名門!坂本5丁目子供会ソフトボール部改・後編 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 結局、ソフトボールの練習は厭々ながらも参加し続けざるを得ず。

 昭和46年(1971年)度と昭和47年(1972年)度は、打席数や打数は少々あったとしても長打や盗塁は0で、単打や四球、死球、犠打も限りなく0に近く、毎日毎日ただイジメられるだけのために、自分はほとんど使うことがないバットだとかボールだとか、或いは組立式の簡易バックネットなどを担がされて、片道1.5kmの道のりを往復〝させられていた〟に過ぎず、練習時間の大半は、グローブの上にけつを乗せた体育座りで、試合形式の練習をただただ見学していただけである。

 しかし、見学ならまだ、IとふたりでTVの野球中継の真似などをして、それはそれでとても楽しかったものの、ノックとか打撃練習となると、技能的に極度に劣る私への大罵声大会が大開催されてしまうのだ。

 当時はソフトボールの技能どころか、全運動神経がまったくの0。
体育の成績は5段階評価で常に2か3だったんだから、大学の就職課で「何がいちばん自信ある?」と訊かれたときに、「たぶん全卒業生の中で、私よりも脚が速いやつはいないかと思われます!」なんて堂々と答えていたのが嘘みたいである。
ちなみにこの問い質はもちろん、広告デザインとかロゴ・タイプとか写真などの専門技能の中で、っちゅう意味だったんだけど、就職課も就職課で、最初の斡旋先は何と!ジャニーズ事務所だったんだぜい?(笑)

 私が入団した時点で、チームには6年生が3人、5年生が1チームぶん以上・・、それに4年生のサトくんとみちるがいきなしレギュラーで、それだけでも14人以上もいたんだから、Iや私は補欠の下の〝おけつ〟に過ぎなかった。

 3人の6年生にイジメられたり厭味を云われた憶えはまったくなく、Oキャプテンは如何にも上級生らしい人格を既に持ち得ていて、ほかのふたりも温厚な先輩だった。
サイアクだったのがうじゃうじゃいた5年生のやつらで、その中でもその翌年にキャプテンを引き継いだNは、まさにサイアク中のサイアクだったね!
 何しろ1つしか違わないんだから、こいつらには2年間イジメられ続けるハメに遭う。

 昭和47年(1972年)度には名将の評判が高かったS監督が、ひとりの6年生の母親から自分の息子の起用法でクレームを付けられて辞任してしまう。

 この一件を境にして、かつての〝名門〟チームは次第に〝凋落〟の一途を辿っていくんだけど、そんなことはどーだっていい。
モンダイはむしろ、子供会の役員を務めていた父親が生半可に監督を後任したりしたもんだから、私にはさらにイジメられるネタが増えてしまったのだ!
当時、父親が務めていた小学校はすぐ隣町だったんだけど、それでも練習にはほとんど先ず来れやしねーんだからね!!!

「おい!カントクはどーしたんだよ!?」
「いま学校です。」
「学校ですじゃねーんだよ!呼んで来いよ!」
「早く行けよ!」

 これを毎日だぜ!?飽きもせず、毎日毎日!!!
新キャプテンで粘着質のNを中心に、上級生たちが寄ってたかって!

 翌年の私たちの代もまた監督には恵まれなかったんだけど、それなりにガキ同士で頑張った・・、っちゅうよりも、もっと健康的に楽しんだもんなんだけど、やっぱし1つ上の連中はあたまがわるいやつばっかしだったんだな・・。(笑)

 この9年後、米が浜(:横須賀市内の地名)のクラブでたまたまNが4~5人の連れと飲んでいたので、そのテーブルにいた女の子たちを全員、たったふたりで出掛けていったこちらにぶん獲ってやった。(笑)
けどな・・、そんなもん序の口と思えよ?
私はおまえなんかとは較べものにならないほど超~粘着質なんでね。
 今後、坂本で出会ったときには下を向いて歩けよ!え?おい、Nっちゅうか、おまえら全員な。

 それにしても何故、父親は出来もしない監督に就任したんだろう?

 いまで云えば同姓故にチチロー、当時で云えば星 一徹、ちょっち前なら原  貢になろうとしていたようなタイプではない。
むしろ出来もしないことに迂闊に手を出す・・、引き受けてしまう性分こそ、比較的身近に存分な心当たりがあったりもするよーな・・。(笑)

 見学ばっかしに甘んじていて、ぺっちゃんこに潰れたグローブを目の当たりにして、それを買ってくれた父親への申し訳なさは生じていたとしても、私は「何くそ!」と自らその打開を試みられるようなガッツ溢れる子ではなかった。
このころ、父親が私を始終、頻繁に叱咤激励(?)していた言葉は「意気地なし!」だったんだけど、ただただ鬱陶しいだけでしかなく、帰宅してからも父親にイジメられているようなものだった。

 外科医は自分の家族を手術しないっちゅうか、出来ないと訊く。
父親もまたその本業に於いては、私や妹や弟が通い自分の母校でもある旧横須賀市立坂本小学校への赴任を望まず、40年間にも及ぶそのキャリアでも遂に実現させなかった。

 ただ、父親自身はどうもソフトボールが好きみたいで、町内会の成人チームでは長い間、サウスポーのピッチャーとして実際にたまを放っていたりもした。
また、著書『昭和の子ども』には、戦後復学した三浦中学(:現在の三浦高校)野球部への入部を希望したものの、体力の至ら無さから断念していることが記されている。
 それ以前には肺活量不足で、海軍のヒコーキ乗りへの夢を閉ざされていたりもするしな。

 彼の3人の子どもの中で唯一、私だけが運動ができる。

 器械体操や球技はそれほどでもないんだけど、100m11秒4、110mハードル15秒、400m56秒、さらに水泳は自由形で何mっちゅうよりも、ほぼ永遠に泳ぎ続けられることが高校時代には判明していたんだから、ジャニーズ事務所からお呼びがかかっていたとしても不思議じゃないだろ?(笑)
 もちろん、いままでに体力や肺活量不足から何かを断念したことなんか一度もナイ。

 父親は自分にはできなかった夢を託したかったのではなく、自身の挫折感を味合わせたくなかったのかも知れん。
幸か不幸か、私には認知している息子とか娘がいないので、その心情は計り知れないものの、生産者の片割れとして、それくらいの希望が託されていたとしても、託された本人としては特に異存はない。

 小学校4年生までの私は確かに口先だけが達者な、くそナマイキなガキに違いなく、それ故に特にこの名門!坂本5丁目子供会ソフトボール部に入団して2年間は毎日毎日、大いにイジメられ続けていたんだけど、やっぱし天は正義を敬うのか、私はこのころから急激に強靱な肉体とある程度の運動神経を授かり、それがこの数年後の〝大ジェイク時代〟到来の原動力となっていく・・。(笑)


 完

※初出:2005年09月16日「名門!坂本5丁目町内会ソフトボール部・2」より改ざん
※文中敬称略