James Setouchi 2024.7.8
トルーマン・カポーティ『遠い声 遠い部屋』新潮文庫潮文庫 河野一郎・訳
Truman Capote “Other Voices,Other Rooms” アメリカ文学
1 トルーマン・カポーティ 1924~1984年
本名トルーマン・ストレクファス・パーソンズ。ニューオーリンズ生まれ。幼くして両親が離婚。カポーティは養父の名前。高校卒業後自活し、様々な職業を経験、21歳の時短編『ミリアム』でオー・ヘンリー賞受賞。『遠い声、遠い部屋』(1948)が絶賛される。戯曲や映画のシナリオも書いた。『ティファニーで朝食を』(1958)はオードリー・ヘップバーン主演の映画となり大ヒットした(注1)。『冷血』(1966)は実在の事件に材を取り、詳しく調査したのちノンフィクション・ノベルとして提示したもの。これもベストセラーとなり映画化された。また「ニュー・ジャーナリズム」流行の先駆けとなった。他に『叶えられた祈り』など。1957年には来日し三島由紀夫とも会った。晩年はアルコール中毒に苦しんだ。(集英社世界文学事典の宮本陽吉の解説を参考にした。)(この集英社世界文学事典は私どものような初心者には有益である。(高価だが)一冊常備しておくといいかもしれない。各図書館にはあるとは思うが・・)(注1)『ティファニーで朝食を』は映画と原作では随分違う。
2 『遠い声 遠い部屋』河野一郎・訳 新潮文庫2014年
カポーティの処女長編。1948年刊行。カポーティはこれを22歳で書いている。芥川『羅生門』や大江『芽むしり仔撃ち』も22~23歳頃の作品なので、カポーティも早熟の天才と言うべきか。河野一郎によれば、「無類の美しさ」「無類の知性」と絶賛する声と、「アル中的作品」「支離滅裂」と批判する声とがあった。
(ややネタバレ)
ジョエル12歳は母親が死に、生き別れていた父親を訪ねてニュー・オーリンズから一人旅をする。見知らぬ場所、見知らぬ大人たち。辿り着いた場所はスカイリズ・ランディングは、田舎で、謎の場所だった。ミス・エイミイという中年の叔母さん以外に謎の婦人がいる。エイミイのいとこのランドルフさんも不思議な人物だ。ジョエルが父親のことを訪ねると皆言葉を濁す。父親は本当にいるのだろうか、それとも・・・? ジョエルは不安になる。
同じ家にズーという黒人の少女とその父親だという超高齢のジーザス・フィーヴァーが住んでいる。ジョエルはズーと姉妹のように仲良くなる。近所に白人の双子の姉妹、フローラベルとアイダベルがいる。フローラベルは南部の上流階級の婦人のような話し方をする。アイダベルは赤毛で男の子のようにきかん気で周囲から問題児だとみなされている。ジョエルはアイダベルと仲良くなる。森の奥には謎の廃墟、クラウド・ホテルがある。そこには恐ろしい言い伝えがあり、謎の隠者リトル・サンシャインが住んでいる。幼いジョエルにとって世界は謎に満ちている。ジョエルは空想の世界に逃げ込む。そして・・
(以下本格ネタバレ)
ジョエルの父親はいるにはいたが、昔ランドルフさんたちが若気の至りで犯した過ちで重い病の床にあった。ランドルフさんは女装癖があり同性愛者だった。老人のジーザス・フィーヴァーが亡くなりズーは北部へと旅立つが、悪い大人たちの暴力によって傷つけられて帰ってくる。アイダベルとジョエルは二人で家出しようとするがジョエルが病に倒れている間にアイダベルと引き裂かれる。ジョエルは高熱の中で妄想を見る。ジョエルはランドルフさんと森の奥のクラウド・ホテルへとリトル・サンシャインを訪れる。ジョエルは自分は一体誰なのか? という問いを経て「ぼくはぼくなのさ」という自覚に至る。完璧な父親を求めても得られない。大人たちもそれぞれに傷ついている。それでも何とか生きている。外界の暴力に脅えていたばかりの幼いジョエルが、自分や他人の弱さを引き受けて立ち上がる、大人への第一歩がここにある。ジョエルは他の人に(例えば昔いじめたいとこのルイーズに)優しくしてやろう、と決意する。
(コメント)
(1)
幼いジョエルが子ども時代と決別し大人になる瞬間を書いた作品、と言われるが、大人になってもそこが暴力的な世界であることに変わりはない。それでもジョエルは立ち上がり、人生を引き受ける。子どもの無垢にこだわるのは、例えば大江健三郎がそうだ。大江は自身無垢の世界を有しつつ、大人として成熟し、他者を生かす存在となった。
子どもは無垢で美しいか? については議論がある。「子ども」「童心」を発見したのは近代のある時期だという。西欧ではルソー『エミール』がある。日本では鈴木三重吉の『赤い鳥』がある。子どもにもいじめがある、とはリアルな現実だが、これも、大人の世界の歪みの反映だとも言える。人性は本来悪であるから人為的に礼楽を学ぶべきだ、と荀子は言った。人性は本来善だからあなたも頑張れ、と孟子・朱子・王陽明らは言う。但し学問は要らない、と言い始めると独善に陥る。ある種の神道は、人間は本来「清く明らけく直き心」を有しているとするが、ここでも他者理解(学問)を欠いた自己肯定は独善に陥る。キリスト教は傲慢を戒める。仏教で「本来仏性を持つ」と言えば励みになるが「だから修業は要らない」と独善に陥ることもある。他力浄土門は罪の自覚から出発する。
子どもは無垢で美しい、と声高に言いたくなるのは、子どもを傷つける大人の世界が残酷だからではなかろうか。作者・カポーティは、繊細な感受性を持ち人一倍傷つきながら過ごしてきたのではなかろうか。
(2)
カポーティは同性愛者だった。本作にも同性愛・トランスジェンダーが出てくる。本作のラストは、同性愛者のラドクリフさんの呼びかけにジョエルが応えようとしているとも読める。活発な少女アイダベルは男の子のようであり、家出先で出会ったミス・ウィスティーリアに恋をする(ようにジョエルには見える)。ジョエルは冒頭近くで声変わり前のソプラノの声で歌う。異性愛はズーの例でわかるように極めて暴力的で恐ろしい。しかしキリスト教道徳の強い世界でカポーティは生きづらかっただろう。カポーティは後年同性愛者であることを逆手にとってマスコミに露出するが、内心はどうであっただろうか。
日本では、江戸時代の井原西鶴の『好色一代男』『男色大鑑』を読めば、当時同性愛は至極普通だったと実感できる。武士は衆道(男性同性愛)が当たり前だった。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』にも学生寮で薩摩出身の男たちが同性愛にしのんでくるので困った、と書いてある。明治以降に西欧近代・キリスト教道徳の影響で、同性愛は日陰の存在となった。有名なのは折口信夫と三島由紀夫。今日やっと明治以降の迷妄・偏見を脱し「私はLGBTQです」という発言が「私は関東の出身です」「ああそうですか、それもいいですね」というのとあまり変わらず受け止められるようになりつつある。(なりつつあるのであって、まだ偏見を持った人もいる。)
西欧のキリスト教道徳の世界では、長く同性愛者は苦しんできたはずだ。ジッド、プルーストらが同性愛で有名だ。旧約聖書に「同性愛の町、ソドムは神によって滅ぼされた」という話が人口に膾炙している。だが・・・
新約聖書ユダの手紙1章7節や創世記19章のソドムの滅びの所をよく読むと、男色ゆえに滅ぼされたとは限らない、それを男色ゆえとしてしまったのはアウグスティヌス『神の国』であり、これが後世の解釈を決定してしまった、という学説がある。(辻学「「ソドムの罪」は同性愛か」(『関西学院大学キリスト教学研究』1999. 2. 5-18)など。)イスラーム教学でも、ゲイを広言しLGBTQのための活動をしているイマームたちも存在する。(青柳かおる「イスラームの同性愛における新たな潮流̶̶ ゲイのムスリムたちの解釈と活動 ̶̶」比較宗教思想研究 第21輯、新潟大学大学院現代社会文化研究科比較宗教思想研究プロジェクト、2021年3月など。)
但し、カポーティ文学=男色者の苦しみの文学、と一義的に還元してしまうのもおかしい。カポーティ=南部の文学、と一義的に還元してしまうのがおかしいのと同様に。カポーティはカポーティだ。子どもの傷つきやすい心から見た世界を描き、そこから何とか大人への一歩を踏み出そうとした、本作は22歳のカポーティにとってそういう作品だったのではなかろうか。その後の彼の生涯は依然苦しくバランスを欠いたもののように見えるけれども・・・
(3)
全体に不気味な雰囲気が漂っている。スカイリズ・ランディングの屋敷が沈むのは、ポーのアシャー館の崩壊のイメージが重なる、と河野一郎は言う。ポー、ホーソーン、メルヴィルとつづく暗黒ロマン主義の系譜にあるということだろうか。