「坂本町の水はどこから流れて来て、どこへ流れて行くのか?」その2/4 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

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 50過ぎてから気が付いたり、思い出したりもした。既に千葉県民歴の長さが神奈川県民歴を遥かに超えているのに。
 
 妹を引き連れて・・、否、殆ど無理矢理、付き従わせて何度も実施したドブ川行軍は、まあ大体いつも33番地のYさん宅の下の小径沿いで終了していた。そこが小径に上陸し易かったからだが、その先まで脚を踏み入れたことが無かったのは何故か?
 
 5丁目のドブ川は、ほぼ全域に渡って両岸ともコンクリートで補強された石積みの護岸工事が施されていた。
 その高さは岸に依ってまちまちで、積んである直径4〜50cmの石の個数で2つ3つくらいが平均的だったが、〝うちの前の石段を降りて突き当たる〟辺りは非常に高くて、7つくらい。そこから対岸の2つ3つしか積まれていない低地の畑まで、ドブ川を飛び越せるか否かは、近隣の幼きガキ共にとって、先ず最初に得られるか否かのステイタス・ポイントだった。「○○ちゃんは、とべるようになった!」みたいな。妹等は何度か失敗して・・。(笑)
 
 ところが、34番地の下の辺りの藪の中の東側の山側は、天然の草木がうっそうと生い茂った土手で、石積みの高ささえ確認出来ず。対岸は民家が川縁ぎりぎりまで建っていたため、上陸可能な陸地も見当たらず。
 しかも、その辺り一帯は東側のみならず南側にも山を背負っているため、昼間でも薄暗く、常に水気に満ちていて、ドブ川の流れは緩やかで、澱み川と云うか水溜まりのようでもあった。不気味な。
 水深も不明。その汚いドブ川に足の甲まで浸して運動靴を汚せば、母にこっぴどく叱られる・・、否、母の手を煩わせることになるから、敢えて行軍の続行を断念せざるを得なかったワケだな。毎度の如く。えらいだろ?(笑)
 
 行軍は常に爪先で水深を確かめつつ、浅瀬は元より、ドブの中に落ちている石や木や草や、当時でも洗濯洗剤のポリ容器くらいは日常的に捨てられていたので、それ等を足場にしながら、何としても運動靴の中にまで水が入ってしまう水没だけは避けて、1歩1歩慎重に着実に進めていた。
 もっとも、運動靴を水没させなかったとしても、このような私の奇行自体、母にこっぴどく叱られる対象外である筈もなく、母は当然、現役のプロの教育者だった父に何度も諫言を申し入れていたことだろう。
 父の方針は恐らく「放っとけ。」だったと思われるが故に。
 
 何故なら、父が語る自由とは「人に迷惑をかけず、すべて自分の責任に於いて遂行されること」で、ドブの中をざぶざぶ歩いたところで、誰に迷惑を掛けるワケでもなく、借りに世間体等が有ったとしても、それは母や世間の人々の至って個人的な価値観に過ぎないからだ。
 それ故に私は当然、汚れた・・、否、汚した運動靴は、小学校低学年の頃から既に自分で洗わされていたような・・。(笑)
 
 閑話休題。その辺りのドブ川は東側に山を背負っていて、実家もその段々に刻まれた山肌に建っている。実家にはなかったが、そこいらに建つ、特にドブ川に近い何軒かの家々には井戸が在った。知る限り、僅か100m以内に少なくても3本は在った。すべてフタで閉じられているものの、井戸そのものは現存している。それもまた2021年11月6日に確認済みだ。
 
 井戸が在るってこたぁ、地下水脈が在るワケで。34番地の下の辺りの藪の中の澱み川と云うか水溜まりの水源は、地上に溢れ出した地下水か。
 しかも、太古の昔から?となると、ややおもしろくなって来なくもナイ。(笑)
 
 ドブ川は5丁目17番地の辺りで、5丁目とはバス通りを隔てて向かい側の6丁目の谷戸から流れて来た別のドブ川と合流する。
 その谷戸には、小学生時代には特撮、野球、ゲーム、バケダマ(※ヒキガエルのオタマジャクシ)等、後年にはロック友達に発展したTが住んでいて、彼の家には5丁目とは水脈が異なるのか、やたら深い井戸が在った。それは後述の旧総本家やヘッドコーチ宅よりも殊更深く、覗いて観ると、水面が遥か遠くて真っ暗闇で、地獄の入口のように観えた。Tは同期のKISSファンで、リアルタイムで購入した『地獄の全貌』を事も無げに貸してくれたりしたが、流石に関係ないか。(笑)
 彼ともまた徒歩で、6丁目のドブ川の水源を探索したことがある。そこは宅地造成中の丘陵地(※たぶん、現在の逸見が丘の一角)で、草っ原の中の草から滴り落ちる湧き水が、やがてドブ川を形成しているのを確認している。
 
 どーだっ!? >父!・・と、エバりたいところだが、まだまだまだまだ。(笑)
 
 6丁目のドブ川と合流して水量を増したドブ川には、やがて5丁目4番地の辺りで、長さ約100m前後に渡って、豪雨の際に人が飲み込まれたら死ぬかも知れず、また平常時でも落ちたらハシゴがなければ脱出不可能な、深さ2〜3m程の凹型のコンクリート製の護岸工事が施されていた。底まで真っ平らにコンクリート舗装されている箇所も在り、現在はすべて完成している暗渠の部分的な先行段階だったのではないかと思われる。
 
 小学生時分にその川縁を自転車で爆走していて、その4番地の辺りのS字カーブを曲がりきれず、自転車は鉄柵に引っ掛かったものの、私自身はドブの中に放り出されたことがある。何しろ2〜3mの高さから徐に転落しているので、身体中あちこち痛くて堪らなかったものの、川縁は通学路になっていた上に、買いものの主婦等の往来も頻繁で、そんな状況に陥っていること自体、先ず何と云っても格好悪い! 護岸工事が未設だった川上の土手まで、ドブの中をびちゃびちゃ遡って、生い茂っていた草木に掴まってよじ登って、何とか脱出した。
 一体、何故、そこまで深い川にしておく必要があるのか?
 
 5丁目から3丁目に入って、旧O先生の書道塾の前を過ぎると、ほんの数10mの距離に過ぎなかったものの、ドブ川は民家がない天然の山裾を辿る天然の川となり、こと大袈裟に美化すれば、そこだけはまるで箱根や伊豆のような渓谷美を形成していた。「時は今、雨が下しる五月かな」の時期等は、まさに習字で書いた〝深山幽谷〟ってなカンジで。(笑)
 
 3丁目では、現〝八百虎〟のウラ辺りで4丁目から流れて来たドブ川、旧壬生医院の辺りで3丁目から流れて来たドブ川と合流して1丁目に入る。この3丁目や4丁目のドブ川の水源も辿ったことがあるが、やはり6丁目と同じような草っ原の湧き水だった。実家から目と鼻の先の距離ではないため、涸れたことの有無は不明だが、恐らくないだろう。
 1丁目の現在はセブン & ホールディングスに買収されてしまった(?笑)旧〝スーパーみねを〟のウラ辺りでは、豪雨の際に人が飲み込まれたら、先ず間違いなく死ぬだろうと思われる程、深くて、且つ幅もある川になっていた。しかも、その先には・・。(後述)
 
 恐らく最も遠い水源となる、5丁目34番地の下の辺りの藪の中の澱み川と云うか水溜まりからそこまでの距離は、僅か1km程度でしかない。 
 坂本町なんぞ、そんなに広大な面積を占める町でも何でもなく、最北東端から最南西端までせいぜい1.5km有るかどうか。そんな小さな町なのに、豪雨になれば人が間違いなく死ぬ危険性を及ぼす水量を有していたとは!
 
 この辺りからだろう。父が我々3兄妹姉弟に〝疑問に思ってほしかった〟のは。
 
 
※文中敬称略
※画像:小学校低学年の頃に私が履いていた運動靴(と同製品)。