James Setouchi

 

2024.6.28ヘンリー・ミラー『ネクサス』河野一郎・訳 集英社世界文学全集 Henry Miller“Nexas”

 

1      ヘンリー・ミラー(1891~1980):

 1891年NY生まれ。幼少期をブルックリンで過ごした。NY市立大学中退。南カルフォルニアやNYで様々な

仕事に就く。1928年からヨーロッパ旅行。パリ及び郊外のクリシーに暮らす。ロスト・ジェネレーション(フィッツジェラルドやヘミングウェイら)の去った直後のパリだった。NYとパリを往還したが1940年NYに帰る。1944年以降カリフォルニアに住む。生涯で何度も結婚と離婚を繰り返した。最後の結婚相手はホキ・徳田という東京出身のピアニスト。代表作『北回帰線』『暗い春』『南回帰線』『セクサス』『プレクサス』『ネクサス』など。(集英社世界文学全集の河野一郎氏の解説・年譜などを参照した。以下の記述も河野一郎氏にヒントを得た。)

 

2 『ネクサス』1960年

 『ばら色の十字架』という自伝的巨編は三部作で、『セクサス』『プレクサス』『ネクサス』から成る。但し『ネクサス』は前半を1960年にパリで出版し、後半は書かれていない。つまり未完である。今回は集英社世界文学全集に前半の訳があったので読めた。昔は文庫でも売っていたが、今は古書でも入手しにくいかも知れない。図書館に行けばあるかもしれない。

 

 ミラーは性的な描写が多いので当時アメリカでは批判もされたという。が、この『ネクサス』はそうではない。むしろドストエフスキーを筆頭として世界の作家、思想家、画家などの名前を挙げ、語り手ヴァル(ミラーとおぼしき人物)の生活の中での思索(妄想と言うべきか)が開陳される。扱っている時代は1927年ころのNY。第1次大戦後、大恐慌前の、世界一金持ちになったアメリカだ。(貧富の差も大きい。)書いているミラーは1950年代にすでに60歳代になりカルフォルニアに住んでいる。老境のミラーが37歳頃の当時を回想して語る形だが、老人の回想という印象はなく、長く続いた青春の煩悶に読者はリアルタイムで立ち会う印象だ。本作によれば(虚構と事実がないまぜになっているだろうが)、語り手ヴァルはNYのブルックリンで妻モーナと、その同性愛の相手スターシャとともに、三人で奇妙な同棲生活をしている。ヴァルにとってスターシャは邪魔者だがモーナはスターシャを必要としている。ヴァルは作家志望だが思うように書けず、貧しい。モーナが金持ちから巻き上げる金で生活している。アメリカ文明を愚劣だと考えており、ヨーロッパ(パリ)に行きたいと考えている。文学論、なぜ何を書くのか、創造とは、人生を生きる意味とは、アメリカとは等々、様々な思索(妄想)がヴァルの中を駆け抜ける。個性的な友人たち。善意の隣人もある。ヴァルはどう変わるのか。本作はパリに旅立つためアメリカに別れを告げるところまでが前半で、ミラーはそこまでしか書かなかった。パリ時代のことは若い頃(三十代)に書いた『北回帰線』に戻ると読める。

 

(登場人物)

語り手「ぼく」(ヴァル、ヘン):作家をめざす貧しい男。四十代前。アメリカの文明を嫌っている。

モーナ:「ぼく」の妻。もと女優。「ぼく」の作家としての才能を信じ高級娼婦のような仕事をして金持ちから金を巻き上げ「ぼく」を養う。

スターシャ:モーナの同性愛の相手。画家。「ぼく」とモーナの家に同居している。

スタイマー:弁護士。「ぼく」にドストエフスキーおよび現代社会について語る。急死する。

トーニー:世俗的に成功した官僚。「ぼく」に仕事を世話する。生来廉直誠実で寛容だが、政治家を目指しても自分の人生ではなく機械の一部でしかない、と嘆く。

園丁頭:市の公園課で働く男。植物や害虫に詳しい。花と美の世界には嫉妬も敵意も競争も欺瞞も虚言もない。

シド・エッセン:ユダヤ人の金持ち。人生を空しいと感じ「ぼく」と文学や人生について語り合おうとする。

ユーナ:「ぼく」がかつて恋い焦がれた女性。

 

(以下ネタバレ)

 ヴァルはアメリカの競争社会では一見落伍者。だが彼の思索は、友人たちとの対話の中で深まっていく。弁護士スタイマーは、ドストエフスキーを語り心の平和こそ大事だとする。官僚トーニーは、世俗の成功は生きる自分にとって意味がないとする。対して園丁頭の花と美を愛する生き方にヴァルは憧れる。(私はここでソローを想起する。)では自分にとって本当に意味のあることは何か? 文学創造にこそ生きる意味がある。だが筆は進まない。一時モーナたちに捨てられ絶望するが、守護天使が守ってくれていることに気付き蘇生する。やがてモーナがスターシャと別れてNYに帰って来る。生活も軌道に乗る。シド・エッセンとはユダヤ教や東洋思想についても語りあい、アメリカ社会のメジャーな思想を相対化し、アメリカ型の人間中心主義の世界観ではなく東洋の全自然を神聖とする感性をすばらしいと感じる。インド思想の比重は大きい。日本の一茶、歌麿、北斎、広重なども出てくる。アメリカは歴史の蓄積がなく浅薄で文学を理解しないが、ヨーロッパは歴史の蓄積があり文学や絵画などがすばらしい。ヴァルはヨーロッパ(特にフランス)に憧れ、モーナとともにパリに行こうとする。前半はここまで。

 

 ヴァルが列挙したものから、ヴァルが否定したかった「アメリカ」なるものが見えてくる。アメリカでは、世俗の成功を重視し文学や芸術に価値を置かない。花や美を重視する生き方は隠遁者(ソローもそうだが)のそれとみなされる。ユダヤ教や東洋思想は異文化だ。人間中心主義の物質文化がここでの「アメリカ」的なるものの正体だ。歴史と伝統がなく、人間理解が浅薄だ。かくしてヴァルはアメリカから脱出する。

 

 だが、ヴァルは実はこれら「アメリカ」的でない「非アメリカ」的なるものに、幼少期のNYで出会っている。ヴァルの住むNYのブルックリンにはユダヤ人をはじめとする移民が多く住む。黒人もいる。多様な文化と人種・民族が混在してNYを作っている。世俗的な成功者たちも、心に空虚を抱えヴァルと文学や芸術の会話をしようとする。移民の文化、いわゆる「非アメリカ」的なるものも含め、それらを全て含むのが<アメリカ>ではなかったか。

 

 翻って考えてみれば、作家ミラーはこれを1950年代に60歳代でカリフォルニアで書いている。実際のミラーは30歳代でパリに行った後結局NYに戻り、さらにカリフォルニアに移住する。その目で、パリ渡航以前の30歳代の自分を書いている。60歳のミラーの目が記述の中に入っているに違いない。ところどころにそれを示唆する記述がある、というだけではなく、世界観の描写そのものに、60歳のカリフォルニアのミラーがいるはずだ、と私は考える。(60歳代で『ネクサス』後半が書かれ、30歳代で書いた『北回帰線』と比較されれば、これはより明確になったであろう。)ミラーは「アメリカ」を否定し(NYにはまだプロテスタンティズムの正統が強固に残っており、かつ1920年代のNYは空前の金もうけに沸く社会だった。)、パリへ、しかしパリにも安住せずアメリカに戻り、かつ新天地カリフォルニアへ。カリフォルニアは、多様な文化が寄り合い寛容に共存しあい新しい文化を創造する場所。自由で風通しのいい場所。この意味でNYよりもさらに最も<アメリカ>的な場所。ミラーはこの意味で代表的・典型的な<アメリカ>人であり、60年代以降の新しい文化運動の象徴とも言える人物と言えるのかもしれない。未来はこのあたりにあるかも知れない。

 

(<アメリカ>は移民を多く受け入れてその中からよきものを立ち上げてきた。アメリカに限らないが、不寛容・純粋主義に陥るとその国は短期間で衰退し滅ぶ。これは世界史が証明している。東から西から多くの移民を受け入れそれらのごった煮の中から新しく創造的なものを生み出してきたのが<アメリカ>だとすれば、カリフォルニアの実験によって<アメリカ>は生まれ変わり続け実力を発揮し続ける、ということになる。)

 

(移民を排撃してやまないTもと大統領も、東ヨーロッパ・ドイツからの移民の子孫だ。もともとアメリカ大陸に住んでいた人が偉いのだったら、アメリカ先住民のナバホ族やイロコイ族やチェロキー族だけが偉くて、白人はヨーロッパに帰らなければならなくなってしまう・・)偏狭な排斥主義に陥った例は、最近ではナチス(ユダヤ人差別は有名だがゲルマン人至上主義もセットで理解したい)、大日本帝国(アジア解放は名前だけ。実際には・・)、今の中国(チベット人やモンゴル人への仕打ちを見よ)。古代や中世にも枚挙にいとまが無い。)

 

 他に少し気付いたことを並べてみる。

・ヴァルはモーナの稼ぎで食べている。いわゆる「ヒモ」だ。モーナには子どもは生まれないのか。また性病はうつされないのか。常識的にはおかしな話だ。ミラー自身が配偶者をどんどん替えているのもどうなのか。

 

・ヴァルは古今東西の文学や宗教、また絵画などに詳しい。一見自堕落な暮らしをしているように見えるが、相当の教養人だ。それとも、名前だけを聞きかじって振り回しているだけなのだろうか? ハーバード出身の知的エリートの誰彼とはまた違った印象だが・・

 

・作家志望の貧しい男が下町で女性と同棲する。西村賢太も尾崎一雄も坂口安吾も同様の状況にあったが、イメージが随分違う。世界観を書き改めようとする志の点で、スケールが違う。強いて言えば安吾の倫理性が近いか。

 

・自分とは何か? を「ぼく」自身が過去を回想しながら延々と語るのはプルーストも同じだが、随分違う。プルーストの方が読みにくいと私は感じた。ミラーの方が筋立て自体が単純で登場人物も少ない、プルーストはフランスの上流社会で会話も当てこすりなどが多く微妙、などの理由もあろうが、プルーストが徹底して自己の内面にこだわるのに対して、ミラーは世界を問題にしているからか。あるいは好みの問題か? 

 

何かに支配されず独立自尊で自由な生き方を求めるのは、ソローやホイットマン流の生き方かも知れない。

 

・60年代のカリフォルニアは功罪含めて世界標準になったのか? リービ英雄に聞いてみたい。

 

・ちなみに、エマソン1803~1882、ホーソーン1804~1864、ゴーゴリ(露)1809~1852、ソロー1817~1862、メルヴィル1819~1891、ホイットマン1819~1892、ドストエフスキー(露)1821~1881、マーク・トゥエイン1835~1910、ゾラ(仏)1840~1902、ゴーリキー(露)1868~1936、プルースト(仏)1871~1922、バルビュス(仏)1873~1935、ミラー1891~1980、フィッツジェラルド1896~1940、フォークナー1897~1962、ヘミングウェイ1899~1961、マーガレット・ミッチェル1900~1949、スタインベック1902~1962、サリンジャー1919~2019。こうして見ると、ミラーは、フィッツジェラルドやヘミングウェイよりも何歳か年長だが、パリに行くのが遅く、「遅れてきたロスト・ジェネレーション」であることがよくわかる。