られる。他方、藤澤淸造という作家に心酔し、その法要のため親交が深まった能登の副住職夫妻の温かい心に触れる。

 

『暗渠の宿』貫多三十代。28歳の「女」と滝野川で同棲を始める。この女性は、私から見ると、貫多を大事にしてくれる女性で、貫多はこの女性を大事にすべきだが、例によってひどい目に遭わせてしまう。貫多は藤澤淸造全集を作ろうとしている。

 

『焼却炉行き赤ん坊』貫多三十代。題名がぞっとするが、赤ん坊とは犬のぬいぐるみのこと。上記の「女」との間に子どもができず、「女」は犬のぬいぐるみを子どものようにしてかわいがり始める。だが、貫多は例によって激情のままにこのぬいぐるみを破壊してしまう。

 

『小銭をかぞえる』貫多三十代ぎ。上記の「女」との生活。貫多は生来の浪費癖から金策に困り旧友の日下部や「女」の実家を頼ろうとする。日下部には見捨てられ、貫多いの偏狭な正確は「女」をも追い詰めていく。

 

『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』貫多四十代。幹多は作家で、有名になった。川端康成文学賞がほしい。が、腰の激しい痛みに襲われる。貫多には幸福は訪れずこのまま死んでしまうのだろうか。

 

3 コメント

・私小説の主人公の名は北町貫多と言う。明らかに西村賢太をもじっている。読者には、ここで描かれる北町貫多の行状は、私小説家・西村賢太のそれであるかのような錯覚を誘う。北町貫多は、父が性犯罪者で、本人は一家離散で中卒で、十代で日雇い労働者をし、女性と付き合うもひどい目に遭わせ、藤澤淸造については強くこだわり、・・・ということになっている。が、虚構としての北町貫多実像としての作家・西村賢太とは、完全にイコールの筈がない。研究が進めば、虚像・北町貫多と実像としての作家・西村賢太との共通点と差異点が明らかになり、それにより、虚像・北町貫多を使って「私小説家」西村賢太が何を主張し何を隠そうとしたかが、より明らかになるに違いない。評判の作家なので今回文庫で三冊読んでみた。インパクトはある。ずしりと重い何かを喰らった感じだ。

 

・第一に不快である。特に女性に対する扱いは非道だ。これが事実なら女性がかわいそうだ。北町貫多に殴られた女性は辛かっただろう。こんなもの読む気がしないだろう。虚構であることを祈る。暴力の嫌いな女性には一頁もめくれないだろう。

 

・貫多の奇妙な言葉遣いが気になる。「どうで」「はな」「結句」「尚と」「すぐと」など。敢て使っているのだろうか。「・・じゃねえか」などの乱暴な物言いも不快だ。中卒で教養がないことを売りにしているのだろう。だが、語彙のレベルは高い。作者・西村賢太は(中学で不登校になり、十代で肉体労働をし、二十代で古書店でアルバイトをしながら)かなり本を読み込んだのではないか。

 

藤澤淸造に対する感情移入と執念がすさまじい。全集を出すことは貫多にとって(西村賢太にとっても)人生のリベンジの試みだったのかもしれない。全集を粗末に扱っただけでひどい目に遭わされる「女」はたまったものではないが。学者は研究に、スポーツ選手はスポーツに、猛烈社員は会社の仕事に打ち込み、家族をひどい目に遭わせる。そう思えば大多数の日本人に(ここまでではなくとも)思い当たる節があるはず。貫多の場合はデフォルメされた形で表現されているが。

 

・藤澤以前に田中英光(太宰の弟子で、太宰の墓前で自死をはかった)にも傾倒していたらしいが、今回読んだ本ではあまり出てこなかった。

 

反道徳という点では無頼派の太宰治や坂口安吾に似ているかもしれない。家庭を破壊し金遣いが荒く女性関係もでたらめ。但し、

 

①     太宰も安吾も地方の有力政治家の子だが、貫多は(多分西村賢太も)東京の、わけありの家庭の出身。地方の有力政治家の家庭も大いに「わけあり」でありうるが、世間さまに対し名刺を出しうるかどうかの違いがある。本当は親父と子どもは別人格なので、親父が「わけあり」だろうと子どもが非難される所以はないはずだが。そう言えば「わけあり」家庭と言えばカポーティの作品にも多く出てくるが・・?

 

②     太宰は東大中退のインテリ、安吾は新潟中学のエリートだったが中退、それでもサンスクリットの勉強をしたりアテネ・フランセに通ったりの知的エリート。貫太は(多分西村も)自称中卒を繰り返し主張しており、高学歴インテリへの劣等心・敵愾心が強い。

 

③     安吾にはある形で強烈な倫理性があるが、(太宰に倫理性はあるのか? 何とも言えない、)貫多には安吾のような強烈な倫理性はない。自己の倫理性、普遍的な人間のあり方への問いが弱く、何でもその場しのぎで人のせいにする。この幹多の他責性を作家・西村は気付いて書き込んでいるが、追及が弱い。

 

私小説と言えば尾崎一雄だろう。尾崎も作家・西村も自分の身辺から作品を作る。尾崎は小田原の名家の出だが東京で貧しくのたうち回っていた時期がある。だが、尾崎の方が品がある。作家・西村の方が露悪的で下品だ。

 

・細かい心理の動きは詳しく書いている。金を借りたい、女性の歓心を得たいという自分の欲望を充足し相手を怒らせず利用するためにどう動けばよいか? これは魚の心理を読んで釣りをするのと同じだ。相手を人間として尊重していない。このことへの人間としての自己省察が足りない。つまり倫理性がない。心理はあるが倫理がない。この作品群のどこに人間の尊厳への問いがあるのか? 人間の尊厳への問いを持ってこそ真の文学者だと言いたい。さもなければただの戯作者だ。

 

・新潮文庫『苦役列車』に石原慎太郎が解説「魅力的な大男」を寄せている。石原は親の代からエリート(いわゆる「上級国民」)であり、作家・西村とは出身階層が全く違う。(作家・西村の実父は羽振りの良いときもあったとは言え。)石原に西村の何がわかるのだろうか。が、西村は石原作品を十代から読んだらしい(読売新聞2022年2月2日の石原への追悼記事を西村が寄せている)。石原の『太陽の季節』は女性を性と暴力(支配)の対象として見ており私にはきわめて不快だった。この点が西村作品と同じだ。肉体の論理で女性を暴力的に支配するタイプではないか。足りないところを補い合い共に生き育て合うタイプではないのだろう。いや、それは若い頃の作品の話で、作家自身とは違うし、ましてや大人になってからは全く違うはずであるべきなのだろうが・・? 

 

・貫多は(もしかしたら西村賢太も)いわゆる「無敵の人」となる可能性もあった。それをしないですんだのは、何人かの女性、古書店の友人、藤澤淸造との出会い、能登の副住職夫妻、忍耐強く付き合ってくれた出版社編集部員などのおかげだろう。社会経済面に注目すると、彼はバブルの頃に20歳だった。アルバイトで生活できた、という面もある。彼よりも10年下の世代は、小学生の時バブル崩壊、20歳でリーマンショック、かくして「無敵の人」となった人がいる。貫多はならずにすんだ。過去に関わった女性を含め周囲の人のおかげ、また時代状況のおかげ(つまりは僥倖)なのだ。そのことに気付き感謝する日が来るのだろうか。作家・西村賢太が長生きしていたらその境地に届いただろうか。藤澤と西村賢太の墓は能登の浄土宗の寺にある。浄土宗、すなわち他力本願で、仏恩に感謝して生きるはずだが・・

 

・貫多は自分ではモテない振りをしているが、身長177センチ、モテる条件はある。実際4人の女性とは付き合っている。問題は彼が(金がないのはともかくとして)独りよがりで短気で暴力的な点だ。女性が逃げ出すのは当たり前だ。貫多は「女が裏切った」と書くが、そうではなく、女性は命からがら逃げ出したのだ。それをあえて「女が裏切った」と作者・西村賢太は書いて見せて貫多の非道さを読者に示しているのか、それとも自己省察がないのか? あるいは、これは両津勘吉(『亀有公園前派出所』)ばりのマンガとして読めばいいのか? つまり、常識から逸脱した悪いヒーローが暴走し最後は自滅して読者の笑いを誘う、そういう仕掛けなのだろうか? 

 

・想像だが、作者・西村賢太は貫多シリーズを集めて一冊本にしようとの企図を持っておりあえてネタばらしをせず貫多を反省能力のない悪人にしたてているのではなかろうか? もう少し長生きすれば「貫多シリーズ」を書き継ぎ完成させる中で、貫多の足りなかった点について、作家・西村賢太は大いに書き込むつもりだったのではないか? いや、少なくとも長生きしていれば宗教的な境地にも至り得たのではないか? そう思いたいが・・? いや、それは私のはかない期待に過ぎず、これまでのところそれは無理なのかもしれない。反省能力がなく独善的にしか生きられない彼に救いはあるのか? (これは北町貫多の話であって、

作家・西村賢太自身はもう少しまともなのかもしれないが・・?)

 

・作品が文学史に残っても、実際にひどい目に遭わされた女性にしてみればたまったものではない。この点太宰治を想起する。太宰の犠牲になって死んでいった女性たちについて研究してみよう。彼女たちが死んだのは、時代社会の罪でもあるのだが、直接的には太宰のせいではないか。では西村はどうか。