James Setouchi

 

R6.4.30マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の抄訳版(鈴木道彦・編訳)

   Marcel Proust 〝A la Recherche du Temps Perudu〟

 

1        マルセル・プルースト1871~1922

 フランスの作家。『失われた時を求めて』で有名。パリ近郊の生まれ、父親は医学者でパリ大学教授。母親は株式仲買人の娘で、ユダヤ系。(プルーストはカトリックの幼児洗礼を受けた。)病弱で、父親の故郷イリエ(パリの西方100キロメートルほどのところにある田舎町)にしばしば滞在。そこには父親の親族である伯母らがいた。青年期には文学、ブルジョワ、貴族など各種サロンに出入りした。ロベール・ド・モンテスキウ伯爵とも交わる。ラスキンの翻訳やサント=ブーヴ批判の文章を書いたりしていたが、1913年から『失われた時を求めて』の執筆・出版を行う。大幅な加筆・訂正を試み、1922年未完のまま永眠。(集英社世界文学全集巻末の鈴木道彦の解説ほかによる。)

 

2 『失われた時を求めて』(鈴木道彦・編訳の抄訳版。集英社文庫で3冊)

 プルーストの『失われた時を求めて』は傑作と謳われているが、とにかく長く、手がつかない。そこで鈴木道彦訳の集英社世界文学全集の『コンブレー』『スワンの恋』を読んだ。難渋したが『スワンの恋』は面白く(初心者はここだけ読むのでもいいのでは?)、続きも読んでみようと思った。但し全訳はまだ無理なので、この鈴木道彦・編訳の抄訳をまずは読むことにした。この抄訳版のねらいは、鈴木自身によれば、『失われた・・』全体の構成を浮き上がらせる、好みの断章をじっくり味わって貰う読み方にも堪える、明快なプルースト像を作る、の三点にあり、さらに全文を読むことに誘おう、というものだ(「まえがき」による)。とりあえず流し読みをした。全然分からないところもある。が、上記のねらいは達成できている本だと感じた。次は(吉川一義・訳の岩波文庫全18冊版が入手できそうだが、ハードルが高そうなので、)高遠弘美・訳の光文社文庫版の訳が出そろうのを待ちたい。だが、プルーストではないが、「間に合うのであろうか」?(Ⅲ422頁)。

 

(1)      登場人物(ネタバレします)

語り手:19世紀末~20世紀初めの、フランスの恐らくは高級官僚でブルジョワの子。幼時は病弱で家にばかりいて祖母に溺愛される。思春期以降、少女たちとの交遊が始まる。社交界に出入りする。感覚が鋭敏で想像力が豊か。文筆家を志しており、変遷の後「失われた過去」を言葉で取り戻す作品を書こうと決意するに至る。*身もも蓋もない言い方をすれば、病弱ゆえばあちゃんに大事にされすぎて家にばかりいる「お大事子」で、妄想癖のある人物。家が「上級国民」で友人も名門の一族なので社交界に出入りしては女性の尻を追いかけているが、基本的に「自分大好き」人間で自分の世界に浸ってばかりいる人物。現代の言葉で言えば引きこもりがちオタクでボッチ君の元祖。*「あなたは何もしていない」と誰かが批判してきそうだ。だが、「何もしていない」わけではない。ラスコーリニコフ(『罪と罰』)ではないが、語り手は「感じること、考えることをしている」のだ。感受性が強すぎるのだろう。そういう人は殺伐とした競争社会では生きにくい。だが、殺伐とした競争社会が正しい社会のあり方ではないし、つまらない競争(例えば軍事・経済のそれ)に従事して自己への反省もなく弱者を踏みにじるだけが人間として正しいわけでもない。語り手のような人もいていいし、それどころか、つまらない競争主義者どもと比べれば語り手の方がよほど価値ある生き方をしているようにも思える。(もちろん、それを支えるのは「上級国民」である親の階層と富だ。そこへの切り込みはまだ甘いわけだが・・)

スワン(シャルル):語り手の別荘のあるコンブレー(フランスのイリエをモデルとした架空の村)の近所に住む富裕なユダヤ人。上流階級と親交がある。

オデット・ド・クレシー(スワン夫人):スワンの妻。高級娼婦出身。ジルベルトの母。

ジルベルト・スワン:スワンの娘。語り手の最初のガールフレンド。のちにロベールと結婚する。

フランソワーズ:語り手の一家の召使い。コンブレーからパリまで語り手のそばにいた。

ヴァントイユ:コンブレーのピアノ教師。後に大作曲家と呼ばれるようになる。その娘は同性愛者。

ロベール(サン・ルー侯爵):語り手の友人。名門ゲルマント一族の一員。ジルベルトと結婚する。実は同性愛者。

ゲルマント侯爵夫人(オリヤーヌ):名門ゲルマント一族の夫人。サロンを開いている。語り手は夫人に憧れる。

ゲルマント大公夫人(マリー):名門ゲルマント一族の夫人。パリの社交界の花形。侯爵夫人とは別人。

シャルリュス男爵(パラメード):名門ゲルマント一族の一員。謎の人物だがやがて同性愛者とわかる。

アルベルチーヌ・シモネ:語り手がバルベック(フランスのノルマンディ海岸のカブールがモデルの架空の土地)で出会った少女。出身は貧しいが高級官僚ボンタン夫妻に養育される。語り手の恋人になる。実は同性愛者だった。

アンドレほかの少女たち:アルベルチーヌの友人。

エメ:バルベックのホテルの給仕長。

カンブルメール侯爵夫人:バルベック近郊に住む。スノブ。

ジュピヤン:パリのゲルマント邸の一角に住む仕立屋。同性愛者。

オロロン嬢:ジュピヤンの姪。許嫁のモレルに捨てられ、シャルリュス男爵の養女(つまり名門ゲルマント一族の一員)になり、カンブルメール侯爵家に嫁す。

モレル:バイオリン奏者。父親の身分は低い。

ヴェルデュラン夫妻:ブルジョワ。夫人はサロンを開いている。学者やブルジョワが出入りする。名門の貴族から見ると格下の人々。スワンはかつてこのサロンでオデットと激しい恋をし、捨てられた。

ブロック:語り手の友人でユダヤ人。

ラシェル:元娼婦。ロベールの愛人。女優として成功。

ラ・ベルマ:大女優。

ベルゴット:大作家。

エルスチール:大画家。語り手を絵画表現について啓発する。

コタール:高名な医師。

 

(2)      コメント(読みの助けになるかも知れないいくつかのコメント)

・文が長く読みにくい。(『源氏物語』以上だ。)今の若い人にはまず無理だろう。覚悟した上で読む。

 

・全体の構成は、ある。抄訳版のおかげでわかった。語り手が祖母と共に幼少期を過ごしたコンブレーの家から道は「メゼグリーズの方」と「スワン家の方」に分かれ、そこで二つの世界(に住む人々)と語り手は出会っていくが、この二つはやがて一つにつながっていく。

 

コンブレー(田舎)、パリ、バルベック(海岸)の三極構造がある。

 

・「スワンの恋」で語られたスワンのオデットへの激しい恋情は、やがて語られる語り手のアルベルチーヌへの恋情と相似形のようだが異なる形をしている。

 

・謎の人物シャルリュス男爵は、後半で実は同性愛だったと明らかにされる。名門ゲルマント一族の一員でありつつ、年老い、同性愛故に若い男を求めて、空襲下のパリの裏町を彷徨う姿は、強烈な印象を残す。

 

ドレフュス事件が描き込まれている。第一次大戦の状況もあり、ナショナリスト対そうではない人々、反ユダヤ主義者対そうではない人々、の対立の構図が描かれる。ドレフュス、スワン、ブロック、ラシェルはユダヤ人。プルースト自身は、母親が富裕なユダヤ系。

 

第一次世界大戦(対ドイツ戦争)については、空襲下で兵隊帰りの若者たちがドイツ人の悪口を言う場面を書き込んでいるが、語り手自身は直ちに熱狂的愛国者で主戦主義者いうわけでもないようだ。

 

同性愛が描かれている。当時のヨーロッパでは同性愛は御法度だったろう。プルースト自身は同性愛者だったと言う。シャルリュス、アルベルチーヌだけでなく、同性愛者が実は大勢いたことが明かされていく。サディズムやマゾヒズムについても描写がある。この点、若い人にはどうかな。大人が読む小説

 

・19世紀末から20世紀初めのフランス社会の変容が描かれる。語り手にとって限りない憧れの対象だった名門ゲルマント一族など名門の高級貴族たちが没落し、新興ブルジョワ階級や新しい学問・技術を持った人々が台頭していく。旧勢力はなすすべもない・・・語り手は新しい時代の到来を喜んでいるのか、それとも消えゆく旧勢力に限りない愛惜を注いでいるのか・・・?

 

・描写が極めて細やか。語り手は感覚が鋭敏。これを非常に長いセンテンスで長々と記述する。が、はまるひとははまる。

 

・語り手は想像力が極めて強く、自然や文物や恋人について強烈な幻像を持つ。幻視能力があると言ってもよい。モノは、ただのモノではない。過去に想像したモノ、過去の自分が見たモノ、それらのイメージが重層的に重なっている。語り手はそうとらえている。その説明も長い。(この説明は不十分だ。プルーストを本格的に研究しなければ本当のところはわからないだろう。)

 

考察が独特。絵画、音楽、文学、時間、都市のイメージ、恋愛の感覚、自己自身、幸福感、読書などなどについて、独特の考察をする。哲学的エッセイと言ってもよい。特に自己自身についての考察はしつこいほどだ。私には読解しにくい箇所も多々あった。これらが当時のフランスの哲学・思想や心理学の言説から見てどうであるかは知らない。語り手の独特の考察は、最後は語り手を「書くこと」へと駆り立てる。

 

自我へのこだわりが強い。こんな世界に住んでいたら、東洋文化に憧れ、自己放下して自然と一体化したい(例:川端茅舎「ぜんまいののの字ばかりの寂光土」、尾崎放哉「せきをしても一人」)と誰かが思っても仕方がないと感じた。だが、それは特攻を生む思想だからダメなのだが・・

 

社交界の虚飾が描き込まれる。高級貴族の世界は一見華やかだが内容は空疎だ。他方、成り上がってきたスノブたちのやることも、空疎だ。では、語り手にとって真にリアルな、生きている実感を感じさせてくれるものは、何であるのか?

                                  

(フランス文学)ラブレー、モンテーニュ、モリエール、ユゴー、スタンダール、バルザック、フローベール、ゾラ、ボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ、カミュ、サルトル、マルロー、テグジュペリ、ベケット、イヨネスコ、プルースト、ジッド、サガンなどなど多くの作家・詩人がいる。中江兆民、永井荷風、萩原朔太郎、堀口大学、島崎藤村、与謝野晶子、高村光太郎、小林秀雄、横光利一、岡本かの子・太郎、遠藤周作、渡辺一夫、加藤周一、大江健三郎、内田樹らもフランスの文学・思想に学び多くを得た。