James Setouchi

 

今村翔吾『海を破る者』文藝春秋社2024(令和6)年5月

 

1        今村翔吾 1984(昭和59)年京都府生まれ。作家。作品に『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』『童の神』『八本目の槍』『塞翁の楯』『じんかん』『幸村を討て』『戦国武将伝』『海を破る者』

 

2      『海を破る者』

(1)    基礎知識

河野氏:伊予の豪族。河野通信(みちのぶ)のとき平安末の源平の合戦の壇の浦の戦いで水軍を率いて源氏の勝利に貢献し、北条氏に次ぐ貢献として有名になった。承久の乱では朝廷側に与し弱体化。河野通有のとき元寇で活躍し勇名を馳せた。室町期は伊予の守護大名として格が高かったが、内紛や外部の干渉で弱体化していった。本拠は松山北部の河野郷(善応寺という巨大な菩提寺がある)だが、本作の時代には松山平野に本拠地がある。(その後の松山城の加藤嘉明(よしあきら)や松平氏とは別の存在。)

 

河野通有(みちあり):1250?~1311?:伊予の豪族。鎌倉幕府の御家人。前出の河野通信は北条時政の娘を妻とし、その子孫が河野六郎通有。元寇で活躍する。河野氏中興の祖。

 

一遍上人:1239~1289(時宗のサイトによる):他力浄土門の僧。踊り念仏を創始した。時宗(じしゅう)の祖。河野氏の出身。松山の道後温泉の近くにある宝厳寺(ほうごんじ)で生まれた。なお、時宗の総本山である藤沢の清浄光寺には敵味方供養塔(怨親平等碑)がある。敵味方の区別なく供養するのである。靖国神社(明治以降の帝国主義の産物)は「味方」しか祀らない。

 

元寇:1274(文永11)年10月と1281(弘安4)年7月に元(フビライ)の大軍が対馬・壱岐・北九州などに押し寄せてきた。前者文永の役は蒙古・高麗の兵28000人が来たがいわゆる神風で敗退。後者弘安の役は東路軍(蒙古人、漢人、高麗人)4万人、江南軍(旧南宋の軍)10万人で押し寄せたがこれもいわゆる神風で壊滅したと言われる。その過程で本作の河野通有らが防衛戦で活躍した。外交交渉の過程、元の意図などについても各種の論考があり深く考察すべきであるが、軍国主義の時代には元寇は「日本は神国、神風が吹く」の狂信的ナショナリズムに利用された。

 

竹崎季長(すえなが):1246~1324?:肥後(熊本)の出身。鎌倉幕府の御家人。元寇で活躍する。『蒙古襲来絵詞』に活躍が描かれている。

 

フビライ:1215~1294:モンゴル帝国第5代皇帝。元王朝初代皇帝(世祖)。都を大都(今の北京)に移し、ユーラシア大陸を覆う巨大帝国を実現。元は実は商業・交易国家であり、日本に何度も使者を送ったのも海上交通を押さえ南宋を包囲するためだったと言われている。

 

北条時宗(ときむね):執権在位1268~1284:鎌倉幕府第8代執権。若くして執権になった。元の使者を何度も処刑したことは外交交渉としては適切な対応ではなかったと言われても仕方がない。南宋から来た禅僧たち(元を嫌っている)の影響を受けていたのだろうか。為政者はどのようなブレーンを持つかで政策が大きく変わってしまう。

 

高麗:918年建国。13世紀にモンゴルに支配された。抵抗した三別抄の乱も1273年に鎮圧された。元寇では侵略軍を構成した。明の勃興と元の衰退の中で高麗は1392年滅亡。

 

キーウ(キエフ):キエフ公国の都。1240年にバトゥの率いるモンゴル軍に占領された。現在ウクライナ共和国の首都。

 

(2)      あらすじ(ヤヤネタバレ)

 伊予の豪族、河野氏。源平の合戦では貢献し源頼朝に褒められたが、承久の乱で朝廷側に与し衰退していた。同族の中で内紛が絶えない。そこに河野通有というリーダーが登場する。河野氏内部の紛争を収め、市場を盛んにし、船を建造し、奴隷として売られてきた青い目の令那(キーウの出身と後でわかる)と高麗人の繁(ハン)を友として大切に扱い、反抗する大祝家を許すことで味方につける。元寇の弘安の役では有名な後ろ築地(防御壁の前に出て布陣)で活躍、さらに船を操って元の船に乗り込み戦果を挙げ、勇名を馳せた。竹崎季長とは力を合わせた。その後・・

 

 一遍上人は河野通有の従兄弟だ。一遍は諸国を行脚しながら踊り念仏を創始する。一遍と河野通有の対話の中で、「元は何のために侵攻してくるのか」「人間は繋がれるのか」「救いはどこで実現されるべきか」など重要なテーマに触れる。

 

(3)      コメント(ネタバレします)

 河野通有は後ろ築地(後ろ陣地、とも)や、少数で元の軍船に奇襲をかけ戦果を挙げたので有名だったが、本作ではそれ以外の面から人物を解釈している。河野氏内部のもめごとを、人を許し信ずることで解決する。キーウから来た青い目の令那や高麗人・繁に対しても、人間として友情を育む。敵対する大祝(おおはふり)家に対しても許すことで信服させ味方につける。これが河野通有のやり方だ。元の襲来に対して、河野通有が取った秘策は・・!? 

 

・・・元軍を構成するのは高麗の兵だ。河野通有はあえて防御壁の前に出て、高麗兵たちに対し、高麗語で「他人のための戦をするな。我らは高麗人と争うつもりはない」と呼びかけたのだ。これがどれほど功を奏したかはわからないが「こちらの想いと願いは、確かに伝わっていると見て間違いはない。」と語り手は記す。志賀の島で元軍の船に奇襲をかける際には、大将を生け捕りにし、高麗語で投降を呼びかけ、敵兵を海に逃がしてから軍船を破壊する。最低限の犠牲で侵攻を阻むのだ。台風で元軍の船が壊滅し兵士たちが溺れているのを見ると、河野通有は救出のため船を出す。「一人でも救え! それが河野の戦だ!」(そのため通有はあとで幕府からおとがめを受ける。)

 

 河野一族は、人を信じず骨肉の争いをする一族ではなく、人を信じて共に生きる一族へと変貌したのだ。そのきっかけの一つが令那と繁の存在だ。異国の出身で言葉がわからなくとも、共に生きる中で人間として繋がり信頼し合うことができる。その実感をもとに河野通有は偉業を成し遂げた。令那と繁については、決戦前に、商船に頼み込み、外国(令那の故郷)へと逃がす。通有の目には、令那たちが「海を越え、海を破り、辿り着いて」いるはずの、はるかユーラシア大陸の西、令那の故郷のキーウの石造りの門が見えていた。

 

 作者・今村翔吾の筆は以上の如くだ。敵の大軍を戦闘行為で撃退した勇猛果敢な武将、というだけではない。人を信じ人と人とが繋がれることを信じたリーダーという側面を膨らませて造形している。どこまでが事実でどこからが虚構かは知らない。一遍上人や繁、また令那たちとの対話でも、「どうして元は侵攻してくるのか」「恐怖からか」「日ノ本はどうして高麗を救援しなかったのか」「西日本は防衛するのか」「大三島の神はもともと朝鮮半島の神ではないか」「人は言語や肌の色の違いを越えて繋がれるはずだ」「身内が裏切ることもある」「自分が裏切ることもある」「ではどうするのか」などの問いが出され、その答を、上記の河野通有の行動に作者は込めたと思われる。

 

 ロシアがウクライナに侵攻し、イスラエルとハマスの戦闘、あるいは某超大国がある国に侵攻するかも知れないと言われている今日、ではどうすればよいかを考えさせられる一冊ではある。(注1)文章は読みやすく小説として爆発的に売れる可能性がある。蒙古襲来は一歩間違えば「国難だから挙国一致で軍拡して対応を」と単純化して語られる危険性のあるテーマだ(実際軍国主義の時代にそういう例として利用された)が、本作はそうではない方向に書き上げている。軍功ばかり追求する竹崎季長(好人物として描かれているが)との対比でこれは明かだ。また一遍上人が踊り念仏を創始した動機も語られている。極楽浄土は彼方にある。だが踊り念仏で人々はこの世の幸福を実感できる。

 

 強いて言えば、一遍の思索の深まり(資料がないから難しいのだが)、当時の国内情勢(戦争をすれば経済つまり国民生活が疲弊する、また鎌倉の北条時宗の動き、日ノ本としての一体感の由来、日本国は神国という虚構の由来)および国際情勢(元は商業国家、南宋との関係、ベトナムなども含め)なども深掘りすればよかった(陳舜臣ならそれをやる)が、それをすると高度で難解なものになるので、作者はあえて読みやすくするため取捨選択したのだろう。作者の狙いは成功している。多くの人に読んでほしい。

 

(注1)各種平和論を参照されたし。戦争に対しては対処療法と根治療法がある。最近は軍産官学政の複合体があちこちにできているので、それをなくす方向で努力するといいのでは。

 

お断り:一部間違いを書いていましたので修正しました。失礼しました。R6.7.28