James Setouchi
森鴎外『舞姫』(明治) (正・続あり)
(正)
森鴎外『舞姫』は高校3年の現代文の教科書の定番教材だ。新課程の文学国語でも扱う。が最近は高校で扱わない場合も多いと聞く。理由は、『舞姫』の雅文体を読む力が今の高校生にない、多少古文の読める進学校でも受験を優先してしまう、新課程では単位の関係で論理国語と古典探究を取れば文学国語が取れない、といったことになりそうだ。これは実に残念だ。単なる受験勉強では得られない価値あるものを『舞姫』では学ぶことができる。
鴎外は明治大正期の作家・医師・軍人。1862(文久2)年石見(島根)の津和野の生れ。1922(大正11)年没。長州陸軍軍閥に属し、東大医学部に学びドイツ留学、帰国後文学・医学などで戦闘的啓蒙を行う。陸軍軍医として出世した。代表作『舞姫』『阿部一族』『渋江抽斎』など。
若き鴎外は、ドイツに留学し、エリスという女性と実際に出会い、帰国後結婚するはずだったが、周囲の反対で結婚できなかった。その事件が『舞姫』に影を落としているとしばしば言われる。
『舞姫』の主人公・太田豊太郎は、鴎外に似ているが少し違う人物だ。太田は役人となり役所の命令でドイツに留学し法律を学ぶことになる。やがてベルリンの裏町でエリスという貧しい踊り子と知り合う。真面目な太田は、遊興好きな周囲の陰謀によりかえって不品行とレッテル張りされ、免職になってしまう。太田はベルリンの裏町でエリスとともに暮らし、太田は新聞社の通信員、エリスは舞台ダンサーをしながら、少ない収入を合わせて食いつなぎ、「憂きが中にも楽しき月日」を送る。この間太田はジャーナリストとしてヨーロッパに関して一種の総合的な見識を有するに至った。
やがて明治21年の冬、旧友・相沢が実力者・天方伯爵とドイツにやってきた。相沢は有能なエリート官僚だ。相沢の紹介で太田は天方の知遇を得、帰国と出世の道が開けそうだ。相沢は太田に①能力を示して天方の信用を勝ち取れ。②エリスとの関係は慣習・惰性から生じたものであって、「人材」を知っての恋ではないから、関係を断て、と助言する。太田は自己決定ができないまま、結果として太田は相沢の助言通りに動いてしまう。太田は混乱の中で、エリスとお腹の子をドイツに残し、相沢の言うがままに日本へと向かう。
日本へ向かう汽船がサイゴンの港まで来たとき、太田ははじめて己の数年間を振り返り、帰国の道を開いてくれた相沢に感謝しつつも、相沢を「憎む」一点の心を自覚する。
引っ掛かって読むべき所はいくつもある。
ここでは一点のみ注目しよう。相沢は太田に、エリスとの関係は「人材を知りての恋」ではないから「断て」と言う。有能な官僚の世界を生きる相沢にとっては、下町出身の貧しいエリスは、有望な青年が正当に関係する(結婚する)相手ではなかった。留学先で出会った女にはお金を渡して別れればいい、と考えていた。そういう考えの男は当時多かった。在ベルリン日本人留学生たち(相沢らと共に彼らが帝国日本を建設する「人材」となる)の多くもそうだった。
「人材」(ここではエリスの家柄、あるいは太田の才能・使命という程の意味だろう)として価値がない、としてエリスは切り捨てられた。太田の、相沢に対する違和感の一つは、ここだ。太田は、相沢的価値観(帝国日本建設に重きを置く価値観)に対して違和感を持つが故に、「相沢を憎む一点の心」を持つ。今、エリスとお腹の子をドイツに残して帰国の途にある太田には文明の象徴たる巨大な客船の晴れがましい白熱電灯も、空しく空虚なものと感じられる。太田はベルリンの裏町に大切な忘れ物をしてきた。
国家や出世や才能や家柄や民族からも自由なベルリンの裏町で、エリスと肩を寄せ合うようにして生きた日々。そこでは太田は愛と自由とヨーロッパの根本精神に触れえていたかも知れない。だが、その価値を相沢たちは理解せず、いや太田自身がその価値の実感は摑んでいても本当には論理化できていず、ベルリンで貫徹することもできなかったし相沢に反論することもできなかった。このままでは、帰国後の太田の人生は空虚なものとなるであろう。いや、帝国主義のシステム下にある人々のあり方自体が空虚なのだ。
人間として大切な何かを踏みにじったまま、相沢(そして天方も)的官僚に主導されて大日本帝国は富国強兵殖産興業にして民の幸薄い表面的文明化西洋化路線をひた走った。それは帝国主義システムが崩壊して高度成長システムに移行しても同じだった。二つのシステムを通じて「人材」ではないエリスは踏みにじられ無視され捨てられ続けた。太田は人間的な生を選ぶことができなかった。相沢は人間的な生の何たるかを理解しなかった。日本全体が大きな誤りに陥っていた。私(あなた)が踏みにじってきたものは何か? ではどうすればよいか? 明治以降の近現代140年のシステムを相対化し私(あなた)の生き方を社会のあり方を問いかける射程を持った作品だ、『舞姫』は。サイゴンで手記を書き終えた太田は(『舞姫』を読み終えた私(あなた)は)、すでにこのことに気付いた。では、太田は(私やあなたは)、どうするのか。
グローバル化する世界の中で時代社会を問い人間の生き方を問う『舞姫』は、『こころ』と並び、世界文学の一冊として推薦するに足る作品である。
(補足)
ベルリンの裏町での太田の読書:太田は免職以前からベルリンの大学の自由な風に触れ、法の根本精神(法の哲学)からヨーロッパの歴史、文学に既に興味が深化していた。太田はショーペンハウエルやシラー(ヘーゲルやゲーテのような国家・権威主義ではなく)を読んだ。免職後「ビヨルネ(ベルネ)よりもハイネを読んで思想を構築した」とはどういうことか。ビヨルネもハイネもパリ7月革命後のフランスに亡命してそこから封建ドイツを批判した人だ。太田も封建的な帝国日本からドロップアウトして、自由なベルリンの片隅から、封建的な帝国日本を批判し続けた、と読める。昔の研究者にこの解釈はすでにある。
(『舞姫』続き)
太田が相沢によって踏みにじられたものは何か。それを言うためには、相沢の思想をまず理解する必要がある。相沢は、太田にエリスと別れよ、と言う場面で、①お前をかばいはしない。能力を示せ、②エリスは「人材」ではないので、別れよ、と言った。①からは、能力主義、成果主義、功利主義であり、心情の純粋さ(あるいは人間の努力それ自体)を尊ぶ価値観の持ち主ではない、とわかる。親友なら「伯爵、太田はいいやつなのです」とかばうはずではないか。②は前述したとおりで、帝国建設のための「人材」であることが最優先で、男女の愛情などに価値を置いてはいない、ということがわかる。こういう世界観の持ち主が明治帝国を作った。天方伯爵も同様であるに違いない。太田の価値ある「学問」の価値を自分にはわからない、君は「語学」(通訳)だけで「世の役」に立てばよい、と天方は切り捨てている。
対して、太田が踏みにじられたものは何か?
そのためには、「憂きが中にも楽しき日々」の内実を見る必要がある。
①太田に相談せず相沢がエリスに一方的に別れを告げてしまい、結果としてエリスと太田との幸福な日々は踏みにじられた。多くの人はまずこれを言うだろう。だが、それだけではない。
②ベルリンの裏町で太田がエリスと共につかみかかっていたものは、何か。大日本帝国の官僚システムから自由なポジションで、ドイツのジャーナリズムに学び、政治・学芸などについて総合的な見識を持ち、日本に向けて発信し続ける生活を太田はしていた。それを支えたのはベルリンの大学アカデミズムで歴史や文学を深く学び「一隻の眼孔」を持ち得ていたからだ。太田は近代国家の理性と力の世界ではなく、中世ヨーロッパの匂いのする教会の前でエリスと出会い、理性ではなく感性、権力ではなく愛、を大切にする日々を過ごした。免官され官僚としてドロップ・アウトしたことで「自由」となった。エリスとの「愛」を紡いだ。
ナポレオンがヨーロッパに広めた近代の自由と平等の精神がドイツにも届き、またそれを生み出し・そこから生まれたヨーロッパの歴史と文学の精神(ここはヨーロッパの歴史と文学に詳しい方に教えを乞いたいところだが、作中からは、理性でなく感性、国家の権力でなく男女の愛、に重きを置く精神、と読める)に、太田は手が届きかかっていたに違いない。(太田の読書傾向を見よ。ゲーテとヘーゲルでなく、シラーとショーペンハウエルだ。国家の権威と権力に重きを置くのではなく、より私的なロマンティックな感情に重きを置く。)それらを踏まえた上で最新のヨーロッパのビビッドな息吹を日本へと伝える。それは、かつて封建ドイツから自由なパリに亡命し封建ドイツを批判し続けたハイネやビヨルネ(ベルネ)の営みと共通している。(「ベルネよりもハイネを読んで思想を構築した」とは。ベルネの方がより政治的で、ハイネの方がより浪漫的だったとされることから、太田は政治的ではなく自由と愛をロマンティックに求めたということか。)
この太田の「楽しき」日々、自由と愛の日々を、相沢は踏みにじった。ひいては、自由と愛の精神を日本に届け日本を自由と愛の精神に満ちた社会にする可能性を、相沢は(つまりは天方伯爵は)切り捨てた、とも言える。明治帝国は表面的な西洋化をすればいいのであって、西洋近代を生み出した根本精神など要らない、とするのが相沢と天方の立場であったに違いない。太田はここまで言語化できていない。サイゴンの港で己れの五年間を振り返り「相沢を憎む心」を明確化したとき、太田が(近代日本が)手に入れるはずだったが切り捨てられたその内容が、今や太田にはロゴス化できそうなものとしてギリギリ見えてきかかっていたに違いない。
太田はこの後どうするのか? 日本に帰り、(鴎外と同様)「戦闘的啓蒙」に乗り出すか、ドイツのエリスとお腹の子のもとに戻るか。それは本文に書いていない。
太田の手記には「明治21年の冬は来にけり」と年代が明確に書き込まれている。明治22年は憲法発布、23年が第1回帝国議会。大日本帝国が形式を整えるその前夜に太田はおそらくはその調査のためにドイツに派遣され、「法の根本精神こそが大事だ」と上司を批判し、上司に憎まれた。ひるがえって、ここで「法の根本精神」とは何か? ドイツ帝国を形成する上からの目線の精神ではない。太田とエリスを生かす精神、自由と愛の精神であるに違いない。再び言うが、それは、ヨーロッパの歴史と文学に淵源を持ち、フランス革命において具現し、ナポレオン戦争においてヨーロッパに拡大し、その過程でドイツ(の帝国ではなく民間ジャーナリズム)にも及んだ精神であるに違いない。エリスとお腹の子を踏みにじって恥じないのが帝国の官僚・相沢だ。対して、エリスとお腹の子を踏みにじることだけは断じて許さぬ、とするのが新生・太田の立場であるべきはずだ。
ドイツ帝国も、エリスを捨てて恥じない人々によって強国となった。シャウムベルヒを見よ。エリスの母は夫を亡くし貧しさゆえに錯乱し一時はシャウムベルヒの意に娘を従わせようとする。エリスの母もまたドイツ帝国の犠牲者なのだ。ベルリンの街の二重構造は作中に明確に取り入れられている。
当時はペテルブルグ(『罪と罰』を見よ)、ベルリン、パリ(『ゴリヨ爺さん』『居酒屋』を見よ)、ロンドン(『デイヴィッド・コパフィールド』を見よ)、シカゴやニューヨーク(アメリカは南北戦争)、そして東京(『三四郎』にも「崖の下」の世界への言及がある)も、帝国の体裁が整い富裕層は表通りにいるが、貧しい人々は裏町に暮らし非人間的な生活を強いられた。それが帝国主義諸列強の真実だ。このことに気付き異議申し立てをするべきだ、という問題意識に『舞姫』は読者を誘う。
(注)ビスマルクの「飴と笞」の政策は、実際にはそうではなく、資本家や地主を優遇し、労働者の安い賃金から保険料をプールして充当する、「いわば笞と笞」の政策ではなかったか、という論者がいる。首肯できる意見だ。
*ここでは先行研究を逐一明示していないが、先行する多くの研究者・評論家諸氏の論考があってそのおかげで考察が深まったことを感謝申し上げます。