James Setouchi

 

R6.5.25 アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)『モンテ・クリスト伯』  

            (山内義雄 訳、集英社世界文学全集) 

     Alexandre Dumas“Le Comte de Monte-Cristo”   (フランス)

 

1        アレクサンドル・デュマ・ペール 1802~1870

 子のアレクサンドル・デュマ・フュス(小デュマ)(『椿姫』を書いた)と区別し「大デュマ」と呼ばれる。大デュマは1802年パリ北西の街で生まれた。大デュマの父はドミニカ生れ、貴族とアフリカ系カリブ人女性との混血で、将軍。ナポレオン軍で活躍するが敵に幽閉され死にかけたこともある。この父が早世し、デュマ家は窮乏、母が煙草と塩を売って生活した。アレクサンドル(大デュマ)は事務職員などをしながら文学や各種の勉強に打ち込んだ。1830年の七月革命に参加、さらに1848年の二月革命、続くナポレオン3世のクーデター、またイタリアのガリバルディの革命運動の時代に立ち会い、自らも関わった。歴史劇『アンリ3世とその宮廷』『アントニー』、虚実を交えた歴史小説『三銃士』で大成功。共作者の助けを借り(酷使し)歴史小説を量産した。その現場は「デュマ工房」と言われる。『モンテ・クリスト伯』もその一つ。プロシアーフランス戦争の始まった頃に死去。大デュマは若い頃から多くの女性に手を出し、多くの私生児を持つ。作品は面白いがそういう点は頂けない。(集英社世界文学全集の岡部正孝の解説および年譜、また三省堂世界文学大図鑑(ジェイムズ・キャントン他)の記事などを参考にした。)

 

2 『モンテ・クリスト伯』(1846年)

 マケという原作者がいると言われる。ジャック・ブシェという作家の記した『復讐のダイヤモンド』事件などにヒントを得て作った。『復讐のダイヤモンド』は、集英社世界文学全集の岡部正孝の解説によれば、『モンテ・クリスト伯』のあらすじと酷似している。この事件が事実だったとすれば、まことに「事実は小説よりも奇なり」だ。但しそれを物語として面白く脚色したのは、マケと大デュマの筆だ。

 

 『モンテ・クリスト伯』は、実に面白い。血湧き肉躍る物語。ページを繰る手が止まらない。凡百のTVドラマや映画などは消し飛んでしまう面白さ。お薦めできる。但し岩波文庫で全7巻と長い。長いものが苦手な人は、とりあえず岩波少年文庫版で読むといいのかも知れない。私は集英社世界文学全集の縮約版で読んだ。これで十分面白い。黒岩涙香は『巌窟王』の名前で子ども向けに訳した。子どもはこれから入るのでもよい。講談社青い鳥文庫も子ども向きで矢野徹訳。だが大人になるとそれでは飽き足りないので、長いものを読むといいだろう。その上で、大人としての経験から、モンテ・クリスト伯爵の世界観の是非を問うて考察することもできるはず。時代設定は、1815年から1840年ころまで。

 

(登場人物)(ややネタバレ)

モンテ・クリスト伯:本名エドモン・ダンテス。マルセイユの腕のいい漁師・船頭だったが、陰謀にはめられ地下牢で十年以上を過ごす。ファリア司祭と出会い財宝を入手、復讐の鬼となる。船乗りシンドバッドブゾーニ司祭、ウィルモア卿、サコーネなどと偽名を使う。

エドモンの父:貧しい庶民。エドモンを信じ続けるが世間から見捨てられ餓死。

ファリア司祭:地下牢に長年閉じ込められている政治犯。エドモンと父子のような信頼関係を築き、エドモンに教育を授け、財宝のありかを教える。

 

モレル:マルセイユのモレル商会の船主。エドモンを信頼しエドモンのために尽くす。

マクシミリヤン大尉:モレルの子。身分違いのヴァランティーヌを愛している。

ジュディ:マクシミリヤンの妹。その恋人がエマニュエル

 

メルセデス:エドモンの恋人。エドモンが逮捕され帰ってこないので、従兄弟のフェルナンと結婚しアルベールを生む。モルセール伯爵夫人。

フェルナン:漁師。メルセデスの従兄弟。エドモンに嫉妬し陥れる。のち富を築きモルセール伯爵となる。

アルベール:フェルナンとメルセデスの子。のち子爵。モンテ・クリスト伯と親しくなる。

 

ダングラール:モレル商会の会計士。エドモンに嫉妬し陥れる。のち富を築き銀行家・男爵となる。

ダングラール男爵夫人:初婚のナルゴンヌ氏は自死。その時ヴィルフォールと不倫しベネディットという男子を産む。再婚しダングラール男爵との間にユージェニーという女子がある。大臣秘書のドブレーと不倫。相場に手を出す。

ユージェニー:ダングラール男爵夫妻の娘。親の意向で最初アルベールと、次にアンドレア・カヴァルカンティ侯爵なる金持ちとの結婚話が進むが、本人は気乗りでない。

 

カドルッス:エドモンの隣に住む仕立屋。気が弱く人に引きずられる。のち旅館経営、さらに悪党となる。

 

ヴィルフォール:検事代理。のち検事総長に出世。自分の出世のためにエドモンを監獄に送る。最初の妻ルネは高級貴族で財産家のサン・メラン侯爵夫妻の娘。ルネとの間にヴァランティーヌという娘がある。再婚相手はエロイーズ。エロイーズとの間にはエドゥワールという男児がある。

ノワルティエ:ヴィルフォールの父親。皇帝派。身体不自由となり邸で生活しているが孫のヴァランティーヌを愛している。その従僕がバロワ

エロイーズヴィルフォール夫人実子のエドゥワールを偏愛する。

ベネディット:ヴィルフォール検事総長とダランベール男爵夫人がかつて不倫してできた子。一度土に埋められたが、ベルツッチオに助け出された。やがてアンドレア・カヴァルカンティ侯爵として社交界に現われる。

 

ベルツッチオ:モンテ・クリスト伯の手下。泥棒をしていたが偶然ベネディットを拾い育てる。モンテ・クリスト伯のために働く。

アリ:モンテ・クリスト伯の手下。

エデ:オスマン帝国のジャニナ(ギリシアあたり)のアリ・パシャの娘。フェルナンの裏切りで父を殺され、モンテ・クリスト伯に救い出された。

ジャコボ:密輸船の水夫。エドモンを救いモンテ・クリスト伯の味方となる。

ヴァンパ:ローマ郊外の山賊。人を誘拐しては身代金を奪う。モンテ・クリスト伯には忠実。

ペピーノ:ヴァンパの手下。モンテ・クリスト伯に命を助けられた。

 

(コメント)(ネタバレ)

 敵味方がはっきりしている。エンタメである。人間や社会を深く考えるのに役に立つかどうかは何とも言えない。すぐれた文学は人間もっと深く掘り下げる。一種の勧善懲悪ではある。まずエドモンがひどい目に遭う。後半で悪人たちが成敗される。だが、何が善で何が悪か? 立ち止まって考え始めると、ことはそう簡単ではない。値打ちのある文学(『罪と罰』など)なら、悪人たちにもそれなりの背景や苦悩があると掘り下げるはず。そこが甘いので、エンタメなのだ。

 

 モンテ・クリスト伯は自らの復讐を「神の御意思」と捉えている(108「出発」の章)。だが、キリスト教では、復讐は神がするものであって、人間のするべきことではないはずだ。そこはどう考えるのか。

 

 キリスト教圏でも、名誉のための決闘などは行われているし、中世、近世、近現代と戦争が続いたことから、キリスト教徒ではあるが個人や国家のレベルで復讐する(しかも神の御意思としてそれは正当化される)、という思想ないし感性も根強くあるのだろうか。

 

 松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書、2013年)によれば、私的場面でも公的場面でも非暴力を貫くのがトルストイ、私的場面では非暴力だが公的場面(罪人への罰、戦争)では暴力手段を容認するのがアウグスティヌス、私的場面では暴力の可能性を否定していないが公的場面では非暴力を貫いたのがガンディー(18~21頁)。イエスその人は、トルストイと同じだろう。十字軍をせよとはイエスは教えていない。イエスはペテロに対し武器をしまえ、と教えた。米軍の「正義の戦争」はアウグスティヌスの系譜か。

 

 ここで、個人のレベルと国家のレベルを同一に論ずるべきでない。「友人が殴られたら殴り返すだろう? だから、同盟国がやられたらやり返すのは当たり前だ」といったまことしやかな論を言う人があるが、大間違いだ。そもそも国家主導の戦争は、それで儲ける武器商人や指導者たちがいて、他方、兵として前線に送られ死んでいく一般国民がいる、国民の家は空襲で焼かれ、国民の食料・物資は枯渇する、国民は徴兵される、徴兵されなくとも貧しいから兵隊に志願する(経済的徴兵制)、それでまた働き手が死んで貧しくなる、というきわめておかしなプロジェクト(と言うべきなのか?)なのだ。友人の喧嘩とは全く違うのだ。騙されてはいけない。これを止める、あるいは未然に防止するには、いくつもの方法がある。平和学を参照して頂きたい。少なくとも戦後日本は(ざっくり言って80年間も)戦争をせずに平和を維持してきた。戦争に対しては対処療法以外に根治療法がある。埼玉と東京が戦争をするのは映画の中の話だけで、実際には戦争をしない。なぜか? 日頃から仲がいいからだ。

 

 モンテ・クリスト伯の場合は、個人的な報復なので、それに限って考えてみよう。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」というキリストの有名な言葉は、復讐するな、戦うな、という意味に解釈する人が多いはず。そうではなく、「右の頬=霊的なものを守れ、左の頬=世俗のものを犠牲にしても」の意味だとアウグスティヌスは解釈したと言う(林明弘「「右の頬を打たれたら」『マタイ』5,39についてのアウグスティヌスの解釈」川崎医療福祉学会誌vol.12 No.2 2002 241-245)が、いずれにせよ、復讐して相手を破滅させよ、とは言っていない。「霊的なもの」を守り神のコイノニアにともに集まるのが、神の願いであるに違いない。

 

 何が正義でどこから先は暴虐なのか。個人レベルで言えば、個人の上位にとりあえず国家や共同体の法秩序がある。ヴィルフォールは、検事総長として国家共同体秩序の正義を実現しようとする(妻をも断罪する)。が、妻子を失い公衆の面前で旧悪を暴露されただけでなく、まさに自己の正義の論理によって自らの過去を裁かざるを得ず、狂気に陥る。対して、モンテ・クリスト伯は、国家・国境を越えた視野と行動力を持つ。国家の方などは易々と飛び越える。彼もあるいは復讐をやり過ぎたかも知れないと苦しみ、アルベールやメルセデスに対しては生きてゆけるように配慮する。これらの結果を、伯爵はラスト近くで「神の御意思」と総括するのだ。

 

 モンテ・クリスト伯の方針は、復讐のために相手を経済的・心理的に追い詰めるが、自ら相手を殺害したりはしていない。もっとも、ピストルの扱いがうまいなど、いざとなると暴力的手段をも行使しうることを示して脅したり、また他の誰かの殺人や自死を予見しながらあえて黙過したりしている。完全な非暴力者とは言えない。相手を改心させる努力は乏しい。まことの神の目から見たら、神の掟に背いた行いであると言えよう。エドモンを追い落とした犯人たちも同じく、神の目から見れば完全に有罪である。金持ち・有力者・権力者たちがいかに隠蔽しようとも、悪は悪、罪は罪なのだ。彼らをパリの共同体(国家)の掟が裁くべきだが、この場合検事総長自身が犯罪者であって、裁くことができない。だから伯爵(国家の法を越えた存在)が彼らを裁く。

 

 では、伯爵にそれをする権利(正当性)はあるのか? それはない。ないにもかかわらず「自らは神意を受けているのだからそれを為してよい」とするのは、神の立場を僭称しているのである。ヨブの場合は神の意志によって苦難を受けた、と書いてある(旧約聖書『ヨブ記』)。伯爵の場合は、神の意志によって苦難を受けた、とは必ずしも言えない。伯爵が受けたのは人的被害だ。悪意ある人びとによる被害(当時の社会でも犯罪。偽証も隠蔽も犯罪)だ。

 

 デュマは本作をエンタメ・悪漢小説として書いているので、そんなに倫理的な問いを問うべきではなく、所詮はフィクションとして楽しめばよいのだ、と考える人もいるかもしれない。デュマは悪いこともした(例えば子ども時分先生の言うことを聞かなかった、若い頃から女たらしだったなど)、そういうデュマだからこそこの悪漢小説が書けたのかもしれない。だが、少なくともこれは道徳の教科書には載らないし、心ある小市民が範とすべき生き方とは言えない。というわけで、エンタメである、という最初のコメントに戻ってしまう。エンタメとしては面白い、しかしいかに生きるかはこの作品そのものからは学びにくい。

 

 一つだけ大事なことがある。

 

 巻末で繰り返される「待て、そして希望せよ!」だ。これは、現代にも通ずる、普遍的な言葉だ。モンテ・クリスト伯は忍耐し、十数年の歳月を経て、遂に目的に達した。

 

 だが、その「目的」なるものが、真に目的とすべき(目的とするに価する)ものであるかどうかは、やはり問われなければならない。彼は愛する若者たちを結びつけ、自らもエデと結ばれどこか遠い外国に新天地を求めて行く。ラストは安易と言えば安易。通俗小説お決まりのラストだ。もっともエデはアジア人であり、モンテ・クリスト伯は国境や民族を越えている。国民国家の枠を越える広い視野が提示されてはいる。(作者の父方の祖母がアフリカ系カリブ人だったことを想起しよう。)

 

(上記かなり混乱したのでわかりやすくまとめる)

伯爵の受けた被害:神や運命や自然によるものではなく、人的被害。当時の社会の法に照らしても偽証や隠蔽は犯罪。

伯爵は冤罪を晴らせるか? 犯人を罰することができるか?:法の番人である検事総長が犯人の一人なので、冤罪は晴らせないし、犯人を罰することもできない。

では、どうすればよいのか?:法を越えた実力を持った伯爵が自ら実力で冤罪を晴らし、犯人を罰する。これがデュマの書いたエンタメ。

だが、それは本当に神の目から見て正しいのか?:否。神は、キリスト教においては、復讐は神の仕事であって人間の仕事ではないはずだ。(ハムラビ法やユダヤの法やイスラムの法はまた違う。)