「坂本町の水はどこから流れて来て、どこへ流れて行くのか?」その1/4 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

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私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 
 長男の私の夏休みの宿題に〝自由研究〟が付加された小学校5年次(:1972年)から、恐らく弟のそれが免除されたであろう彼の中学3年次(:1982年)辺りまで、現役の小学校教諭だった父は、毎年、上記の課題を私や、妹や、弟に押し付け・・、おっと!提案しては、毎年毎年、尽く却下されていたらしい。
 私が却下してきた理由は、既に答えが眼に観えているようで、「つまんなかった」からだった。
 
 因みに、課題の正確な名称は「うち(:実家)の前の石段を降りて突き当たるドブ川の水はどこから流れて来て、どこへ流れて行くのか?」だったが。
 
 いいですかい? Farther In The Sky?>父
 
 その〝うちの前の石段を降りて突き当たるドブ川〟に実際に浸って、川上に向かって歩いていくと、先ず31番地の美容院のウラを通って、33番地のYさん宅の下の小径に沿った後、34番地の下の辺りの藪の中に消える。せいぜい5〜60mの歩行距離か。その先には32番地の辺りに在った妹と同学年のK子ちゃん家(ち)の脇の、雨天時だけ水が流れるU字溝くらいしか見当たらないので、水源はその藪の中になる。
 そこもまた川の形態ではあったが、山側は天然の草木が生い茂る藪で、反対側は宅地だったため、実地検分からは除外せざるを得なかったが・・。
 
 ドブ中行軍は幼稚園から小学校低学年くらいだったか。妹を引き連れて・・、否、無理矢理、付き従わせて、何度か実施しているので間違いない。
 当時は文字通り生活排水溝で、特に午前中は何処かのお宅で洗濯をしていて、石鹸が混じった乳白色の水が泡を立てていたり、また何処かのお宅では風呂の湯を落としていて、バスクリンの香りがする緑色のお湯が湯気を上げていたこともあった。当然、何処かのお宅では赤ん坊のオムツを洗って・・。(笑)
 
 ドブ川はその藪の中から殆ど東側の山裾に沿うように北上して、17番地の辺りからは北東に向かう。3丁目を通過して1丁目の坂本公園からは暗渠となり、旧青葉小学校、現桜小学校、坂本中学校、不入斗(いりやまず)中学校等の敷地の地下を脱けて、不入斗中学校の正門の脇で再び地上に出る。
 その先は不入斗のテニス・コート、軟式野球場、陸上競技場、鶴久保小学校等の北側の小高い山裾を流れて、鎌倉時代からその名を遺す不入斗橋から佐野町に到ると、今度は真南に進路を変えて、公郷町で三浦半島一の大河、平作川に合流して、嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが黒船の艦底に生きたままのウシを沢山積んで来港した久里浜湾に注ぐ・・。で、おしまい。それだけだ。
 
 な?つまんねーだろ?(笑)
 
 こんなもん、研究でも何でもなく、実家の〝ディベート大会〟でも遥か昔から何度も何度も繰り返し繰り返し取り上げられていて、中途がより詳しくなったり省かれていたりしても、妹や弟もまあ大体、同程度の知識で、「また、そのハナシ?」みたいな。
 
 ところが、出題者の教師は「そうかなあ?」・・。もっと年嵩がいってからは「お前達、3人揃って、その程度かよ?」みたいな。
 
 確かに愚かだったな。兄妹姉弟揃って。
 
 先ず〝課題〟は、ドブ川の〝水〟が〝どこ〟から流れて来て、どこへ流れて行くのか?であって、既に敷かれていた〝水路〟のハナシだけではない。

〝うちの前の石段を降りて突き当たるドブ川〟が涸れていたことはない。それ処か、生活排水は無論、雨水まで下水道化されている現在でさえ、流石にさらさらではなく、ちょろちょろ程度ではあるが、常に一定の水量を保ちながら流れ続けている。最近では2021年11月6日に確認した。

 その理由として、愚かな3兄妹姉弟は「それはいつも、どこかの家で手を洗ったり、お皿を洗ったりしてるからだよー」で無理矢理、結論・・、否、納得しようとしていたが、現代と違って、殆どの住民が朝起きて夜は寝ていた当時の夜間でさえ、水はさらさらさらさらと常に一定の水量を保って流れ続けていた・・、否、現時点でも流れ続けているのだ。
 
 何故だ? その水は一体、どこから〝発生して〟いるんだ?
 
 
※文中敬称略