James Setouchi

 

R6.5.18 エミール・ゾラ『居酒屋』(田辺貞之助、河内清 訳)

  Emile Zola “L’Assommoir”

 

1        エミール・ゾラ 1840~1902。

 パリの貧民街に生まれる。父はイタリア系の技師、母は貧しい職人の娘。幼時から思春期まで南フランスで過ごすが、父の死で一家は窮迫、パリに移住するも進学を断念。出版社勤務等を経て作家に。バルザックの『人間喜劇』を意識して『ルーゴン・マッカール叢書』という壮大な作品を構想、『ルーゴン家の運命』『居酒屋』『ナナ』『パスカル博士』などを発表。特に『居酒屋』は賛否両論の嵐を巻き起こした。モーパッサンら若手を育てた。ドレフュス事件ではユダヤ人排斥を批判してドレフュスを擁護。『三都市』『四福音書』を創作途中、パリで没した。国葬され、国家の功労者を祀るパンテオンの地下に葬られている。「自然主義」文学の代表選手として知られる。自然科学が説得力を持った時代で、自然科学的発想を小説に持ち込んだ。文学史的には、バルザック(1799~1850)よりあと、モーパッサンより前。(集英社世界文学全集の解説(田辺貞之助)および巻末年表を参照した。)

 

2        『居酒屋』1876年発表。作者36歳。(ネタバレあり)

 いわゆる「自然主義」文学の代表。貧しい労働者一家の没落を詳細に描く。それは先祖伝来の遺伝的資質のなせるわざだ、とする見通しをゾラが持っていたとすれば、今日の知見から言えば、甚だしい誤りだ。人間を左右するのはむしろ環境(生育歴や教育の不備など)要因が大きく、かつまた不利な状況も人間的努力ではねのけることができる、だから社会政策(教育や福祉、医療)をきちんとするべきだ、ということを、今日の知見は教えてくれる。だが、この点を留保すれば、この作品は、大変読ませる、恐るべき作品だ。特に後半は、ほとんどホラーと言ってもよいくらいだ。霊魂も魔物も出てこない。だが、主人公たちが否応なく転落し悲劇的終末に追いやられていく姿のリアルな描写は、背筋がゾクゾクするほどだ。恐るべし、ゾラ。いや、恐るべし、当時のフランスの現実。

 

 時代背景は、ナポレオン3世の時代。舞台はパリの18区にあるグート・ドル街。ここはパリの北方、モンマルトルの丘も近いが、当時は貧しい職人たちが大勢住んでいたようだ。ナポレオン三世によるパリの大改造も作中に出てくる。(現在当地はパリ観光案内などでは治安が悪く犯罪が多いなどと書かれている。)作中、政治的には皇帝派もいれば貧しい労働者(職人)を尊重すべしと主張する者もいるが、ほとんどは無学な労働者で、政治・社会的知識などは持っていない。居酒屋で酔った挙げ句に気炎を上げ大笑いしたり喧嘩したりするだけだ。

 

 主人公のジェルヴェーズ(以下「G」と略記)は、南フランスの出身だが、14歳でランチエという女たらしの帽子屋に丸め込まれ故郷を出奔、ランチエと二人の子とパリの片隅で暮らす。が、ランチエは直ちに他の女と出て行く。捨てられたGは洗濯の仕事をしながら生活する。近所のクーボーというブリキ屋に見初められ、結婚。アンナ(ナナ)という娘も生まれた。この辺まではクーボーも健気に働いており、悪くはない雰囲気だ。周囲には様々な職人がいて、楽しく働き、生活している。だが、後半、Gの人生はだんだんと、そして確実に、転落し、悲惨なものになっていく。Gの人生はまさに踏んだり蹴ったりだ。

 

 夫のクーボーが屋根から転落、勤労意欲を失い、酒浸りになる。昔の恋人ランチエが現われ、酒飲み同志で夫と意気投合して同居することに。Gが努力して金を稼いでもすべて男二人が飲んでしまう。借金が重なり、家賃も払えない。世間からは、Gは男二人と同居し関係を持つふしだらな女だとの悪意ある噂を立てられてしまう。Gはどうでもよくなってくる。Gもまた勤労意欲を失い、酒浸りになり、仕事を失い、折角努力して手に入れた店も売却してしまう。巨大なアパルトマンの7階の、貧民の居住するエリアに引っ越した。家具などを質に入れて辛うじて食いつなぐが、金があれば夫のクーボーが飲んでしまう。夫は飲み仲間と居酒屋に居座り続け、帰宅すると酔って暴力を振るう。幼いナナは虐待され、かつ親の乱行から「学習」し、家出して路上の女となる。これは現代にも通ずる話だ。ランチエはこすからく他の女の所に行った。今度は別の女を食い物にするのだ。ランチエが一番悪い奴かも知れない。だがランチエは男前で礼儀正しいので近所の女性たちから悪く言われない。クーボーはアルコール中毒で発狂して死亡、Gもまた町を彷徨った挙げ句餓死していく。実に悲惨な結末だ。

 

 他にも悲惨な人々が描かれている。7階に住むブリュ爺さんは収入源がなく乞食同然。ビジャールは酒を飲んで女房を蹴り殺す。少女ラリイが幼い弟妹を育てるが、そのラリイも父親から殴られ鞭打たれ死んでいく。

 

 作中には立派な人が二人出てくる。一人は少女ラリイ。貧困、酒乱でDVの父に耐えながら、父および幼い弟妹の世話をし続ける。彼女はヤングケアラーだ。この話は現代に通ずる。ラリイは貧困とDVの中で死んでいく。もう一人は鍛冶工のグージェ。筋肉で鉄を鍛え、仕事に誇りも持ち、Gに好意を寄せる。グージェは酒浸りにならず、生活を維持している。それでも、機械化の波の中で、肉体労働者は労賃を減らされ、貧困化していく。ユゴーの『レ・ミゼラブル』も悲惨な人々(ワーテルロー以降1830年代までの)を描くが、ジャン・ヴァルジャンはヒューマンな愛と実行力を持つ。バルザックもパリの裏町(19世紀前半の)を描くが、ゾラほどではない。ゾラはパリの下町、グート・ドル街の貧しい職工たちの悲惨な現実(ナポレオン3世の統治下の)をこれでもかと描いてみせる。パリはこの時代に大改造され今の美しい都市になったが、他方では貧しい人々のこのように悲惨な現実があったのだ。

 

 下町=人情の通う町、とは言い切れない。それぞれにプライドがありつらあてがあり嫉妬があり悪口がある。多少は親切・助け合いもある。(Gもクーボーの母親、貧しいブリュ爺さん、哀れな少女ラリイには親切にする。悲惨なこの物語の中で人間の善さが輝く。)がランチェの姉・ロリユ夫人は、Gのことを嘘も交え悪口を言い続け、世間の噂を支配し、Gを追い詰めていく。人々は容易に左右される。これもネット時代に嘘情報を流して誰かを追い詰める現代の手口と同じだ。ロリユ夫人はなぜGの悪口を言い続けるのか? 恐らくは嫉妬からだろう。Gは美人で、かつ努力して周囲の信用を得、自分の店を持つまでになった。ぜひとも引きずり下ろさねばならぬ。こういう心理を近親者が持つのだ。恐ろしいことだ。

 

 どうしてゾラはこのように悲惨な労働者の現実を描いたのか? それまでフランスの文壇では高級貴族の世界を描く小説が多かったのに対して、ゾラの小説は悲惨な労働者の世界を描く。ゾラはそれを書かずにいられなかったに違いない。年譜によればゾラは貧しい階層の出身だ。ゾラの周囲にこうした人が大勢いたに違いない。それを描いた上で、ではどうするか? 致し方ないと放置するか? 何とかしたいと考えるか? ゾラはドレフュス事件ではユダヤ人のドレフュスを擁護した。ゾラには弱者をかばい差別を排し社会正義を希求しようとする心があったろう。私にはそう思える。

当時は自然科学隆盛で、これを安易に文芸小説に持ち込むと、怠惰や飲酒癖や貧困や犯罪も遺伝的に継承される、という誤った認識に陥る。ゾラもあるいはこうした過ちに陥っているかも知れない。だが、だから彼ら(貧しい人々)は貧しいままで放置してよいのだ、とはゾラは考えず、何とかしたいと考えていたに違いない。そう思いたい。

 

 ラスト近く、酒乱のクーボーは精神に変調を来し、精神病院で幻覚を見てわけのわからないことを叫ぶ。「鼠だ、鼠だ」など。だが、Gが気付いてみると、クーボーはブリキ職人として屋根に上がって仕事をしている時に鼠を見た記憶があり、それを今クーボーは意識で追いかけていたのだ。また、クーボーはなぜ酒乱になったのか? 錯乱するクーボーは、うわごとの中で、今まで決して口にしなかったことを初めて言う。Gの男(ランチエ)とGが関係を持っている、と。今まで忍耐してきたが、実は妻(G)と昔の男(ランチエ)との関係にとっくに気付いていて、見て見ぬ振りをする中で苦しみが内攻し、酒乱・精神異常になってしまったのではないか? そう読める。これは、バルザックのような皮肉なオチだ。ゾラは皮肉なオチを使わない作家かと思ったが、ここには強烈な仕掛けがあった。

 

 街に飛び出したナナはその後どうなるのか? また、Gとランチエの子、クロードとエチエンヌは? 次は『ナナ』を読むべきであろう。

 

3      現代と通ずる点

 貧困、華やかな国家イベントや技術革新の一方で切り捨てられていく人々、賃金カット、酒乱(現代ならゲーム中毒、薬物中毒なども)、DV(妻や子に対する)、ヤングケアラー、悪意ある噂、孤立、自尊感情の崩壊、勤労意欲の喪失、性的モラルの崩壊、路上売春、飢餓、孤独死・・・おお、全く現代のことではないか・・・!

→では、どうすればよいのか?