多摩美術大学・3 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 1979年、高校3年になると当然、進路指導などというものがある
ぼくは音楽、美術、書道と3つある選択芸術科目のうち美術クラスだったため、
美術科の担任であり二科会の洋画家でもある青木 道夫先生に受験指導を受けた

“おまえが、か?”

 先生は鼻でせせら笑うように仰った
それまでに2年間、美術を受け持って戴いているのだから、こちらの適性はもちろん、
勉強ができないもんだから美大でも受けるか、みたいな魂胆まで見抜かれている

“で、何を受けるの?”

 当時の芸大/美大には、
大きく分けて油絵科、日本画科、彫刻科、デザイン科、建築科があり、
デザイン科の中にグラフィック・デザイン、立体デザイン、染色デザインがあった
 
“油絵です”
 
 先生はもっと鼻でせせら笑うように続けた

“やめといたほうがいいんじゃないの?
 はっきし云うけど、鈴木は絵なんか描いていける人間じゃないと思うよ”

 先生とは、先に生まれているから先生という
だが、青木先生はただ先に生まれているだけではなく、心底真っ正直な人間である
いま現在のぼくが当時17歳のぼくに忠告するとしたら、同じことを云っているだろう
 絵なんか描けて、芸大なりそのほかの美大に進学できて、
さらにそれで人生を送り続けられる(生活の手段としてだけではなくて)人間なんて、
それこそ極々限られた特別な人間であることを知るのは、もっとあとのことだけに

 さらに青木先生はさすがに先生だけあって、美術科の担当教諭として、
ごくごく僅かでありながらも、ぼくに見つけられた可能性を諭してくれた

“でもさ、鈴木はおもしろいことをよく思い付くよな
どうしても芸大や美大を受験したいんだったら、デザインで受けてみたらどうだ?
あっちは何よりもアイデアが勝負の世界なんだからさ”

 デ・ザ・イ・ン・?

 予備校でも大学でも、また社会人になってからも、訊くところに依れば、
デザイナーなんか志したやつの大半は、もっと以前からデザインが好きだったやつである
それこそデザインすることが楽しくて仕方がない、みたいな・・
 ところがぼくは絵画(描画)は好きだったものの、小学校や中学校のときにあった、
図画工作や美術科に於けるデザインは嫌悪感がするほど大嫌いだった
何か意味ねー気がして(笑)

 ただ、“アイデア”という言葉には魅了された

 1979年、高校3年生の1年間は昼間、高校に通って映画を作り(笑)、夕刻以降は毎日、
横浜の関内にあるYMCA予備校の芸大/美大受験科の夜間部デザイン科に通った
さらに青木先生の反対はあったものの、土日は三井画伯の洋画研究所にも通ったし、
高校の空き授業の際には、美術部の臨時部員になりすましてデッサンを続けたりもした
 こうなってくると俄然、梶原 一騎的な側面が出てくる・・(笑)

 ぼくは現在までの44年間の生涯に於いて、努力なんて呼べることを3回しかしていない
1回めは高校受験、2回めはこの芸大/美大受験、3回めは計4度経験することになるが、
大学時代のボクシングに於ける減量だけである

 予備校で、洋画研究所で、或いは高校の美術部の部室で、それこそひまさえあれば、
デッサンを続けていたものの、どうもぼくはほかの受験生のように描けナイ・・
描き上げた作品を見比べてみても、ぼくのはどうも鉛筆の線そのものが少ナイ
 で、どうしたと思う?
まず、両手首に弟から借りたパワー・リストを着けて、腕の筋肉そのものを鍛えた(笑)
さらに主に描くほうの左手には文鎮を挟んで尚一層強化し、それを12月頃まで続けた
で、受験間近になってパワー・リストを外してからは、両手で描いたり、
さらに必要に応じては両手に2本ずつ計4本の鉛筆を持って描いたりもした
 バカみたいだけど、こんなずば抜けたアイデアで目的を達成したのは、ぼくだけだろう
鉛筆デッサンにはドイツのステッドラー社の4Hから6Bまで、
9段階の硬度の鉛筆を使用していた(3Bと5Bは使わなかった)ため、
4本同時描画用に常に最低36本もの鉛筆を持ち歩いていたものだった
ちなみにステッドラー社の鉛筆は当時1本\100である

 だが、翌1980年2月、ぼくは東京芸術大学美術学部デザイン科と、
多摩美術大学美術学部デザイン科グラフィック・デザイン専攻を受験して、
見事に(って云うか呆気なく・笑)玉砕した

 それだけしか受験しなかったのは、ぼくは東京芸術大学に受からないわけがなく、
滑り止めの多摩美ですら受からなかったら、才能がなかったとして諦めよう、などという、
相変わらず高慢稚気で身の程知らずな態度が健在していたためである
また、多摩美のグラフィック・デザインに匹敵する武蔵野美術大学の視覚伝達デザインは、
この年は例年になく受験日が重なっていて併願のしようがなかった

 ガキの時分から、浪人なんかまさか自分がそうなるとは思いも寄らなかった身分だった
同1980年3月、自責の念で実家を出て、朝日新聞の新聞配達に依る奨学金制度で、
横浜YMCA予備校の昼間部に通い始めたものの、わずか3ヶ月で実家に連れ戻されてしまう
親にしてみれば、受験だけに専念して2浪は絶対にしてほしくなかった心持ちからだった


つづく